日  録 安曇野、黒部と野麦峠 

2014年7月1日(火)

蒸し暑い一日だった。安倍内閣は「集団的自衛権などの行使容認」を閣議決定した。5000人もの人たちが反対のプラカードを掲げ、シュプレヒコールを繰り返しながら首相官邸を取り巻いているという。

そんなとき安倍首相がラジオ、テレビを通して詭弁を弄していた。何が彼をしてこんな拙速なことへと駆り立てるのだろうか。やがて徴兵制へとすすむのはあきらかである。怖いうえに、虫酸が走る。


2014年7月6日(日)

「二六時中」と「四六時中」のちがいがいまさらながら気になって調べてみた。そして、納得した。一日を12時(とき)とした旧暦から一日24時制の新暦に移行するときに言い回しが「二」から「四」に変わったという。意味はもちろん同じで「一日中、一昼夜」。

もともとは昼六時、夜六時、で「二」なのである。それが「四六時中」になると、4×6=24と変じる。ただ、一日を6時間毎に区切って生活する習慣はあまりないから、単なる言い換えと思った方がいい。たいしたことではないが、どちらを使うか迷う。伝統か、革新か。


2014年7月7日(月)

夜10時前に用事があって外に出ると空にはうすぼんやりとした半月が浮かんでいた。しばらく見上げていると、星がいくつかきらめいていた。嬉しくなって南の空を凝視したがさすがに天の川までは確認できなかった。


2014年7月11日(金)

ここ二、三日は、未明に目が覚めて朝方まで配偶者と話し込んできた。といってもほとんど過去の所行について難詰されているようなものだったが、不意に「あなたのことばには文学がない。つまり口を衝いて出ることばはでまかせのようで、華もない、実もない(意訳)」というのであった。

納得してはいけないが、もっとも身近にいる者の言として的を射ているとも思うのだった。日常生活において「文学」の報いを受けているのだと観念する。


2014年7月12日(土)

「人間ドック」を受診するため、川越線・東上線・副都心線と乗り継いで新宿へ。最後に乗った電車の行き先は「元町・中華街」だった。いまや、渋谷から東横線、みなとみらい線へとつながっているという。これしも旧聞に属することであるのだろうが、3年前に「渋谷行」に乗っておどろき、今日横浜との近さを目の当たりにしてまた驚いた。現代の浦島太郎の心持ちである。

超音波検査、採血から始まった「人間ドック」はバリウム胃検査で終わった。去年この胃検査は、高血圧のために直前でドクターストップがかかったので、2年ぶり。前回の記憶はほとんどなかったが、バリウムを飲むことも、左右、上下に動く機械ベッドの上で指示されるままに輾転反側を繰り返すことも、やはり心身に堪える。

いまにも出てきそうなげっぷをこらえ、ときに指示をまちがえながら、早く終わることを念じていた。浦島太郎どころではなかった。


2014年7月17日(木)

昨16日5時半、配偶者とともに東所沢に向かう。富良野に戻る配偶者を、6時55分発の羽田空港行きのリムジンバスに乗せるためである。いつもなら坂戸か川越発とするところだが、その近くにアルバイト先のセンターがあり、今日は勤務日なのでどうせならと思ったのである。

仕事がはじまるまでの3時間、車の中で眠っておればいいやと考えたがこれは誤算だった。早朝から陽射しが強く、窓を全開にしてもそよとも風は吹かず、汗がだらだらと出て、眠るどころではなかった。

駐車場には木陰がない。暑さに追い立てられるように、休憩室に入ったが、ここでは横になって眠ることはできない。持ち来たった新聞を読みながら2時間近く過ごした。「労働」に入る前に肉体の疲れがくるようだった。

午後7時近くなって配偶者から「着きました」というメールが来た。家を出てから13時間が経っていた。長い一日、ご苦労さん、と返信した。5月に百歳を迎えた義父の介護のための富良野行きも、もう4年目に入っている。ほんとうはこの一日よりも、これからの介護の日々が、多くの労苦をはらんでいるのだろうと思い遣る。

さて、われは今日休日。空虚感にひたりながら、所在なさにうろうろする。が、思い直して、友人宅の本棚からもらってきた富岡多恵子の『逆髪』を一気に読んだ。


2014年7月20日(日)

日付だけ書いて中身が書けないことがある。次の日、日付を消してまた新たな日付を書き込む。それを何日間か繰り返す。

先頃亡くなった河原温には『日付絵画』と名付けられた作品があるそうだ。この稀代の現代美術家は、日付を消さずに「Painting」にしてしまったのである。宮内勝典さんの初期の傑作『グリニッジの光りを離れて』には彼(「河名温」)とその作品との出会いがこんな風に描かれている。

「じゃあ、これ……毎日描くわけですか?」
と私は訊いた。
「そう、終わりのないゲームなんだよ、死ぬまで楽しめるからなあ」
河名温は、ふふっと笑った。照れくささと苦笑が入り混じっていた。
奇妙な人間がいるものだな、と私は思った。(中略)何の変哲もない今日、地球の一回転する時間が〈一九六七年四月六日〉と名づけられ、そのキャンパスに記されている気がした。これを毎日、毎日つづけているのか。まるで宇宙人みたいな男だな、と思った。(河出文庫版より)

ともあれ、中身が書けないことには日記としては様にならないわけである。生活実感が遠のいていくような気がする。これでは、“I AM STILL ALIVE”と言えないのではないか、と悩んでしまう。

小中学生の頃、夏休み日記は毎日書いていただろうか。ちょっと怪しくなってきた。


2014年7月22日(火)

この夜、また門灯に光りが戻って来た。

超古い(おそらく40年前に取り付けたままの)門灯であるが、入居した頃は正常だった。何年かあとにスイッチを入れても反応しなくなり長い間そのままにしていたところ、昨年12月に突然点くようになったのである。しかし、それも長くはつづかず、5ヵ月以上経った今日、また点いたのである。

点かなくなった理由も、突然点いた理由も、ともに不明である。取り外して配線を調べるような器量がないので、霊気の仕業か、などとこの現象を楽しむしか術がない。

あのときにも思ったが、門灯はあった方が断然いい。なのに本気で直そうとしなかったのは、いつか(遠い国から光りが)戻って来るのを期待していたからか。それとも、いつきえるかもわからないモノに愛惜を感じるからか。


2014年7月24日(木)

5時に目が覚めて、待ちきれず、9時過ぎには近所のスーパーに隣接するカー用品専門店に出かけた。ところが、広い駐車場には車が二、三台しかない。あれ、休みかな?

すぐに別の店をめざして走りはじめた。オイル交換をしておかなければいけない、と何日も前から考え続けていたのだった。今日こそは! 逸る心が結局無駄足を踏ませることになる。

国道沿いにあったはずのお店は、ドラッグストアと100円ショップ「ダイソー」になっている。さらに国道を北上していった。十何年も前に利用したことがあるきりだったが、記憶をたよりにその店をめざした。かつての片鱗というか面影はあるもののメインはスポーツ用品を商う店となっている。

あの店から8キロほどの地点まで来たことになる。引き返しながら、あの店の思いがけない定休日がけちのつきはじめ……ふと思いついてメンバーズカードを見ながら電話してみた。

時刻は午前9時57分である。電話に出た女性に「今日やっているのですか?」と訊けば「はい、10時から7時半までの営業です」ときた。迷うことなく振り出し点(店)に戻った。

自分が早起きだからといって、サマータイムでもあるまいに、開店は9時からと思っていた。思い込みは“おとろしい”という教訓話。道理で、国道沿いのお店はほとんどがまだひっそりとしていたわけである。


2014年7月26日(土)

午後7時前に家に戻るとすぐに、ホースをセットして庭に水を撒いた。まったく突発的な行動だった。やっと辿り着いて疲れていないはずはないのに、面倒な作業を思い立ったのである。

この家には庭に水道栓がないので裏側のお風呂場から長々とホースを回さなければならない。窓を開けてホースの先を中に入れ、蛇口に差し込む。ひねるとすぐに水がホースを伝わるが、玄関から外に出てホースを手にするまでに少なくとも十数秒のタイムラグがある。ここらあたりが面倒なゆえんだが、水撒きの快感には代えられない。

暑い日だった。仕事は冷蔵庫の中にいるのでほとんど実感しなかったが、終わって外に出ると「熱湿気」がぼわっと肌に張り付いた。これは凄いと思った。

向かいの畑では、近所の人が土を掘り起こしている。夜近くなってやっと作業をすることができるようになったのだろう。ホースを振り回しながら、水の膜に虹よかかれ、と念じた。

4日後には恒例の「信州合宿」に一泊だけ参加できることになった。標高1300メートルの場所というので、この猛暑を一瞬忘れることができる。いやそんなことよりも、再会の前から、長年の友の熱さが胸に沁みる。楽しみ、楽しみ。


2014年7月31日(木)

夕方一泊の信州合宿から戻ってきた。行きは関越・上信越・長野の各高速道路を通って安曇野ICまで、帰りは安曇野ICで車線をまちがえたために中央道・圏央道経由となった。前日出るときに0にした走行メーターは656キロになっていた。ことしもたま、至福の時を持つことができた。友の良さとありがたさを実感した。

30日、安曇野で3人と落ち合って、黒部ダムに行った。展望台からアーチ型のダムを見おろし、迫りくる立山、赤沢岳の峰を見上げ、こんなところに発電所を作ってしまうとは、人の力こそは計り知れず大きいものだと思った。

映画『黒部の太陽』を見た記憶はないが、NHKの『プロジェクトX』は見ているかも知れない。展望台ではテーマ曲「地上の星」が流れていた。中島みゆきがここで、この歌を唄った何年か前の紅白ははっきり覚えている。

すると佐世保出身のY君が、父親がここでの仕事に関わった、と言うのでビックリした。「黒部川第四水力発電所建設事務所」が開設される前年にクレーンの設置のために派遣された。写真が残っていたので、亡くなる前に訊いたのだそうである。Y君はそんな縁故のある場所にはじめて立っているのだった。これもまたいい話だった。

展望台まで運んでくれたトロリーバスは今年50周年だという。原発だとこういう観光資源にもなり得ないわけだなぁ、とふと思う。知恵と想像力は、翼があるだけにどこに至るかわからない。これは人の世の不思議だろうか。

31日は野麦峠に行った。野麦とは熊笹のことだとはじめて知った。その昔、熊笹の実を粉にしてだんごを作って食べたそうだ。実は50〜60年に一回花が咲いたあとにできる。さらに資料館で「民謡会津磐梯山で、“宝の山よ、笹に黄金のなりさがる”というのは、イネ科の、この熊笹のことです」という説明を聞いて、目から鱗だった。

いまも峠に群生している熊笹が雪に埋もれる季節に12歳の少女たちは最大の難所を越えて、飛騨から長野・岡谷の製糸工場に向かったという。

昼前に、飛騨高山・郡上八幡に立ち寄って帰るという3人とはここで別れた。山本茂美の原作を元にした映画『ああ野麦峠』のダイジェスト版を見たあとだったせいか、ひとりひとりと握手しながら不覚にも涙が出てきた。

この“ああ野麦峠”は「see you again」でなければならないというのに。


過去の「日録」一覧へ