日  録 晴れたら洗濯?

2014年11月2日(日)

土曜からの三連休の中日である。といっても当方には関わりの薄いことであるが、一転して晴れの日が続くそうなので、気分は軽やかである。

昨日義妹の友人のパン屋さんからパンが送られてきた。段ボールを開けると大量のパンの上にちょこんとハロウィン用の包み紙にくるまれた小さなマドレーヌが載っていた。なんとも可愛い。その心遣いに感激した。食卓のど真ん中に飾って、見ながら食事をした。しばらくそのままにしておいたが、今日デザート代わりにいただいた。格別の味わいがあった。


2014年11月4日(火)

朝から晴れていたので、洗濯をし、洗濯物を干した。それから新聞を取りに外に出た。玄関から5歩である。そう言えばペットボトルの回収日だと気付いてゴミ箱まで。だいたい15歩くらいの距離である。夕刊を取りに出たので、外を歩いたのは片道25歩、往復でしめて50歩の日となった。

今日は一日引きこもって、読書なり、考え事なりをして、同時にからだを休ませようと決めていた。だから往復50歩は「確信犯」であった。が、しかしである。うたた寝を繰り返して、いつしか昼となり、夜となっていた。休養はとれたが、他は大きな進捗はない。からだがシャキッとしてきた夜が勝負である。

五十歩百歩でオチを付けようと思ったが無理のようである。せめて《この夜もし、なんの成果もなく、寝転んだり、睡魔に襲われたりすれば、昼も夜も、五十歩百歩、ということになる》と云々。


2014年11月8日(土)

冬なみに冷え込んだ昨夜、おでんセットを買って戻ったら、隣人のTさんからおでんが届けられていた。近所の人たちと「収穫祭」を行ったときのお裾分けだという。毎日何を食べるかに悩むこちらにはありがたい。早速暖めて娘とふたりで食べた。

めずらしき生酒をがぶがぶ飲んで、目がくるくる回って、途中で退席して家に戻って寝てしまったのがちょうど一年ほど前の「収穫祭」だった。正気に戻ったとき外はもう暗くなっていた。ついこの前のことのように思われる。早いものである。

今宵も寒かった。買ってきたおでんセットをレシピにしたがって作り、こんどはひとりで食べた。食べ終わってから「おでん、おでん」と呟いた。表題になりそうな気がした。

2014年11月11日(火)

「幻聴」が聞こえるようになった晩秋の休日。携帯に電話が3回かかってきた。

はじめは「置き薬」の担当者であった。30年近く同じ人が担当している。用件はいまから伺っていいかどうかの確認だった。いつもは家電に入るが今日は携帯だった。長い付き合いとはいえ、改めて電話番号教えるような「仲」ではないので、こちらからかけたことが一度はあってその折の履歴が残っていたということだろう。

次は同じ市に住んでいる会社の同僚からであった。仕事がらみのことでお互い気にかかっていることがあり、何分か話した。切る間際に「お忙しいところ澄みません」と言うから「いえいえ、ヒマにしていましたから」と答えた。

3度目はこちらから照会したことについての折り返し電話だった。いわば誘導電話だから、不意の着信とは言えないが、一日三度もベルが鳴るのは特筆に値するので記録しておこうと思った。

そう言えば昨日更衣室で私服に着替えながら、退院して仕事に復帰した69歳の同僚が「私もこれにしましたよ」とスマホを高く掲げて見せた。「入院中あまり退屈だったので。ガラケーは使いづらいとこぼしたら娘が勧めてくれましてね」と言う。 凄いですね、と驚嘆の声を上げたのだった。


2014年11月13日(木)

ことしもまた、となりのTさんが物干し竿に干し柿を吊してくれた。どこの柿ですか、と訊くと、信州の種なし柿です。自分のうちや近所のうちの柿の木から穫ったものではなく、わざわざ取り寄せた、めずらしい柿である。

わが庭の柿の木はことし不作で、路上に散った柿の葉を片付けるだけで、果実としての柿とは無縁の秋であった。それだけに、嬉しさもひとしおだった。

「いつ頃食べられますか。」
「まだまだですよ。来年の1月頃ですかね。」

本音とはいえ、まったく思慮なき質問をしてしまった。寒風や、陽射しの温かさに晒された干し柿を、食べ頃まで見つめていく楽しさへと、思いは真っすぐに行くべきだったのに。それでこその風物詩なのに。何とも無粋だった。

2014年11月14日(金)

洗濯を2日サボるとパンツがなくなることに気付かされた。改めて数えてみればまともなヤツは3枚しかない。道理でと思ったのである。帰りに総合スーパーに立ち寄り「2枚ひと組」という特価品を買った。その売り場で、高校の数学のY先生のあだ名がパンツだったことをふと思い出してしまった。

ひとつ上の代から申し送られてきたあだ名だった。何代か前の上級生はなぜ「パンツ」と命名したのだろうか。当時謂われを聞いているはずだったが、いまは忘れている。つまり、謎である。

Y先生を尊敬し、数学が好きになったぼくにはとても不謹慎なあだ名に思えた。他のみんなも同様で、われらの代にはもうそんな風には呼ばなかった。

昨日、自分で買うなどはおそらくはじめてのような気がするそれを買ったのである。


2014年11月19日(水)

一昨日は、仕事が終わると車検に出していた車を引き取るために、代車を駆ってディーラーに急いだ。一年前に窮鼠猫を噛むように乗り換えた中古車が丸二日ぶりに戻ってきた。

同じ車種でも、最新型の代車は運転していて肩が凝った。11年前のこちらの型式の方がどこか安心を覚える。それは半ばは慣れのせいであるが、他に理由はあるのだろうか、などと埒のないことを考えていると、そもそもこの車種に変えたのはあの事故のあとだったことを忽然と思い出した。

過去の日記に当たってみると、2002年11月19日である。こんな風に書いていた。

《ついに無事故の記録が消えた。深夜近い時間に住宅街の交叉点で側面衝突をしてしまったのである。車は90度回転して右前部を住宅(本当はぶどう園だそうである)の鉄格子にぶつけて停まった。相手の車を見るとバンパー付近から白い煙がたちのぼっているようにみえた。これはまずいと、一瞬青ざめたが、運転手が悠然と降りてきたのでほっとした。メガネがふっ飛んだだけで、こちらも怪我はなかった。警察は「お互いに灯りが見えなかったんですかな」と呆れていた。すべてはあとの祭りである。なんせ一瞬のことだったのだ。まんが悪かったとしか言いようがない。改めて見ると、中央よりもやや後ろ側が大きくへこんでいた。コンマ何秒かの差で、助手席も運転席も救われたのだと思った。》

また、翌日や翌々日には、

《 「事故」を公言していたらあちこちから無事で何よりと慰められた。みんな無傷でよかったと自分でも思うから素直にありがたいことだと頭を下げた》

《「大丈夫でしたか!」突然来訪した生徒の母親に気遣われて一瞬キョトンとしたが、そういえばこの人は現場近くで目撃した人と知り合い同士であった。こういう風にもニュースは走る。「次の日には、近所で大騒ぎだったようですよ」とも教えられて苦笑せざるを得なかった。まったく面目のないことであり、あの記憶はなかなか消えてくれないわけだ。》

ちょうど12年前のことである。これは干支が一巡りする歳月であり、長いと言えば長いのである。嗚呼。


2014年11月20日(木)

庭の畑からナスとピーマンの苗木を片付けた。その前に黒ナス3本、白茄子1本、ピーマン3個を収穫した。見た目もキレイで、食べられそうだったからだ。日々寒さが募るこの頃までよく生き延びたと思うと、いっそう愛しい。早速食べてみるが、どうか美味しくあってくれよ、と祈りたくなる。

そのあと土を耕し、均していると、このまま遊ばせておくのは芸がないと一丁前に考えた。軒下のプランターにほうれん草の(らしき)苗が密生して育っていたので、その場所に植え替えた。広々となって彼らは喜んでいるだろう。大きく育ってくれれば、また生きる糧をくれる。ありがたいことである。

神妙にそんな思いに駆られ、曇り空だが当分雨はないということだったので如雨露で水を遣った。ところが、2時間ほどあとに降ってきた。もはや、冬の雨だった。


2014年11月23日(日)

昨夜、高校の同級生U君に電話をした。その日届いた喪中葉書に「兄が七十歳で永眠した」と書かれていたからである。U君には彼の結婚式以来四十年近く逢っていない気がするし、年賀状のやりとりだけで、何十年も声さえ聞いていない。

ところがその間、お兄さんとは何度か会っている。帰省の度に信楽を訪れ、U君の実家である駅前の陶器店で買い物をしたからである。その折々の、弟と同じような優しいお顔や仕草が鮮明に浮かんできたので思い余って電話をした。

「あのジュンジさんですか」というのが彼の第一声だった。こちらは当時のまま「ヤスタカよ」とファーストネームを敬称なしで呼びかけるしかない。一年生の時にクラスが一緒だっただけだがなぜかウマが合った。

多摩に移る前の中大にいる頃は上京する度に小岩のアパートに泊めてもらった。外階段を上っていくと二階の彼の部屋に通じる。調度の揃った部屋の中の様子やそこで歓待を受けた情景がいまだに思い浮かんでくる。

知り合った頃配偶者は小岩に住んでいた。彼はもういなかったが、二人のアパートは案外近かった。これも何かの奇縁かと思ったものだった。それはともかく、20分ほど話したなかで「誕生日があなたと同じ1月なので、今年1月末で会社を完全に退いて、いまは……」と言うのだった。

U君はぼくの誕生日を覚えてくれている、となぜか感激した。「再会」を期して電話を切った。


2014年11月25日(火)

昨日、いつもの時間に家を出て25キロ先の職場に向かったが、やけに車が少ない。すいすい走る。月曜日なのになぜだろう、五十日(ごとおび)の前日だから空いているのだろうかなどと考えながら15分も走ったところで気付いた、あぁ祝日だったと。おかげで30分も早く到着した。

今日は休日。その朝、4時に起きて5時に再び寝て、8時過ぎにやおら起き出した。雨もよいである。窓越しに外を見ると庭の楓がいつになく綺麗に色づいていることを発見した。昼過ぎて、本降りの様相を呈してきた雨の中、紅葉の下に立った。

ここに住んで丸10年が過ぎた。楓は娘の小学校入学の記念に板橋区からもらった苗木が二度の移植を経ていまここにある。ここに移し替えるときも、それからの10年の間にも、何度も枝を伐られてきた。伸びるに任せていた10年前ほどの華麗さはないが、そして雨をよけるほどの大振りの枝はないが、この色はかつてのものと同じである。あかるい華やぎがある。いながらにしての錦繍かとひとり合点した。

むこうの端には金木犀がある。これは息子の記念樹で、同じ運命を辿ってきたが、手を加えること少なく、こんもりと枝葉が茂り、高さも5メートルに達している。

金木犀のかぐわしき香りに秋の到来を知り、錦繍に終わりゆく秋を惜しむ。過ぎゆく時間は、ときに早く、ときにゆるりと感じられる。何日か前に古い友「ヤスタカ」の声を聞いた嬉しさの余韻が残っている。


2014年11月27日(木)

きのうより一転、暖かい日となった。洗濯日和、とばかりに洗濯。これを皮切りに、咲き終わって背だけは高いが茎が黒ずんでいた秋桜(コスモス)をばっさりと伐った。コスモスの原っぱから、広々とした庭に戻った。けっこうな作業となって、汗ばんできたので途中セーターを脱いだ。

Tさんが土から取り出したばかりの大根2本と白菜を持ってきてくれた。大根の葉を切り刻んで塩揉みにした。白菜は近く鍋物にでも使える。

夜は、サツマイモの天ぷらに挑戦。突然の思いつきだったので、薄力粉に卵を混ぜて衣とした。これは正しくなかったかも知れないが、出来上がった天ぷらは美味しかった。ほんとうの天ぷら粉を使って再挑戦しようと思った。

ともあれ、野菜のありがたさがとみに実感される、ドメスティックな一日だった。


2014年11月29日(土)

評論家の松本健一氏が27日に亡くなったという。熱心な読者ではないが、目につくかぎりでは精読し、またその発言に耳を傾けてきた。68歳、早すぎる死にビックリし、悔しい思いもある。

本棚には『北一輝伝説〜その死の後に』(1986年、河出書房新社)と『石川啄木』(1982年、筑摩書房、日本詩人選7)の2冊が残っている。ともに評伝なのは、偶然なのか、あるいは恣意的なことなのか、いまとなればわからないが、前者は何回も繙いた。例えばこんな一節、

《鈴木清順の『けんかえれじい』における北のイメージが、まさにその虚空に目をこらして何ものかを「まっ」ている気配だった。(中略)外は雪、カフェーのなかは薄暗く、ストーブのみが湯気をたてて、時間が止まったように静かである。その片隅に(一部略)じっと虚空を見つめている、鋭利な、けれども心優しそうな男がいる。かれはどうも東京の大きな喧嘩に関係を持っているらしい。》

このあと、「北一輝を暗示する男」を演じた俳優の後日のエピソードに触れ、「かれはこのとき、ロマン的革命家の北一輝と交情したにちがいない。二十歳になるかならぬかのわたしは嫉妬した」と書くのである。このあたりはまちがいなく「詩」であった。

25年ほど前、塾に勤めていたぼくは二年間娘さんに数学を教えたことがある。その縁で氏や奥さんと話す機会があった。もちろん職務上の閾を出ないものだったが、いまやなつかしい一場面である。心よりご冥福をお祈りします。


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