日  録 時ならぬ5月病  


2014年5月1日(木)


7日ぶりの休日、数日前に名古屋のO君が送ってくれたカボチャの種を、待ってましたとばかりに庭の畑に蒔いた。去年ゴーヤが成った棚の下、約2平方メートルくらいのところに全13個を直まきした。

添えられていた手紙には「直径25センチくらい、だいだい色の、美しい実をつける」と書かれていた。秋の収穫まで4、5ヵ月あるが、よく実ってくれることを願って「美しいカボチャ」と命名することにした。


2014年5月3日(土)

パレットを見ると「挙母」という漢字が書いてあった。字面からなんとはなしに郷愁をそそられるが、読めないのだった。はるか昔に、どこかでめぐり逢った記憶はあるが、それも思い出せない。ただなつかしいという感覚のみ。

何時間か経って「ころも」と読むのかも知れないと思い当たった。家に戻って調べるとはたしてそれは合っていたが、肝心の思い出とは切り結ばなかった。そんなのがあったのかどうかもあやしいものだと思う。なにもかもが夢、幻の閾に入っていくのだろうか。


2014年5月6日(火)

昨日死去が報じられた渡辺淳一の本を一冊だけ持っている。『乳房喪失』の歌人中城ふみ子の評伝小説『冬の花火』である。今日になって、まだあるか、みつかるかと訝りつつ漁っていると本棚2列目、『鉄塔家族』(佐伯一麦さんの傑作)の横にあった。意外と大事にとっておいたんだなぁと奥から引っ張り出した。

一緒に黄ばんだ葉書が出てきた。消印が「昭和53年3月12日」、まだ消費税もない頃の「20円はがき」である。配偶者の従兄からで、札幌から東京本社に転勤になったとワープロで印字してある。「是非お遊びにおいで下さい」と肉筆の添え書きがある。

それから4、5年後、入院中の息子のことを案じて札幌から来てくれた医師の叔父をタクシーに乗せて高島平から保谷市(当時)のその従兄宅まで連れて行った。同居していた叔母(叔父にとっての姉)にもからだの不調があって診る必要に迫られていたのだった。

さらに何年かあとに勤め先の近くに従兄が工事監督を務めたスーパー銭湯が建って、縁がつながっていくことを喜んだ。そのうち、叔母が亡くなり、2年ほど前には同世代の従兄も高尾山登山中に急逝している。

奥付を見ると『冬の花火』は昭和50年11月の刊行。なかに新聞の書評記事(あまりにも小さな活字にビックリする)の切り抜きが挟まっていた。「女流歌人 恋とガンの生涯」の見出しで小松伸六が書いている。この本が手元にあるのは、中城ふみ子の文庫本歌集を持っていたからである。その文庫本は学生時代に出逢った放浪の詩人・Nからもらったものだった……という風に記憶はどんどんさかのぼってきりがない。34、5年の間には抜け落ちた記憶もあるだろうが、いまだ鮮明な記憶もある。相応に長いというべきであるのだろうか。

ともあれ 若かりし頃に魂が共振した中城ふみ子の歌にはこんなのがある。

〈蛍火の只中にゐて見つめゐる怖れよ君は死ぬかもしれぬ〉

〈不遜なるわが生き方に赤痣の浮くほど頬うつ人もあれかし〉


この評伝小説の中に上の二首は引用されていなかった。この本に36年前の葉書を挟んで、文庫と並べて本棚に戻した。余談ながら、10年前になくなった叔父は(渡辺淳一の母校で、中城ふみ子が入院していた札幌医大ではなく)北大の出身である。

また、あのとき入院していた息子からは昨晩「入籍したよ」との電話連絡があった。お嫁さんは1月1日、息子は7月7日が誕生日である。入籍・5月5日とは、あえてぞろ目を選(よ)ったかと埒もないことを父は思うのであった。喜びもいっそうであるとほくそ笑みつつ。


2014年5月7日(水)

朝、気温がひと桁に逆戻りした。陽光が届くようになって1時間ほど経った7時過ぎにやっと9℃である。肌寒く感じる。さて何を着ていくか、と思った瞬間『聖書』を手にしていた。

《何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。》

小さな活字に目を凝らして、読み進める。この一節のおわりは、こうである。

《あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。》

人口に膾炙した「マタイ書」(新約)の一節である。それを思い起こすとは、畢竟“衒学の朝”であった。


2014年5月9日(金)

こんどの日曜日は母の日。母も義母もすでにこの世にいなくなってしまったが、その日がたまたま義父の誕生日と重なるというので、家族連名でレタックスを送った。

《百歳の誕生日、万歳! うれしいね。めでたいね。よく食べて、夜はゆっくり休んで、どんどん長生きしましょうね。》 (文案は、長女である配偶者)

100年と言えば1世紀。50年以上前のこと、長寿だと喜ばれた母方の曾祖母も90歳くらいで亡くなっている。いま日本全国、いや世界中で100歳以上の人が何人いるのか知らないが、これはなかなか尊いことだと思う。


2014年5月12日(月)

メーデーの1日に蒔いた「美しいカボチャ」の芽がいくつか出ていることをこの朝確認した。実るまでにはまだ何ヵ月かを経なければならないが、「栴檀は双葉より芳し」などということわざがふっと浮かんだ。なかなか堂々とした双葉である。

父の戒名はたしか「栴誉……居士」だった。葬儀のあとではじめて見たときも、栴檀の栴だと思った記憶がある。それは28年ほど前のことで、4年前に死んだ母の戒名は手元にある「中陰表」に「蓮誉照室芳月禅定尼」とある。蓮も栴も名高い植物の名前である。時季になれば花も咲く。そんな浄土にふさわしい名前をもらったわけである。

ところで、双葉を見たぼくは帰りにきっと本屋さんに寄ってお目当ての本を探そうと思ったのである。そして、わざわざこんな決意を自ら表明しなければならないほど、疎遠というか間遠になっていることに気付いた。現世から遠ざかっているような寂しさがあった。

あのことわざのアンチは「十で神童、二十歳過ぎればただの人」または「大器晩成」らしい。気温が一気に上がって初夏のようであり、苗もぐんぐんと伸びていくはずである。「美しいカボチャ」に一歩ずつ近づいていく。嬉しいことだ。帰り道、遠まわりして辿り着いた本屋さん『よむよむ』には目当ての本(NHK出版 100分de名著 『旧約聖書』と『新潮』)がなかった。明日もまた、別の本屋さんに行ってみよう。


2014年5月15日(木)

夜半外に出ると満月だった。所用を済ませた30分ほどのちには、遠く離れてほんのりとしただいだい色の暈ができていた。幽玄な光景だが、その一方であしたも雨が降るのかなぁと凡庸なことを思った。

お昼過ぎに、この辺一帯の地主のAさんが前の畑に下りてきた。庭からあいさつをすると「もうちょっと欲しかったですよね」と返ってきた。午前中のほんのいっとき、おしめり程度の雨が降っただけだったから、育ちざかりの農作物には物足りない。茄子やトマトやキュウリやカボチャの苗を植えたオモチャのような菜園を見返りながら「ほんとですよね」と答えたのだった。

その少し前「100円ショップ・ダイソウ」で買った散水ノズルの具合を確かめるために車と庭に向けて水を撒いていた。雨が上がった直後にやることではないが早く確かめるに越したことはない。そこへ近所のSさんが車で通りかかった。止まって窓を開けたので「ホースとノズルがぴったり合わないようなので、試しているのです」などと縷々言い訳めいたことを言った。

そんなグダグダとした休日のおわりに「満月に暈」であった。これで帳消しかと思いきや、日付の変わるころの夢で、

喉が渇いたので外に出た。30メートルほど歩くと道路のど真ん中に自動販売機を設置している最中だった。夢の中とはいえ見慣れた景色である。道路をふさぐように設置してもいいのかい、とまぜっかえしたいところだったが、飲み物を買うのが先だと擦り寄れば、あまりにも大きすぎて硬貨を入れる場所まで手が届かない。いわんや選択ボタンをや、である。踏み台を使ったり、はしごを探そうとしたりしてなんとかして新設の巨大自販機から買おうとしている。設置に携わっている人が数人いるようだが顔もはっきりしなければ、手助けしてくれる気配もない。ひとりウロウロするばかりだ。

今日一日、あまりの締まりのなさにげんなりであった。


2014年5月18日(日)

「学生時代のサークル仲間たちと結婚のお祝いとして小冊子を作っているところですが、○○(息子の名前)君の幼い頃の話を伺いたいと思っています。ご都合をお聞かせください」というメールが来た。まったく奇特な、ありがたい企画で否も応もない。

何日か後のインタビューに向けて準備しなければならなくなった。「生い立ちの記」つまりときどきのエピソードを思い出そうとしているが、公にするほどのものとしてはいまのところ二つか三つくらいしか浮かばない。が、1、2時間息子の友人たちの前で話さねばならない。それには予習が欠かせないのだが、過ぎ去った年々の記憶を掘り起こすことは見方を変えれば復習でもある、と思った。

配偶者はいろいろなことをよく覚えていて、あのときこうだった、こうしてくれていれば良かったのに、などと往々にしてぼくを詰る。覚えていることも覚えていないこともあるが、いずれにしてもいまさら言われても詮ないことである。もちろんお祝いの小冊子には不向きな事柄で、ついこの間も、投げやりに「そうか。父親失格だなぁ」と呟くと「その通りです」と断言された。

ここでの復習は反省であり、懺悔である。明日に役立つものではない。としても、遠く時を隔てて復習していかなければならない。後藤明生に『復習の時代』というエッセー集があったこともついでに思い出した。「素材」と「方法」を考え抜くことはどんな場面でも必要であると気付かせてくれた本だった。

イクメンの時代、お父さんに聞くという「企画」なら仕方ないがと思いつつ「母親も同席していいですか」と問い合わせると即座に「どうぞ、どうぞ、是非に」と返事があった。荷が軽くなった。


2014年5月22日(木)

午後、関東の南の方では竜巻や雷や大雨の警報・注意報などがこもごもに出されていたが、ちょっと奥に入ったここ(埼玉・日高)では風はやや強かったが爽やかで、空は晴れ渡っていた。夕方になって表情豊かな真っ白い雲が天の裾を取り巻くようになった。積乱雲になるのかなぁと見上げながら写真を撮った。

午後7時前にもう一度空を見ると、南の空に雲のかたまりはまだあった。空との境では数秒おきにだいだい色の閃光が走っていた。小さないなびかりだった。写真に撮ろうと何回も試みたがうまくいかなかった。携帯のカメラはシャッターを押してから実際に撮影するまでの間に何秒かの間がある。映らない、遠い花火。


2014年5月26日(月)

帰り道ラジオで野球中継を聞いていた。試合が行われているところは「みよしちんたい球場」という。みよしは広島県北の街・三次とわかるが、実況のなかでアナウンサーが何回叫んでもそれは「ちんたい」と聞こえる。試合の経過よりもその意味が気にかかった。「命名権」とやらで会社名を冠しているのかとも思った。だとしても「ちんたい」とは!

家に着いて実況をテレビで見ることになり、試合の進展に興奮しながらも、画面やアナウンサーの言葉にヒントはないかと耳と目を凝らしていた。同点から丸のホームランが飛び出してカープの勝ちがほぼ確定した直後に球場は濃霧に包まれた。

霧の街として日本のロンドンなどと呼ばれていたことはなかったかなぁと記憶を呼び起こす。照明灯の前が真っ白になっている場面はなぜかなつかしかった。ご当地出身の永川や梵が出てそれぞれ渾身の力を振り絞った。思いがけずいいものを見たと思った。

終わってからネットで調べるとその球場は正式には「みよし運動公園野球場」や「三次市民球場」と呼ばれ、愛称を「みよしきんさいスタジアム」ということがわかった。ちんたいなんかではなくきんさいだった。「きんさい」は、「こっちへおいでよ」という意味の方言である。腑におちた。


2014年5月29日(木)

蕎麦が食べたいなぁと思えば昼に蕎麦が出てきて、唐揚げを…と思うと夕食に出てきた。こんな暗合は稀有なことだった。以心伝心かなぁ、とつい調子に乗って言えば「なにも伝わってきませんでしたよ」と配偶者は言下に否定するが、ことほど左様に最近の関心の対象は食べることであると思い知った。

「小さいときに、お父さんの楽しみはなに? と聞いたら、そりゃ食べることさ、と答えた。私は唖然としました。それしかないのか、と」

そんなことを言ったような気もする。照れ臭くて、韜晦気味に、そこへ逃げこんだのかも知れなかった。それにしてもこどもはいつまでもつまらないことを覚えているものだ。

それから30年以上経って、食べることと生きることが一体となった感はある。ある種の強迫観念に近いので、もはや道楽=楽しみとは言えない。何年か前に、こうやって食えるだけありがたいことだ、と本気で感謝の念を口にしたことがあった。少しアナクロ的な感慨かと思ったが嘘ではなかった。このとき配偶者は一瞬絶句したようだった。


2014年5月31日(土)

憂鬱な気持ちのまま家を出、まだ5月なのに今日もまた30℃を越えたという外の様子をほとんど経験せずに冷蔵庫のなかで忙しく立ち働いた。終わってからもカープが致命的な敗戦を喫したなどというニュースがあり朝の気分は霽れなかった。

ところが先週24日に川越で受けた「インタビュー」の初稿が届いていて、これは感心するやら、ありがたいやらで、興奮した。息子の友人たちの企画で、結婚を祝う小冊子に載せるためのインタビューだった。二親の特徴を引き出して、息子本人の姿をあぶり出すような構成に仕上がっていた。とりとめもない話の中からよくまとめたものだと思った。なみなみならぬ腕前だ。

明日からはその結婚式もある6月である。晦日とともに「時ならぬ5月病」も已んだ気配にホッとする。


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