日  録 「パワースポット!」 

2014年6月2日(月)

一週間ほど前、G・ガルシア=マルケスの『十二の遍歴の物語』『落葉(おちば)』と『予告された殺人の記録』の三冊(いずれも新潮社)が本棚の最下段、いつも坐る食卓の椅子からみると足元に、運よく(?)並んでいたので再読するつもりで取り出しておいた。『百年の孤独』は探せども見つからなかった。

『十二の遍歴の物語』は「なぜ十二なのか、なぜ短篇なのか、なぜ遍歴なのか」という創作メモのような「緒言」が8ページにわたって続くが、ここはパスして十二篇をすべて読んだ。

「電話をかけに来ただけなの」と「雪の上に落ちたお前の血の跡」は読みながら思い出して、今回もやりきれない悲しみの感情につつまれた。「いくつかのゆきちがいから精神病院に収容されて本当に狂っていくこと」や「指の傷の治療が遅れて死に至ること」は、人生の不条理、運命の度し難さを現前に喚起してくるのであった。

やはりこういうモノがぼくは昔も今も好きなのだと再認識した。普通ならばすっかり忘れているはずなのに読みながらかすかに記憶が甦ってきたのはそのせいだろう。この勢いで他の二冊の本も読もうと思った。

ところで、きっかけは星野智幸氏の「ガルシア=マルケスのたどり方 濃厚な魔術的リアリズムへ」(5月25日・朝日新聞読書面)という記事だった。


2014年6月3日(火)


無償の愛・メートルが上がる・消息子……今日気にかかったことばである。

2番目は「ゆうべはメートルがぐんぐん上がってね」などとお酒をたくさん飲むことを言うが、実際に使った記憶はない。ひとつ上の世代で使われていたのであろうか。50以下の人たちにはおそらく通じないだろう。もはや死語かも知れない。

3番目の消息子は、調べるとゾンデのことらしい。といっても普通の人間には馴染みのないことばである。どんなものかを知っていても(ことばを)使うことはまずあり得ない。

実は『予告された殺人の記録』の最後の方に「小用の度に消息子で云々」と出てきたのである。25年ほど前にはじめて読んだときにも調べたらしく鉛筆で「耳かき」 と書き添えてあった。

こんどはネットで調べた。耳かきの意味もあるとあったが文脈から言えば「ゾンデ」の方がピッタリである。それにしてもなぜ訳者(1948年生まれの野谷文昭氏)は「消息子」としたのだろうか。 医療関係者はいまもそれを使っているのだろうか。そんな疑問とともに気にかかったのである。

無償の愛、これは永遠の課題であり、リスペクトである。


2014年6月4日(水)

仕事先に少し早く着いたので田舎に電話をした。よほどの用事がなければかけないのだが、今回は息子の結婚を報告することだった。もっと早くにすべきところをついいま頃になってしまった。しかしすでに知っていた。

はじめは嫂が出た。無沙汰を詫びたあとしばらく話した。たまたま家にいた兄と代わって、「本当なら来てもらうべきだけど、親族だけで式を挙げ、披露宴は仕事仲間と友人中心、と言うものだから……」「えぇえぇ、それでえぇ」と兄は言った。

気がかりな叔母や甥の消息を聞いた。「ではそのうちに」と電話を切った。4分にも満たない時間だったが、しばらくして穏やかな気がこみ上げてきた。血あるいは地の力というのはこれだろうかと思った。


2014年6月5日(木)

朝から雨を待っていた。予報に反してなかなか落ちてこなかった。昼近くなってやっとパラパラ。気にかかっていた町田康の「雨女」(130枚、『新潮』6月号)を読みはじめる。

恵子の美しさは「人の苦しみと悲しみを自分の苦しみと悲しみとしている人の美しさ」とある。恵子が心の中に喜びを感じると雨が降り続き大きな被害をもたらす。だから「どうか私を苦しめてください。私を悲しませてください。そうすれば雨はやみます」と言うのだった。

これは雨乞いの逆バージョンで、大団円では龍神も生け贄も出てくる。「愛が救った土砂災害」などという、冗談とも本気ともつかない言葉が飛び出し、スプラスティックを装って人心を「嫋嫋と」煽ってくる。

梅雨入りの日に心地良く読むことができた一篇だった。


2014年6月6日(金)

大雨洪水警報が出ているなか、終電に乗るという娘を迎えに駅に行った。遅れていると聞いていたが定刻頃には駅前に車を付けて待っていた。ロータリーにはやがて数台の車が止まった。定刻から十数分過ぎたころ、上りの回送電車が通過していった。その直後、駅構内の明かりが消えた。二階の改札に至る階段は真っ暗になった。

運転取り止めか、と一瞬ドキッとした。ホームの照明は点いたままだったので、それはないだろうと考え直した。それにしても、なぜこのタイミングに消えてしまったのだろう。

午前1時過ぎ、ほぼ1時間遅れで電車がやってきた。構内の灯りは消えたままである。暗い階段を降りてきた乗客が雨のなかに飛び出してくる。

節電のために消したとしても、遅れた終電車が着いたこの時点ではもう一度点けるべきではないか、と思う。気配りのない駅であった。


2014年6月8日(日)

4日間ずっと降り続いている。ときおり大降りにもなる。動きのおそい低気圧のせいだという。午後10時前に家の中まで雨音が轟轟と聞こえてきたので窓を開けて見た。それだけではもの足りず、二階に上って見た。すると雷が遠くで鳴っているのだった。しかしこの驟雨、長くは続かなかった。

14日の結婚披露宴の終わりに両家を代表して話す役が待っているが、キーワードがみつかった。それは「パワースポット」。spot をstop と言いまちがえそうだから、滑舌を訓練しておこう。草稿全文もちゃんと暗記。


2014年6月12日(水)

帰り際に「あなたはどこでしたっけ?」と訊かれ日高と答えると「逆方向だな。ダメか。電車が動いていないので困っている人がいるので、送ってもらおうと思ったのだが」と言う。どこまで? と訊くと志木という。

即座にいいですよ、と答えていた。三十数年間通い続けた街である。所沢から志木へのルートも四、五年前までは二つの仕事をこなすために毎日のように走っていた。断る理由は心的には微塵もない。

その女性はセンターの移転にともなって県北の大宮から志木に引っ越して一年足らずという。夏なので自転車通勤も考えるんですがなんか道々坂が多い感じがして、などという。そういえばそうかも知れない。

柳瀬川を越えて市内に入ると、三年ぶりくらいだなぁと思った。何も変わっていない。「このまままっすぐ行くとジョナサンの横に出ますがそこで降ろしましょうか」「あ、ジョナサン、ジョナサン。お願いします」アパートはそこからすぐだから雨降りのなか助かる、ということをそんな意味不明の言葉であらわしていた。図に乗って「志木のことは何でも聞いて下さい」。

アームを挙げたまま踏切に進入したクレーン車が架線に接触したという。荷台の廃材が燃えて復旧まで4時間半を要する大事故だった。事故現場は見当がついたので少なくともそこら辺りは避けねばと思いながら車を走らせていたが、川越市街を離れるあたりから大渋滞となっていた。

知らず知らず現場に近づいていたので、これは不思議な心理だと思った。勝手知った裏道に入り込んで日高秩父線に出てからやっとすいすいと走れるようになった。

きのうはそんな一日だった。

明日から三日間は福岡である。


2014年6月16日(月)

ゆうべ福岡から戻ってきた。着いたときは午後の11時になっていた。今回は新幹線で往復したから移動に合わせて11時間近くかかった。次回からはやはり飛行機に如くはなし、と思い知った。

そして、結婚披露宴に「親」として臨むということは、武士の世なら「家督を譲って引退する」ほどの覚悟を強いる、とも思い知った。

もちろん譲るほどの家督があるわけではないので、これは比喩であり、後段の「引退」というのがさびしい実感となって迫ってくるのだった。これとて、ごくごく個人的な感想で、たとえのひとつにはちがいないが、それほどに働き盛りの人たちの元気に圧倒される披露宴だった。俗に言えば若さがうらやましいと思うのだった。

「父親御礼の挨拶」もその元気を「パワースポットにいるようです」と形容してみた。そのほかのことばは手に持った原稿の半分もしゃべれずに終わった。

見送りの時に「パワースポット、ですよね」と言ってくれる人がひとりだけいた。新郎(息子)の仕事仲間の人だったようだが、通じていたことがわかりホッとした。


2014年6月20日(金)

先日、豊島ゆきこさんの歌集『冬の葡萄』(青磁社)が届いた。帯に「或る小さな家族の物語」とある。付箋を手に順番に読んでいると、人生のかけがえのなさ、切実さが溢れていて思わず涙ぐみそうになる。

☆ 恋を得しわが青年よこれの世の奥行きふかきこと知るだろう

☆ 目的地周辺です、とナビ言へどわれは五十二、ここは何処なの

☆ 予約をし、また予約をしわたくしの生をこの世に繋ぎとめおく

これらは5年間の前半部分で、後半になると、

☆ この年も賞罰なしの夫なり少し濃い目に茶を淹れてやる

☆ しづかなる源流かわれ 小さけれどずつしり重きみどりご抱けば

陽射しに向かうような歌が増える。再生・蘇生の物語のようにも読める。短歌の力か、ことばの力か。

(ネットにはこんな感想も出ていた。 http://www.sunagoya.com/tanka/


2014年6月24日(火)

岩波書店HPで加藤典洋氏の連載評論『村上春樹は、むずかしいがはじまった。毎月更新されるそうだが第1回は『村上春樹は「文学ぎらい」か』である。作品を少ししか読んだことのない身にも、論旨はわかりやすく、腑に落ちていく。第1回の終わりに、

《村上は日本の純文学の高度な達成の先端に位置する硬質な小説家の系譜に連なる。(中略)村上は野球帽を捨てない(「若造り」の─いつまでも若いことをよしとする─小説家)からといって何も「文学ぎらい」ではないのだ。》

とある。「村上春樹の文学的達成の実質を計量すること」をめざすというこの連載、先が楽しみである。

22日日曜日から思いがけず新聞宅配が復活していちばんはじめに読んだ記事が寺田博著『文芸誌編集実記』の書評だった。評者の角田光代氏は寺田さんから言われた言葉を引用している。

《世の中に残っているすべての小説は希望を書いている。希望を書きなさい。寺田氏がくり返した言葉の意味がわかったとき、ようやくある小説を書き、それで文学賞をいただいた。その祝いの席で、「きみは文学をサボらなかった」とこの老編集者は言った。

「文学ぎらい」も「文学をサボらなかった」も粋なことばだ、と思う。それを書き、書き遺す両氏もまた!


2014年6月29日(日)

5月初めに種を蒔いたカボチャの花が一週間ほど前から咲き始めた。傍若無人に地を這う茎から立ち上がる大きな葉、その間に屹立する大振りの黄色い花である。

けさも近づいて見分してみた。わが手で受粉して「美しいカボチャ」に結実させたいと手ぐすね引いて何日も待っているが、花はすべて雄花。葉をかき分けてつぼみを調べてみても、雌花らしきものが見当たらない。大丈夫だろうか、とつい不安に駆られる。

なにが不安かと言えば、雄花はいずれも威勢はいいが、肝心の雌花がないと名実ともにあだ花になってしまうからである。め花よもっと咲け、早く咲けと叫びたくなる。

追記:2日後の7月1日の朝、地面近くに待望の雌花が咲いていた。ところが、あれほど威勢の良かった雄花がすべてしぼんでいる。花弁をこじ開けてみると花柱を取り巻く花粉はすでに色褪せて、受精の力はないようだった。儚いものである。また、うまくいかないものである。


2014年6月30日(月)

『図書』7月号では横尾忠則氏が脳神経科学者の櫻井芳雄氏と対談(「芸術と科学の向かう先」)している。「(引用者補注;最先端の美術に興味を持っていない)興味はむしろ、古典絵画の方へ向かっている」と語ったあとで、

《下手でも何でもいいんです。チョンと点を打つのでも、線を引くだけでも、そこに「霊性」が宿るんだったら。それには努力も必要です。努力といっても、技術的な努力ではないですよね。自らを問いつめていくような努力といえばいいんですかね。》

ほかにも読む者の魂をグサリと突き刺すような表現(「考え」または「思い」)が出てきた。はじめて「横尾忠則」を見た『新宿泥棒日記』から、数えてみるとざっと45年である。1936年生まれというから、当時33歳。朴訥そうな、初々しい青年と見え、ほとんど同世代の感覚だった。いまも、こういう発言に接すると、どこかほっとしたやすらぎを覚える。

一年の半分が今日で終わった。この半年、2回九州に行き、「パワースポットとしての結婚披露宴」を経験した。参加してくれた人たちに謝辞を述べる新郎である息子がついに感涙してことばが途切れ途切れになったのも、見知らぬ土地での4年間、人にも仕事にも恵まれて今日を迎えた喜びだったのだろう。これも「ひとつの霊性」のように思うが、そういうことへの感性を失っていないことがわかって二親はともどもに安堵した。「あじわひふかき人の生(よ)」への二人の門出として上々だったのである。

短時間とはいえ、福岡在住の旧友との数年ぶりの再会も果たした。「パワーよ、われらにも」と思った。


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