日  録 人恋しさの募る秋? 

2014年10月2日(木)

ここ数日で庭のコスモスが満開になってきた。花は白とピンクと赤紫の三種類がある。去年も、一昨年もこんな群生の風景が庭に現出したが、この花を見たいがために根絶やしにはできなかった。

今年は背丈が一段と高くなったような気がする。家の中から窓越しに見ると、10月の風を受けて花弁が空を泳いでいる。いまや二メートルは越えているだろう。二枝切って、花瓶に活けたが、不自由すぎて長持ちしないかも知れない。

ウィキペディアには《「コスモス」とはラテン語で星座の世界=秩序をもつ完結した世界体系としての宇宙の事である。/花言葉は「少女の純真・真心」》とある。そういえば漢字では「秋桜」と書かれる。


2014年10月4日(土)

御嶽山噴火から一週間。こんどは大型で非常に強い台風18号が日本列島を縦断する勢いだという。19号も発生しているらしい。

気象庁には「接近した台風数」という統計がある。

@ 《台風の中心が鹿児島県の奄美地方、沖縄県のいずれかの気象官署から300km以内に入った場合を「沖縄・奄美に接近した台風」としています。》

A《台風の中心が北海道、本州、四国、九州のいずれかの気象官署から300km以内に入った場合を「本土に接近した台風」としています。》

10月の台風として、2012年には@Aともに1回だったのが、昨2013年には@が4回、Aが3回と激増(?)している。ことしも十月早々にこんな調子だから、記録は更新されるかも知れない。地上のささやかな暮らしは、天変地異に遭遇して乱れる。


2014年10月5日(日)

ある日突然、電話が発信できなくなった。古い電話機だからついにガタがきたかと覚悟したが、一応夜に「113」へ携帯から電話してみた。テープの案内が流れ、大意、故障内容を残しておいてくれれば、場合によっては遅くなるかも知れないが後日こちらから電話する、という。早速吹き込んだ。

「こちらは福本です。042-○○○○-○○○○ですが、受信はできるが発信ができなくなりました。なぜでしょうか。教えて下さい」

すると5分もしないうちに電話が鳴り出した。「113」からだった。住所と本人確認のあとに、

「そちらから、1、2、3と番号を押してみて下さい」

「お宅はプッシュ回線のはずなのに、ダイヤルになっていますね。どの電話機も最初に必ず設定することになっていますので、説明書をみて設定を“プッシュ”に変えてみて下さい。それでダメなら、別の理由があるはずですからまた連絡下さい。発信できるようになれば、連絡は結構です。」

若い女性の声だったが、たった3分の遣り取りで、一件落着。先達はあらまほしきことなり、であった。それにしても、ダイヤル回線に突然変わったのはなぜだろう、何年間も使えていたのに。謎だ。


2014年10月6日(月)

投球の前に目瞑り胸に手を当てて祈りぬ前田健太は》(豊島ゆきこ歌集『冬の葡萄』より

痛恨のボークのあとに逆転され、大事な最終戦で敗戦投手になるこのエースは、ほとんど神がかりして見えた。球場の人も、カープ女子も、テレビの画面に釘付けになるわれもまた「悲劇の人」になる。このドラマはある種の宗教のようであった、少なくともわれの身中では。


2014年10月7日(火)

夕方、羽田から高速バスで坂戸戻ってくる配偶者を迎えに行った。先に着いていた配偶者はバス停のベンチに坐っていた。バスは1台も停まっていなかったのでその真ん前に車をつけた。

するとうしろに「つるワゴン」(鶴ヶ島市が運行する小型の循環バス)がピッピッとクラクションを鳴らした。ワゴンが斜めになっているのをバックミラー越しに確認して車を道路際まで前進させてスペースを空けた。

それでもまたピッピッと鳴った。すぐに車を降り、運転手にすぐに終わるからという意味を込めて手を挙げた。乗り込んだ配偶者は例によって、ワゴンに味方して、最初のピッピッで道路の向こう側に行けばよかったのに、と言う。ぼくは、こちらの用事はたった10数秒で終わるのだからそれくらい待ってくれてもいいのに、と二回目のピッピッに反発して言った。

ハザードランプを消して、いざ退こうとするときにまたピッピッと鳴った。世間の人のことで腹立てることのない日々だったが、このしつこさには閉口した。三回も鳴らすほどのことか、と思った。それにここは公道の一部、往来を邪魔するという意味では、あんたもわれも同じじゃないか。運転手はほぼ同年齢のように見えたが、ちとせっかちすぎないか。

そんなことをこもごも話すと

「また屁理屈がはじまった。バスにはバスの事情があるでしょう。すぐに用事が済むなんと思わないでしょ、むこうの人は。偏屈! 自分勝手!」

久しぶりに帰ってきた配偶者とけんか腰の会話。こちらは数分間は続いたかなぁ。


2014年10月9日(木)

ここ何日か鎖骨の痛みが収まらない。いままでは何日、いや何時間かを遣り過ごせば、自然に治ってきたのである。治らないまでも寛解してきたのである。いよいよ免疫力にも限界がみえてきたのか。

そのせいでもないが『祝魂歌 谷川俊太郎=編』(ミッドナイトプレス版)をおもむろに繙いた。

今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きている者すべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。


プエプロ族の古老、金関寿夫訳、「〈今日は死ぬのにもってこいの日だ。〉」の前半部分

これが巻頭の詩で、深い知恵から迸り出たようなことばが胸に突き刺さる。が、こんな清澄な境地にはまだまだぼくは到達できない。二年半ほど前、「死なないでよぉ」とまわりをはばかることなく叫び、走り始めた車に伴走して手を振ってくれたKさんのことを思い出した。版画の制作は順調だろうか。あのとき自身の青春時代を恬淡と話してくれた、95歳のお母さんは元気だろうか。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ


(于武陵、井伏鱒二訳、「勧酒」 訳詞のみ引用)

人恋しさがつのる秋であるなぁ。


2014年10月11日(土)

鎖骨が痛むということは、鎖骨が受け持つはたらきが機能しないということである。それはどんなはたらきかというと、「抱きかかえる動作」である(ウィキペディアによる)。

ありていに言えば「木登りができる」ということらしい。進化の過程で、ウマ、ウシ、ゾウなど草原を走り回る動物は鎖骨が退化した、一方長期間森林に生息した動物には「そのために」鎖骨が残っているのではないかという。

そうか、木を抱くのかと唐突に思った。痛みがなければこんなことは考えもしなかっただろうから効用のひとつにちがいない。世の中には「鎖骨愛好者」も大勢いるようだから、油断がならない。


2014年10月14日(火)

台風19号が日本列島を縦断した。発生当初は「猛烈」と形容されていた。中心の気圧が 900hpa だったといい、アメリカのメディアでもその巨大さが報じられた。

その後気圧は高くなり、速度も上げつつ列島を駆け抜けていった。それにしても、合わせれば100万にも上ろうかという世帯(市によっては全世帯)に「避難勧告」が出た。この言葉がやたら耳に障った。そんなにたくさんの避難民をどこで受け入れるの? とつい疑問を持ってしまうが「警戒への注意喚起」と思えばいいということだろう。

関東通過がこの日未明というので、どんな雨が降り、どんな風が吹くか、ふだんは閉めたこともない雨戸を閉めて、息を潜めて待った。しかし、かすかな雨音を聞きながら、NHKのAMラジオを付けっぱなしにして、いつしか眠ってしまった。

4時に目が覚めて、「風はどこへ行った?」と呟くと「このあたりはちょうど目にはいったのかも」と言う。数時間後に雨戸を開ければ、朝焼け模様の空が見え、ぐんぐん気温も上がっていった。昼過ぎにかけて吹き返しの風に注意、と気象庁。それしも爽やかだから、この地では「あっ」と叫ぶこともなく過ぎた台風であった。


2014年10月16日(木)

「世間ずれ」を誤った意味(「世の中の考えから外れている」)で使う人が増えていると最近話題になったが、『一冊の本』10月号で「ことばの場合(中略)ほとんどが正誤の中間にある。これが、ことばの悩ましさの正体でもある」(言語学者・加藤重広「ことのはぞ悩ましき」)という一行に出合った。

「気が置ける」と「気が置けない」が話題になったとき、ほかに言い換えることばがいっぱいあって、こんな表現は滅多に使わないにもかかわらず、たしかにずいぶん悩んだものであった。

ちなみに、「気が許せる。遠慮や気遣いをする必要がない」のは「気が置けない」方が正しいらしい。と、文化庁のHPを見たあとにこう書き写しながらも、ほんとうかな? という不安に駆られる。「きみは気が置けない友だなぁ」と面と向かって言う勇気はないのである。

「全然〜ない(否定)」と「全然〜ある(肯定)」もそうである。後者が誤用であると言われ、そのように教わった気もするがいまでは後者のほうが正しい由緒を持っているとされている。もっとも、こちらの方は、どちらを使っても異和感がなくなった。

さても「正誤の中間」とは言い得て妙であった。時代によって使われ方(意味)が変わると言われればそんなものだろうと思って納得するが、「正誤の中間」となるとまた立ち止まってしまうのである。ことばは「善悪の彼岸」にあるということでもあるのだろうか。

著者の本『日本人も悩む日本語 ことばの誤用はなぜ生まれるのか』(朝日新書)を読んでみたくなった。


2014年10月19日(日)

ショウモウということばが口を衝いて出た。ある現実がきっかけになって「ショウモウな繰り返しだなぁ……」となった。もしかしてこれは? 当時はやった学生ことばではないか、なぜいままた出てくるのか、と驚いた。元の現実からしばし離れて、感慨と感傷の渦にまみれていった。

消耗=体力・気力などを使い果たすこと、と『広辞苑』にはある。「疲れる」よりも語感は強いのにあまりにしょっちゅう使っていたのでどんどん軽くなっていったように思うが、学生でなくなるとほとんど使わなくなった。

「お疲れ」を「乙」で済ますという、いまどきの若者ことばとは随分とおもむきがちがったものである。まさに Once upon a time……。


2014年10月20日(月)

二十歳の男がついにやってきた。

アルバイト先の「倉庫」では、新しい作業員を何回かに分けて募集し、総勢7人(女性4名、男性3名)が決まった。一ヵ月ほど前の先陣2名に次いで、このところ五月雨的に新人が現れ、この日ついに最後の一人がやってきたのである。他の6人はすべて50歳前後であるので、二十歳の彼だけが飛び抜けて若い。

黒縁メガネの背の高い若者だった。数字に強い、暗算ができる、という触れ込みだった。初日にその片鱗はないが、実直で、仕事への覚えが早いのはわかった。その他の個人的な事情はまだわからないが、おいおい知ることになるだろう。楽しみである。

この職場、平均年齢がぐっと下がる一方で、3ヵ月ほど前から入院中だった最高齢の人も、近く復帰する予定である。ちなみに、その人が不在の間はぼくが栄えある(?)その位置に立っていた。やっとそこから下りることができる。


2014年10月21日(火)

ブログ『久末です』が次の日もまた次の日も更新されないので案じていたところ、10日ほど前に入院していたことがわかった。その後体力も回復し面会禁止が解除されたというので今日、鷲宮に住むHさんに誘われて一緒にお見舞いに行った。

病室に入ると5階のレストランで話そうと上着を羽織って起き出した。ベッドを下りたので腕を抱えようとすれば、大丈夫、大丈夫と振り払う。元気に快復していることにまず安堵した。

自分の入院中の三年前には一度も来たことがなかった最上階のレストランはとても見晴らしのよいところだった。いつ降り出すかも知れぬ曇天は怨めしかったが、日々の食事から政談まで話は弾んだ。もっとも能弁で、明晰なのは入院中の本人だった。2時間ほどがあっという間にすぎ、気温も急激に下がってきたのを潮に病室に戻った。

別れ際には「明後日かその次の日には退院できそうだが、ブログは来月はじめまで休ませてもらいます」と笑わせた。2時間以上かけて鷲宮に帰るHさんを駅まで送りながら、夕食は何にするか、さっきの話の続きのようにお互いの手の内をさらけ出した。

すでに一品は用意ができている、サラダと、なになに(失念!)を添えて完成というHさんに厨房歴の浅い当方はただただ感心。意義深い一日だった。夜には、話題にも上っていた共通の友人、あの「死なないでよぉ」のKさんに電話してみようかと思った。


2014年10月22日(水)

新しくお米を炊くために、炊飯器に少し残ったご飯を前に、どうせならおにぎりにして冷凍保存しようと思い立った。「鮭わかめまぜご飯の素」があったのでまぶして握った。両掌いっぱいで包みきれないほどの大きさになった。

こうしておけば、いざというときに役立つ、仕事に持っていけば昼時には解凍されているだろう。いやそういうことではないのかも知れない。自分はおにぎりが心の底から好きなのではないか。それが昂じて、握り方も上達した。

いまや誰にも見せられないような古い手紙が残っている。そのうちの一通を取り出してみると、一枚目にひとつ、二枚目にはふたつ、三枚目はみっつ……という風に数字の代わりにおにぎりのイラストが描かれていた。こんな趣向も若い日々の特権みたいなモノだったのかとおそるおそる本文を読むと、豈図らんや、

「○○○はおにぎりが好きだったね。また一緒に住めるようになったら、毎日でも作ってあげられるのに。そんな日が早く来るように、お地蔵さんのお顔のようなおにぎりに祈りを込めて」

これが本当ならば「おにぎり好き」は相当年季が入っていることになる。かやくご飯のおにぎりは大好物だし、全面を海苔でくるんだものも好きだ。お、こんな贅沢なおにぎりが存在するのか、と目を見張らせてくれたのはあの頃の、その人だった。

その後ついに逢う機会もなく今日に至っているが、好きのカタチはこんなところで生きている。おにぎり作りが料理のレパートリーに入らないのが口惜しいくらいである。


2014年10月23日(木)

ゆうべはKさん、けさはMiさんに、電話をかけた。Kさんとは2年半ほど前の2月に逢って以来でその間の事柄が積もりに積もっていた。約1時間で切ったがまだまだ話すことがあるような気がした。

宮崎の畏友Miさんとは、ひとつの用件が済んだあと互いの近況を話し合って約30分。なごりがつきない電話。期せずして、冷たい雨が降る夜の電話から明けてまた電話という成りゆきとなった。

ふたりにはともにいつか逢える日を、と言った。そうやすやすとは逢えないから余計に人が恋しくなるのである。秋。


2014年10月27日(月)

ここ4,5日、秋らしい日が続いた。日中は「冷蔵倉庫のなか」なので、秋を体感するのは用事で外に出る数分間。陽射しにあたたか味があって、風は人の肌ほどの温もりを運んでくれる。束の間とはいえとても貴重に思えた。それが今日などは昼間は汗ばむほどだったのに夜は一転して北風が吹いた。秋から一気に冬へ、慌ただしいものである。

庭のミカンがだいだい色に色づいてきたので7個採って食卓に並べた。そのうちの2個を食べた。少し甘みが足りないが、よい香りにつられて一気に平らげた。小さな木にはまだ20個以上がなり、枝をたわませている。今回実を鋏で切り離してわかったがミカンの木は柔軟性に富んでいる。強い木だ。

実るほどこうべを垂れる稲穂かな、などという句があったように記憶しているが、ミカンとて同じ。われもまたかくありたし、と思うが不遜かなぁ。


2014年10月28日(火)

所用でワカバウォークに。ついでに本屋さんに立ち寄った。入り口付近にあった文芸誌コーナーが奥まったところに移動していた。『群像』と『すばる』は棚にあったが、『新潮』と『文学界』はなかった。発売からかなり経っているので売れてしまったのかも知れない。『文藝』は何処? 少し浦島太郎的感覚を覚えた。

新書の棚に移動して『日本人も悩む日本語』(加藤重広著、朝日新書)を買う。


2014年10月30日(木)

市の中心・高麗方面に用事があったので帰りに図書館に寄った。事前にインターネットの蔵書検索でその本(村田喜代子著『屋根屋』)があるかどうか確認しておいた。発刊当初、貸し出し中のうえに、予約が数件入っていた本だからである。検索結果は「貸し出し可」であった。

書架から同じ著者の『ゆうじょこう』と一緒に抜き出してカウンターに持っていった。受付の女性は貸出カードをスキャンしたあとしばらく画面を見つめてから言った。

「なにかお忘れ物があるようですね」

大切な革製の栞を本に挟んだまま返したことがあったので、「それは取りにきました。その節はお世話になりました」と返事した。あとで日記を読み返すと、ちょうど半年前の4月25日のことだった。

「あら。じゃぁメモの消し忘れかしら。消しときますね」

気になったので、家に帰るとすぐにそのしおりを探してみたが、机回りのどこにもない。こんど使うときのために慎重にしまいこんだ記憶があるが、それがどこだったか、いつだったかも思い出せない。

そして、この半年の間に、同じ過ちを繰り返したということはないだろうか、と思った。自信がなくなってきた。とすればメモは消し忘れなんかではなく、アクティブではないか。もう一度問い合わせてみようかと本気で思った。

「返却本の中に、革製のかわいい目をしたキャッツのしおりは残っていませんでしたか」

両膝の皿を二年の間に相次いで割った身であれば、こんなことが何度あってもおかしくはない。きょうは、自虐の日だなぁ。



今日届いた『一冊の本』11月号には大下英治が「「脱原発」、そして自然エネルギーの可能性」という一文を寄稿している。冒頭の二十行ほどに自身の被爆体験を書いているので瞠目した。

それによると、爆心地近くで被爆した父親は6日後に「のたうちまわり、ついに障子を蹴って果てた。」

さらに「私はそのとき一歳で、家の中にいた。もし、原爆投下の位置が少しずれていたら、私も、一歳で生を終えていただろう。私は今、被爆者健康手帳を持っている。」とも。


2014年10月31日(金)


目の前を飛び交うものがある。さっき取り逃がした蚊だと思いぱちんと掌を合わせるとぽとりとベッドの上に落ちた。ティッシュにくるんで仔細に見れば、ゴキブリである。こんな小さなうちは、空を自在に飛ぶのか。飛んでさえいなければこんな仕打ちを受けなかったのに。2oの生き物にも無念はあるだろう。

明日からは冬隣である。夕方から夜にかけての雨もまた冷たかった。

 


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