日  録 処暑と「秋隣り」

2014年8月2日(土)

ああ、8月。もう8月と言わねばならないのだろうが、三日前の信州合宿で思い出したことがある。

夕方と朝にウグイスの鳴き声をたくさん聞いたことである。白樺の梢を縫ってBGMのようにずっと聞こえていた。そこにはホトトギスのものも混じっていたかも知れない。聞き分けることはいまだにできないが、ともに、きよらかな高音の響きは胸の奥に突き刺さってくる。

里でもそうだが、鳴き声はすれどもその姿は見えない。ここでも、みんなでまっすぐ天に伸びる木を見上げて、首が凝り固まるまで眺め回したがついに見つからなかった。

「あれはウグイス? それともホトトギス?」
博識のO君に訊くと、
「ウグイス。ホトトギスは、東京特許許可局、だよ。」

明解な返答を得た。

野麦=熊笹もそうだが、ほかにも、ホタルブクロ、ナナカマド、うつぎなどを実際に見ることができた。また、大町の「酒の博物館」では吟醸酒、純米大吟醸酒などのちがいを知った。

かくて、これはひょっとして社会科見学ないしは勉強合宿か、と思うようになったのである。生きているかぎり、人と交わり、人の話を聞くことが勉強に他ならない、とまで詰めて、納得した。


2014年8月4日(月)

帰宅早々に水撒き。凡庸ながら、うだるような暑さに地面が悲鳴をあげている。悲鳴をあげているのは本当はこのからだである。水をかけて冷やしたいぐらいである。

庭の野菜、キュウリはもう終わりだが、ミニトマトはまだまだ鈴生りの青い実を付けている。茄子もピーマンもあと何個かは収穫できそうである。水を撒きながら、この時刻になると、あたりはすでに薄暮になっていることに気付く。日の入りを調べると18:43。日々日が短くなっていく。夏至からもう1ヶ月半も離れたわけだから、さもありなん、か。


2014年8月6日(水)


去年もこんなに暑かっただろうか。朝の5時にはすでに28℃、窓を開け放つも風はそよとも吹かず。8時前には、我慢も限界となって居間に駆け込んでクーラーをつける。

69回目のヒロシマ、平和祈念式典の中継を見ていると広島は本格的な雨のようだった。いつもは晴れわたった空に蝉の鳴き声が響く炎天下で行われてきた。この日に雨が降るのは43年ぶりという。現在の年齢から43を引けば22歳となる。それは広島での最後の夏だった。もちろんその日が雨だった記憶はない。

ところで、ここ何年かは「平和宣言」と子供代表のあいさつを聞くのが楽しみになっている。とりわけ後者は未来の希望であると思うからだ。戦(いくさ)を捨てた日本、69年間いくさをしなかった日本の希望。

それなのに、再び戦争のできる国にしようとしている首相のあいさつは聞く気にもならなかった。それは去年のものと5割強が酷似していたらしい。時の政府を「三百代言」と呼ぼうか。


2014年8月7日(木)

朝になって突如、右肩が痛みはじめた。鏡の前に立つと首の根元の鎖骨がぼこっと窪んでいる。自分のからだでないような気がしてビックリする。肩の下がり具合も、痛みをかばうのか、いつもより大きい。暑さと同じでじっと我慢して、痛みが遠ざかるのを待つしかないのである。

かつてこんな痛さはあっただろうか、と記憶を辿るが、あったようななかったような、微妙さである。あったという記憶がたしかにあればやがて治まると安心するのである。ただ突然痛み出した理由はいつも通りわからない。

右に首をねじるときに、不意に激痛が走るのだったが、そのうちソファーに寝転がって右腕を頭の下に枕のようにあてがうととても楽なのを発見した。今日配偶者が帰ってきたのを幸いに、野球中継を見ながらほとんどその姿勢で過ごした。カープが久々に勝ったのを確認して早々にベッドに入った。目が覚めたときには、已んでいてくれ、と願いながら。


2014年8月9日(土)

5月1日に植えた13個の種からカボチャがひとつ実った。種を送ってくれたO君によると、だいだい色の美しいカボチャになるということだったが、実にその通りに育った。もともとは富山県の道の駅で見つけたモノだとも言った。

食べるのを楽しみにしていたところ、先般「信州合宿」で逢ったときに話題にすると「あれは観賞用だよ」と言われてしまった。それから10日近く経って、さらに凛々しく育ちいまや収穫目前である。やはり食べたい。

ふたつのSNSに写真とともにそんな思いをくだくだと述べたところ、年配の女性から「器量よし!」とコメントされた。もちろんカボチャのことであるが、一緒にほめられたような気分がした。食べるのは冬至まで待とうか。


2014年8月10日(日)

夕方近くなって雨風がやや強くなった。雨はときに激しく降り、風は台風の目を回り込むように吹く南よりの風である。

家に戻ると玄関先の龍眼の木が吹き飛ばされていた。幹が長く伸びている不安定この上ない鉢植えなので風に弱く以前も何度か倒れたことがある。が、こんどのように敷石の下に一メートルも飛ばされるのははじめてだった。幸い木自体に損傷はなかった。囲いのある右側の地面に避難させておいた。その後も夜半まで強風が吹き募り、ブリキの雨戸がガタガタと音を立てていた。

昨(9日)夜は台風の影響で風はあったがそんなに強くなかった。近くの河川敷(親水公園)で花火大会が行われていた。迫りくる台風を案じながら雷鳴のごとき花火の音がしていたのである。二階からは曇り空に原色の火花がちらっと見えたが、音ともどもたのしむ気にはなれない。

こんなときに花火なのかい? と半畳のひとつも打ってみたくなった。先に娘が「KYだなぁ」と呟く。配偶者は「楽しみにしていた人がいっぱいいるんだから」ととりなす。それはそうだが、とり止める勇気も時に必要、と云々。


2014年8月12日(火)

起きて何時間か経っていたが、からだがふわふわと宙に浮き立つような気分になったのでベッドに横たわった。すぐに眠りがやってきて目が覚めたのは2時間後だった。完全に熟睡していた。ふわふわも熟睡も、ともに涼しさに誘われたとしか言いようがなかった。

身も心もすっきりとして、一日のやり直し、と決め込んだ。われがうたた寝する少し前に草むしりをはじめた配偶者もすでに居間で寛いでいた。まだ雨は落ちていなかった。


2014年8月15日(金)

お盆である。去年10月27日に亡くなった義兄には初盆になる。突然の死だった。その3年前2010年の暮れに、母の葬儀で逢ったのが最後となった。ただ2012年の晩秋に電話で話している。兄に代わることは滅多にないことだったので、いま思えば虫の知らせみたいなものがあったのだろうか。おかげでそのときの内容とともに兄の声はくっきりと甦ってくる。ありがたいことである。

お盆のこの日、兄は生まれ育った田舎にも大阪の自宅にも戻ってきているのだろうか。悠然とした歩きぶりと、こぼれんばかりの笑顔が目に浮かんでくる。あぁ、逢いたい。


2014年8月17日(日)

残暑お見舞い申し上げます。

雨上がりの涼しさを体感した身には、ふたたびやってきた猛暑は堪える。この日アルバイト先のホワイトボードには本来出勤の人が「体調不良」で出られなくなったと記されていた。

親しい人に委細を訊ねると「起きるとめまいがして歩けなかった、からだがふらふらすると電話がかかってきた」という。たしかひとつ歳下の人だが、当方にも思い当たることなきにしもあらずで、他人事のような気がしない。

2年ほど前に「めまいのため、ふらふら」となって、ついに仕事に来られなくなった人がいる。何回か自宅に寄ってお見舞いした記憶があるが、その後どうしているか。その人は当時60歳手前だった。

最年長の同僚は6月下旬に突然検査入院となり、いまなお退院していないという。どれもこれも暑気あたり、いわゆる鬼の霍乱というやつのような気がする。

みなさん、元気に残りの夏を乗り切りましょう。


2014年8月19日(火)

朝K病院に行くときはそうでもなかったが、昼過ぎに外出したときの暑さは凄かった。車の中自体がすでに50℃近くあったせいもあろうか、片道4キロの往復で精一杯。早々に家に戻った。


2014年8月21日(木)

休日の今日も朝からクーラーのある居間に佇んでいた。ちょうどテレビでは『戦争と人間 第三部 完結編』(山本薩夫監督、五味川純平原作、1973年)が始まったばかりだったので寝転がって見た。3時間以上の大作だったが「巻を措く能わず」見終わった。

映画は1914年の「ノモンハン事件」を背景に、巻き込まれ、翻弄されていく人たちを描いていた。『兵隊やくざ』のようなカタルシスは得られなかったが、2、3回涙が出てきた。どんな場面だったかをいま思い出そうとしているが、なかなか思い出せない。ひとつは、日本軍に殲滅させられそうになった村に八路軍がやってきて幼い子を救う場面だった。これはたしかかだ。「もう大丈夫だ」と赤い兵士は抱きかかえたこどもに言うのだった。

20日未明には広島市で雨による大規模災害が起きた。山裾を切り拓いて建てられた家々が土石流に流されていく場面に戦慄を覚えた。可部線は何度も乗った。途中下車して太田川の支流で川遊びをしたことも思い出した。その源流が土砂崩れを引き起こしたのである。元凶の雨は「バックビルディング現象」によってもたらされたという。この気象用語ははじめて聞いた。


2014年8月24日(日)

きのうは二十四節気のひとつ「処暑」。暑さがやわらぎ、新涼(秋の初めの涼気)が近づくころという。

そのせいかどうか、前日までの寝苦しさはなかった。5時過ぎに起きて、窓を開けると涼しげな風がはいってくる。パソコン画面上の温度表示は23℃となっている。長く伸びた髪をばっさりと切ったことも涼しさをあと押ししてくれた。

小中時代の夏休みは、毎日川に出かけ泳いだり魚を捕ったりしていたが、「地蔵盆(24日)」といわれるこの頃になると水がとても冷たく感じられたものである。もう夏休みも終わりか、友たちとため息のひとつもついただろうか。

ウィキペディアによると、地蔵盆とは道祖神信仰と結びついて路傍や辻の地蔵さんをお祭りする行事で、今日ではおやつを振る舞うなど、子供のための祭りにもなっているという。都会生活で、そういう行事から遠く離れてしまったが、思い当たる節がいくつかある。

広島の土砂災害は、こどももおとなも一緒に押し流した。なお行方不明の人たちが41人もいる。ひとりひとりの無念に心が痛む地蔵盆である。

追記;生まれも育ちも埼玉の人ふたりに「今日は地蔵盆だよね」と話しかけると、ともにキョトンとした。主に近畿地方のもので、関東・東北にはこういう行事はないらしい。


2014年8月26日(火)

終日雨。今日一日何をして過ごしただろうか。ドメスティックなことではすぐに二つ三つ思い浮かぶが、心が待ち望む何かをやったかと自問するとき、忸怩たる思いに囚われてしまう。

そこで、寝しなに三浦哲郎の「じねんじょ」(平成二年川端康成文学賞)を読んだ。

やがて母親の置屋を継ぐことになる四十近い娘が、死んだと聞かされていたのに実は生きていた父親と街のフルーツ・パーラーではじめて面会する。娘は八十過ぎの老人の「父親が気取った老紳士でなくて」ほっとする。

同じクリーム・ソーダを注文し「どちらも無言のままたっぷり時間をかけて」飲んだあと、この朝早く起きて掘ってきたという「じねんじょ」をお土産にもらう。「ま、二人で麦とろにでもして食ってけれ。」このあともうひとひねりあって、余韻の広がる短篇である。

「言葉を惜しみながら」(作者の受賞の言葉)書いて、これなどはたった14枚だという。それでいて、読む者の心に響いて、ひとつの世が現前する。ことばの力を思い知らされた。

2014年8月28日(木)

秋雨のような雨が降り続く。

午後2時半にCATV機器の交換が予定されていたので、それまでに済ませておくことがあった。

ここに移ったときテレビアンテナは東京電力から無償で提供されていた。上空を送電線が走っているのでその補償ということだった。地デジ完全移行の何年か前に東京電力傘下のケーブルテレビに加入することになった。有料となってしまうが、テレビを買い換える、アンテナを立てるなどの厄介事を回避するためだった。

こんどひょんなことからデジタルテレビの提供を受けて、重くて大きいアナログテレビを片付け、新しいテレビに接続し直さなければならなくなった。HMDIが何かわからないようにこういうことが年とともに苦手になっているので、たまたまその時期になっているケーブルテレビのチューナー交換を今日にしてもらったのである。

アナログからデジタルへ、ともあれ3年遅れでわが家もついにそんな時代を迎えたわけである。

もうひとつの気がかりは、たったひとつ実ったカボチャである。いつ収穫すべきか。毎日眺めていると、日々オレンジ色が濃くなって早くとってくれと悲鳴をあげているような気もする。今日、よっしゃ、と思い立ったが念のためにネットで調べてみると「雨の日は避けよう。」と書いてあった。理由の如何を問わず、ただただ納得した。晴れた朝を待とう。

人間の中身はやはりデジタル化というわけにはいかないようだ。


2014年8月31日(日)

ああ8月かと呟いたのがついこの前のような気がするが、その8月がもう終わる。このところは一気に秋の気配である。秋らしい秋もなく9月の厳しい残暑を経てすぐに寒い冬がやってきたような印象があるのは、去年か、あるいは一昨年か。その記憶はすでに遠い。2月の大雪はさすがに覚えているが、それにしても、月日の巡りは異様に早い。

気が早いがことしはどんな「秋」が現出するのだろうか。旅に出たくなるようなモノなら上等だが。


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