日  録 天空に揺れるコスモス

2014年9月2日(火)

毎月1日に送信されてくる広島平和記念資料館メルマガも今月は134号である。ということは発刊以来12年目に入っているということだ。いつものクセでつい自分の年齢・来し方とくらべてしまうが、第1号が出たときは53歳、それがいまや……、はるか遠くへ来てしまったと、感慨も深い。ともあれ、毎回楽しみにしてきた記事は巻頭コラム「ヒロシマの風」である。

今月は広島市立大学広島平和研究所講師の桐谷多恵子さんが「7月のある休日の午後、夏の花を手に原民喜が眠る墓地を訪れる。」(タイトルは「鎮魂」と「心願」)という書き出しで原民喜について書いている。

原民喜の小説「鎮魂歌」と「心願の国」からのやや長い引用がコラムのテーマ(筆者の主張)「彼が見た夢の実現を誓う」と響き合って、共感を誘った。そこで早速、本棚から『夏の花・心願の国』(新潮文庫)を取り出して「鎮魂歌」を読みはじめた。

悲惨な土砂災害に見舞われた広島。いま、最も近い言葉は? などと考えながら読んだが、次のような一節が胸に響いてきた。

《向側よ、向側よ、……ふと何かが僕のなかで鳴りひびきだす。僕は軽くなる。僕は柔かにふくれあがる。涙もろくなる。嘆きやすくなる。嘆き? 今まで知らなかったとても美しい嘆きのようなものが僕を抱きしめる。》

ついでながら「鎮魂歌」はぼくの生まれた年・昭和24年に発表されている。原民喜はその2年後の1951年亡くなっている(鉄道自殺)。渾身の言葉は何年経っても色あせない、とつくづく思った。



稲葉真弓氏が30日に亡くなった。1980年に「ホテル・ザンビア」で作品賞を受賞している。作品賞は、寺田博さん編集の文芸雑誌「作品」が創刊前に募集し、創刊号に受賞作が発表された。その後「作品」は7号まで出したところで休刊となってしまったので作品賞も第1回だけで終わった。その賞の6篇の候補作のひとつが「行逢坂」(「作品」1981年3月号に掲載)だったというわけである。大昔のそんな小さな縁だが、64歳というのはまだまだという歳である。ご冥福をお祈りする。


2014年9月3日(水)

早朝、ふと思い立って、きのうの日記の一部を中国新聞「広場」欄に投稿した。前に一度したことがあるので日録を調べてみると2002年の8月6日だとわかった。8日には投稿文が掲載され、11日に図書館で確認した、と書いてあった。それにしても12年も前である。そんなに経ったのか、と驚いた。

そのときの投稿文は「民喜から学んだ惨劇」(ぼくの付けた題は「この夏の稀有な出逢い」だった)。長い時を隔てて、原民喜とつながっていくのもひとつの縁であるのか。自分で言うのもヘンだが。


2014年9月4日(木)

《パソコンモニターの左下がゆらゆらと揺れ、時々全体が発光するようになったのが1週間ほど前のことでした。すわ、故障か、またはよからぬ電波が机周辺を徘徊しているのか、と慌てたものですが、昨日、電源タップを見るとプリンターへのコンセントがちかちかしていたので差し替えたところ、以降「現象」が止みました。こんなことってあるのでしょうか。それとも単なる偶然でしょうか。》

こんなメールを親愛なる、若き友人・Eightに送ったところ、ほどなく返事がきた。

《(前略)さてさて、ディスプレイの不調についてですけれど、僕は体験したことはまだありませんけれど、その結論で正しいような気はしております。

特に「プリンターへのコンセントがちかちか」していたとありますけれど、ブレーカー機能付きの電源タップをご利用ですか? もしそうでしたら電力(電圧?)不足による「ちかちか」が発生していたものと考えられます。(中略)

つまり、想像ですが、プリンタへの電力供給が何らかの原因で上手くいかなくなっていたため、同じ電源タップを利用するディスプレイへの影響が出てしまった。特に最近のディスプレイは省電力機能などがあるので、些細な電圧変化に過剰に反応し、もしくは静電気を蓄積してしまい、画面の揺れなどを発生してしまったのではないか、と。》

にわかにストンと腑に落ちた。凄い知力である。続いてこんなアドバイスをしてくれるところが、実はEightのEightたるゆえんであるのだ。

《今後の機器管理としては、 ・プリンタなどの周辺機器の電源ソケットを分けてみる。 ・電源タップ自体の異常を考慮して交換してみる。 ・静電気の放電のためたまに電源を丸ごと抜いて放置する。 などでしょうか?》

ありがとう、エイトマン! (60年代のこのヒーローの名前を知っている人は少ないだろう。ぼくはかすかに覚えている。)



午後、映画『精霊流し』をテレビで観た。さだまさしの原作は読んでいないが、10年ほど前の当時、ベストセラーだったので名前は知っていた。長崎を舞台にした、惻々としたいい映画だった。最後に古式にのっとった精霊流しを再現していて興味をそそられた。

3時を過ぎると少し陽がさしてきて、ミンミンゼミがしきりに鳴くようになった。朝干した洗濯物はまだ乾いていなかった。


2014年9月7日(日)

何を着ていくか、迷いもしなかった。真夏の出立ち…半袖のTシャツ一枚…で出かけた。雨もよいの外は、鳥肌が立つほどの寒さだった。昨日よりも5、6℃低いとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。そのまま出かけた。なかなか長袖にするチャンスがない。この時期は「衣替え」が難しいということか。あるいは異常気象のせいか。

学生時代の友人からメールが入っていた。「非常勤の客員編集委員として、机も電話もパソコンもあって、好きな時、出社している」とあった。本人も言うように「サラリーマンとしては理想的な境遇」である。

「前期高齢者」などという、味わいも、情けもない「役所言葉」に騙されてはいけない。生き生きと生きるのみである、などの文意で再返信した。しかし、うらやましいなぁ。


2014年9月9日(火)

テレビで1956年製作の古い映画を見ていると、京都の呉服問屋のいとはんが「しょうもないもんですが、持って帰って」と食べ残したお菓子を紙に包んでお客さんに渡す場面にでくわした。

「しょうもない」はいまでこそ滅多に使わないがかつては多用した。ばかばかしいとかくだらないとかの意味だが、とても便利な言葉であるばかりか、この京阪の方言には妙にあたたかさがあることを思い出した。

相手の言動を完全にさげすむのではなく、よくぞそんなアホなことを、と半ば感心しているのである。自身もある行動、ある言葉に対して「しょうもない奴やなぁ」とよく言われた。いちいちの言動の中身を覚えているはずもないが、腹が立たなかったことだけははっきりしている。

この言葉の語源を調べてみると「仕様がない」の訛ったカタチとあった。それが本当だとすれば、仏教的なものに淵源すると期待しただけに、ちょっとがっかりした。彼の地ではいまなお「日常的に」使われているのだろうか。



昨夕のラジオのニュース番組(NHK)では、地球温暖化を示す具体的な変化はありますか、それはなんですか、とキャスターに聞かれて、専門家が答えていた。いろいろな例を挙げたと思うが、うーんと唸ったことは、

北海道で美味しいお米がとれるようになったこと、と、ミカンの北限が埼玉県あたりまできていること

の二つである。前者は「ゆめぴりか」という品種である。品評会でコシヒカリを抜き、値段も最高額がついた、と言う。ここ二、三年は、ときおり送られてきて食べる機会がある。美味しいとは思ったが、それほどのものとは。しかも、温暖化の賜物(?)とは。

わが家の庭の端っこにある蜜柑の木はことし二十数個の実を付けている。かなり大きいから、ここまで来るとすべて食べられるはずだ。植えて4,5年くらいになるが、はじめて実がついたときは二個、その後も毎年三つか四つであった。それを思うとことしは驚異的である。木が大きくなったからだろうと思っていたが、温暖化の影響もあるとは。知らなかった。

せっかくの大切なニュースも、極私的、短視眼的にしか受け留めていないというそしりを受けそうだが、一応合点した次第である。

2014年9月16日(火)

朝半ズボン姿で、ペットボトルを回収場所に出し、そのあと思い立って庭のキャベツ、ブロッコリーなどの苗に水を遣った。その、外に出ていたほんの十分ほどの間に、ふくらはぎ、膝の裏を中心に5、6ヵ所蚊に刺された。

デングウイルス(ヒトスジシマカ=ヤブ蚊ではなかった、たしか)はまず心配ないだろうが、痒くてたまらない。草茫々の先に花開く前のヒガンバナが十数本立っているのを発見したが、近寄らないでなかに戻ることにした。

家の中には、コオロギ、ダンゴムシやクモ、もちろんイエカもいる。この間などは風呂場にヤモリの赤ちゃんが入り込んでいた。これなどはまだ可愛くていいが、なめくじがいた日にはやはりぞっとする。自然と同居するのも難儀さがともなう。

お昼過ぎにやや大きな地震があった。そのときは車運転中だったのでほとんど感じなかった。数分後に家に着くと娘が青い顔で「怖かった」と報告した。富良野の配偶者からは「古い家は大丈夫ですか」とお見舞いメールが届いた。家は健在だけれど二階では本棚から本が飛び散っているよ、と報告した。

地震も自然の一部なんだろうが、できれば回避したいし、大過ないことを祈るのみだ。


2014年9月20日(土)

塾に勤めているときは遅刻する夢をよく見たものだった。なぜ遅刻するのか。それは決まって寄り道をして時間を喰ってしまうからであった。寄り道する場所はいろいろだが、人と逢っていたり、映画を見たりしている。そのあとは急いで走る場面(どんな走ってもなかなか辿り着けない)や、時間ぎりぎりに教室に飛び込む場面が出てくる。いずれも、ああ、夢でよかったと安堵して終わる。

今日明け方に見た夢は、だだっ広い倉庫の中で仕残した作業にひとり取り組んでいる。時間内にやらねばならいが材料・資料がない。あちこち走り回るがそれらは見つからない。慌てているあいだに、時間はどんどん迫ってきて……。

時間に追われる夢を見るのは久しぶりのことだった。寝不足のせいか、急に涼しくなったせいか、からだの疲れがある。夢の中身も含めて「病膏肓に入る」の兆しだろうか。


2014年9月21日(日)

また時間に関係した話だが、結果(勝敗)と経過を知っているプロ野球の録画中継(カープ対DeNA)を見ていて、不思議な感じがした。

ここでホームランが出れば一気に逆転だ、と期待する場面で実際にそうなったことをすでに知っている。実況するアナウンサーや解説者は知らないが、話す内容はこのあと起こることを「予知」しているかのように聞こえる。それはぼくが知っているからである。彼らと同じ時間を生きていないからである。

もしぼくも結果を知らなくてこれを見ていたならば、この事態をどう感じるだろうか。きっと「希望的観測」を「予知能力」と勘違いするだろう。思えば数え切れないほどの前者を抱いてきたものである。時間の魔性にもっと迫っていくべきだと思った。


2014年9月23日(火)

学生時代の友人A君からレターパックが届いた。中身は、近況を知らせる手紙と焼き増しした写真、それと自身がいま関わるNPO法人「アジアの新しい風」の「Iメイト通信」のコピーだった。

A君は昨年会社を退き、秋にはかねての希望通りふるさとの熊本に戻っている。手紙によれば今年6月からはソウルの延世(ヨンセ)大学に留学、韓国語を学んでいるという。

キャンパスのスナップ写真、尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩碑、記念堂などの写真とともに、先生(とても美人だ)と13人のクラス仲間の写真も添付されていた。中国、台湾、マレーシアからの「若く優秀な12人」にまじって64歳のA君も溌剌としてVサインを突き出している。

さて「焼き増しした写真」というのは「薫風寮時代の写真」だった。これにはビックリした。帰郷して整理中に見つけたから送るつもりで焼き増ししておいたというのである。延び延びになって今回「夏休みが終わり明日ソウルに戻る前に」投函したと添え書きにあった。

8枚の写真をつくづくと眺めて40年以上前を思うよすがとした。なかの一枚ではぼくを含めた三人が大きな口を開けて笑っている。当時のことゆえVサインこそないが、これらの笑顔はモノホンだと思った。なにがそんなに楽しかったのだろう、と半畳を入れたくなるものの、ああ、あの頃に戻りたい、と思わせる一葉であった。今日は秋分の日。庭に群生しているコスモスの花がいくつか咲き始めた。ひともと折って、活けた。


2014年9月25日(木)

富良野JA発「白いトウモロコシ」が送られてきた。ひげ付き・皮付き、つまりたったいまもいだみたいに立った状態で箱に入っていた。箱を開けると熊笹の香りがして、五月節句の粽(ちまき)を思い出した。

送り主の配偶者によれば、ことしの収穫もそろそろお仕舞いらしい。言われた通り、皮をむき、ひげを落として、一本ずつ5分間レンジで温めていった。

6本を全部レンジにかけたあと、「チンすること」は茹でるのと同じであると気付いた。そして、焼きトウモロコシの記憶がふいに甦ってきた。焦げた部分の香ばしさを再現して食べたいと思った。

そこでチンした1本をオーブンで焼いてみた。数分ではまだダメで、さらに3分焼いた。それでも、焼きのあの感じは出てこなかった。あの頃はどこで焼いていたのだろうか。かまどか、炭を入れた七輪か、風呂の焚き口か。焚き火というとちょっと季節が早いなぁ。ときおり、実が弾けて飛ぶようなこともあった。

それにしても、甘くて美味しい「ピュアホワイト」だった。生でも食べられるというので、こんど挑戦してみたい。


2014年9月28日(日)

おとといあたりから、家の玄関とアルバイト先の駐車場(所沢市上富)で、金木犀が匂い立つようになった。毎年はじめて嗅ぐときの驚き、嬉しさ、なつかしさの質があまりにも似ているので、ぼくは永遠に歳を取らないのではないかと錯覚してしまうほどだ。匂いのなかには若返りの秘薬でも入っているのではないか。

いよいよ秋がやってくると心は浮き立つが、感覚としては年々秋が短くなっている。匂いの記憶がまだ残っているうちに冬がやってくる。「去年の大雪」はたった7ヵ月前のことである。

夏は過ぎてしまえばあっという間だが、このところの秋は出逢ったかどうかすら怪しいのである。本格的な秋を前にして言うのも気が引けるが「惜しむ」暇もないのである。

御嶽山が噴火した。山頂付近にいた何百人もの人に襲いかかり、何人かが亡くなったり怪我をしたという。地上3000メートルまではるばると秋を迎えに行った人たちだったのだろう。先月20日の広島土砂災害から一ヵ月ほどしか経っていない。このところの天変地異には心も縮こまる。

秋に遊び、冬(富有)に活力を蓄え、芽生えの春を迎える。どの季節にも、彩も魔も潜んでいる。とすればやはり、生きとし生けるすべての物はイモータルとはいかないのだろう。

庭のコスモスが一斉に花開いた。茎の高さは180pくらいか。ことしはやけに背が高くて、窓越しに見ると、まるで天空に揺れているようだ。帰途、きれいな三日月が見えた。


2014年9月30日(火)

汗ばむ陽気のなか、かねて気になっていた庭の草むしりをやり始めた。庭の左半分は荒れ地にあるようなコスモスの群生で、いまを盛りに咲き誇っている。庭にこんな群生は似合わないが、咲き終わるまではこのままにしておかねばならない。

懸案は右半分、駐車スペースの手前、人の歩く部分である。ここに若いススキが20センチほどの高さで跋扈している。昼はまだしも、暗がりでは足元がおぼつかなくなってしまう。日足が短くなったこの頃では余計うっとうしくなっていたのである。

二日前、午後6時半頃帰宅して車から降りるとすぐに雑草のその「道」からに人がぬっと現れた。「昼間はお留守のようでしたから」という。このタイミングのよさはまるで待ち伏せであった。ススキがコスモスみたいな背丈に成長したら、いよいよここは河川敷か草原になってしまう。そんな場所での待ち伏せはいよいよ様にならない。

帰りを待っていたそのNHK職員を思い出しながら、草を切っていった。30℃近い(おそらく)気温に誘われるのか早速蚊がまとわりついてきた。そうやすやすと餌食にはなるまいと防戦につとめたが、首筋を1ヵ所刺された。


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