日  録 「やっと」から「もう」へ


2015年1月1日(木)


あけまして おめでとう ございます。

陽のぬくもりがとどく朝、というわけにはいかなかったが、明けて2015年である。
年越し蕎麦を食べている途中に新年を迎えた。これは異例の幕開けかも知れない。

今月10日には6回目のぞろ目となる誕生日を迎える。66は三角数だという。三角数とは、正三角形の形に点を並べたときにそこに並ぶ点の総数に合致する自然数である。n番目の三角数は1からnまでの自然数に等しい。66は1〜11までの自然数を順番に足して得られるので、11番目の三角数ということになる。

66歳というのは65歳にもまして未知の領域である。心身に何が起こるか見当もつかない。そこでついこんな縁起に頼ってみたくなるのだった。すなわち三角数の最小のものは1であり、三角数は無数にあるが、ぞろ目となるのは55(10番目)と66と666(36番目)の三つしかない。そんな稀有な数字のひとつなら、いいことがあるかも知れない、などと云々。


2015年1月4日(日)

三が日が過ぎ、新年に入って4日目の午後5時過ぎ。アルバイト先の駐車場で、寒い風に打たれながら同僚三人で十三夜の月をひとしきり眺めたあと帰路についた。西の空は赤く焼けていて、まだほんのりと明るい。日足は少しずつ長くなっている。

この三日の間には、夢の中に古くからの友人たちが何度も出てきた。そのなかにはもう長い間逢っていない友もいる。山野を駆け巡ってレストランを探していたり、古い住宅街の路地裏に逃げこんで難を遣り過ごしていたりする。

友も自分も現在の姿のようであり、うんと若い頃のようでもある。記憶にも留まらず、脳を通過しただけの場面を思うと、少し惜しい気がする。もっと物語性のある、長尺のものなら、初夢を見たと堂々と言えたのに。

さしあたりこれらはフラッシュバックのような夢と言えるだろう。夢を見るにも体力がいる、その体力がいまは痩せ細っているということだろうか。


2015年1月6日(火)

25日に帰ってきた配偶者は6日、まだ明けやらぬ早朝富良野に戻るために羽田空港に向かった。年をまたいで13日間、時間にすれば約276時間の滞在だった。そのうち一緒にいた時間は、ぼくが仕事に出かけていた99時間を引くと、177時間となる。

こんな数字は実質的にはなんの意味もないが、並べてみるとなんとなく数奇を凝らしている感があって憂さ晴らしにはなる。書き記す所以だが、正月特番とやらで、「○○追跡2200日」という惹句が心に残っているせいもある。ちなみに2200日は約6年の長きに相当する。

長いと言えば10年以上前、日本でも一大ブームとなったTVドラマ『冬のソナタ』がCSで再放映されている。昨夜の第1話は配偶者と、今夜の第2話はひとりテレビの前に陣取って、観た。ここまでは高校生の初恋で実に初々しい。もはや感情移入のできる年令ではないが、かといって気恥ずかしさは微塵もない。むしろ切なくて泣けてくる。自身への愛惜の念もあるのだろうか。


2015年1月8日(木)

「着雪」の意味をはじめて理解した。

大雪でも、積雪でもなく、なにをもって着雪というのか、かねてよりの疑問だった。北海道や日本海側は大荒れのようだがこちらは冬晴れの今日、思い切って調べてみた。ネットで得られたいくつかの解説を整理すると、

気温が0℃から1℃のとき、強風が吹いて、「ぬれ雪」(湿った雪)が電車に付くと電車着雪、電線に付くと電線着雪となり、それぞれ電車の窓ガラスが割れる(間接的に)、断線や電柱が倒れる(直接的に)などの被害をもたらす。

「着雪注意報」が出されるゆえんである。恥ずかしながらやっと腑に落ちた。ところで、電線に付着した雪はその形状から「筒雪(つつゆき)」と呼ばれている。雪害は困りものだが、雪にまつわる表現には心をきりっとさせるものが多い。

白雪姫、雪女、雪肌などと列挙すればいまは「アナ雪」へとつながっていくのだろう。この地にも初雪が待たれるが、去年2月のような大雪となれば「窓の雪」と決め込むしかない。


2015年1月9日(金)

寒い朝。そんな題の歌があったなぁ、と思い出した。「北風吹き抜く寒い朝も/心ひとつで暖かくなる」とはじまり、最後は「北風の中にきこうよ春を」が2回繰り返される。このリフレインは2番が「……待とうよ春を」3番が「……呼ぼうよ春を」となる。

作詞は佐伯孝夫で、1962年に吉永小百合が歌っていた。ぼくは中学2年生になっていただろうか。10キロ離れた学校までバスに乗って通っていた。冬はよく雪も降った。大雪の時はバスが動かず、自宅待機を幸いに犬のように雪の山野を駆け回っていた。寒かったという記憶はひとつもないが、当時この歌は心に響いた。普及し始めたテレビにのって全国的にも大ヒットした歌だった。

そこで「You Tube」で聞いてみた。こんどは、心に沁みいるようだった。寒さがとてもきびしく感じられることと無関係ではないだろう。また、昭和への愛惜へとつながっているのだろう。


2015年1月15日(木)

整合性はあるからそうしなさい。何日か前の夢の中で誰かが言った。「そうしなさい」の「そう」が何をさすのかは思い出せない。もちろん「忠告」してくれた人が誰であるかもわからない。目覚めた頭で考えれば、そもそも整合性ってなんだ? ということになる。

現実生活での心当たりを強いて探れば『冬のソナタ』と“カリント”にハマっていることかなぁ、と思う。前者は月曜から木曜まで連続して再放送されている。今夜が第八話だった。結末は知っているので、最大の関心は、主人公が何をきっかけに10年前の記憶を取り戻していくか、にある。字幕で台詞を読んでいると、儒教を底流にした哲学を感じる。それも、なかなか味わい深い。

あちこちにハマっていると公言していると、歳半分の若い友人は「大いに泣いて下さいませ」と言ってきた。カリントのほうは、100円程度のものを買ってきて、あっという間に食べてしまう。

両方とも、なくてもいいものだが、なければさびしい。

ほとんど終日雨。いっときみぞれ模様に変わったようだったが、初雪とはならなかった。


2015年1月20日(火)

午後6時30分、かんたんな夕食を済ませたあとに今日はじめて顔を洗った。これだけだと尾籠な話になりそうだが、早朝起き抜けに歯磨きだけはやっているので、赦してもらおう。

その後は2週間前の指定日に出し忘れたペットボトルの袋を持って外に出ただけで総じてグータラな休日だった。それでも、気の向くままに『安岡章太郎 15の対話』(平成9年、新潮社)を読んで過ごした。

なつかしい田村義也装丁の本だ。外観だけではなく中身も、生き生きとしていて、ホッとするところがいっぱいある。遠藤周作、井上洋治との「宗教と風土」の中に、

《自分には思想があり得るだろうかということは、別に亀井さんに言われなくとも、つねに言葉にはならない悩みだったね。》

こんな発言をみつけて、長いけれど『流離譚』を読んでみたくなった。それについては「歴史小説の新手法」で大江健三郎と話している。これからその章を読むところ。グータラな一日の中にも救いに似た発見はあるものだ。


2015年1月22日(木)

「宇宙論的に考えようとか、構造的に考えようとかして、(中略)そしてしばしば失敗したと思う。/自分の「流離譚」なんて偉そうなことはいえませんけれど、自分にとっての歴史の中に生き、歴史に養われている尋常な歴史感情を表現するということはやはりしたい」(『安岡章太郎 15の対話』「歴史小説の新手法」での大江健三郎の発言)

ついに本棚から『流離譚』を取り出した。上下二巻、総ページ数900頁、1600枚の小説である。昭和56(1981)年12月初版、手元にあるのは翌年1月発行の第3刷。日中もほとんど気温が上がらない今日、そろりそろりと読みはじめた。

この本にはB4版の「安岡家系譜」が付いていて、読みながら眺めることでさらに深く物語のなかに入っていく楽しみがあるのだった。中上健次の『枯木灘』にも家系図が付いていて、新鮮な体験だった覚えがある。

ところで、この「安岡家系譜」の裏には、おもてでは抜けて落ちている関係がぼくの手書きで書き込まれている。それを辿ってみると、安岡章太郎の母親側の祖母の叔母、その曾孫に丸岡明がいる。章太郎と丸岡明が○で囲んであるので、ふたりが縁戚関係にあるということを示している。かなり詳しい系図だからどこかでみつけて書き写したのだろう。それにしてもふかい思い入れだとわれながら驚いた。

歴史感情を構造的に表現したこの小説、もう一度読み通してみたい、と思った。


2015年1月24日(土)

13年目の遅れてきた『冬のソナタ』ファンとして「気分はチュンサン」の日々をすごす今日この頃である。

感情移入の大本は青春の日々はもう帰って来ないという自覚にあるが、目下の関心に引きよせて言えば、10年前、20年前の記憶の鮮烈さと、その間に流れた時間のあまりもの短さである。記憶にも時間にも現在の想像力が及んでいくと思いたいのである。

全20話中の12話が終わったところで、主人公のカン・ジュンサン(姜俊尚)は、名前だけを呼ぶときにはチュンサンと清音になるということをはじめて知った。このあたりもファンというにはあまりもの無知さを示している。

ソウルに語学留学中のA君に遅まきの年賀を兼ねてそんなあれこれを報告した。


2015年1月25日(日)

お昼の休憩時によもぎ餅をオーブンで焼いて食べていた。それを見ていたアルバイトとして新しく加わった43歳の女性は、直後にぼくのことを「モチを焼いていたおじさん」と言っているらしいと聞いた。少し前は「タオルのフクちゃん」だったのに、まぁ、めまぐるしいことよ。それでも、おじいさんと呼ばれないのが救いであり、若い人の仲間に加えてもらっているということかも知れない。

ただこのあだ名はいただけない。ひっくり返せば「ヤキモチおじさん」だからだ。かつては、「か○○ぎのヨン様」とさえ呼ばれていた(そう言ってくれるのは数名だったが)のになぁ。


2015年1月27日(火)

きのう東京では梅が開花したと聞いて、庭の梅の木を見た。こちらは小さな紅色のつぼみばかりで花がひらくまでにはまだ何日かかかりそうだったが、日中は気温がぐんぐん上がって春の陽気だった。束の間とはいえホッと息をつぐ一日。

『流離譚』読み継ぐ。引き込まれていく。


2015年1月30日(金)

6時前に目が覚めて外を見れば雪である。庭も畑もうっすらともう白い。障子戸を開け放ったままにしてときおり外に目を遣る。本来なら初雪にはしゃぐところだが、去年2月の記憶があるので喜びも半分である。

1回目の大雪の時には車で出かけ、車で戻ってきた。坂道で立ち往生して、自宅を目前にしてまた動かなくなった。2回目の時は、電車で戻ってきたものの家のカギを車の中に忘れしまった。ファミリーレストランで深夜近くまで過ごす羽目になった。窓越しに降りつづく雪を眺めながらここは雪国になったようだと思った。

そのときのように「記録的な大雪」にはならないと予報は言うが、今日は電車で出かけよう。富良野からも、「歩きで行って下さい」「自然をあなどってはいけない」などと昨日のうちから念を押されているのである。

同居の娘などは、事故って加害者になれば、夏タイヤで雪道を走るなんて、と世間から(ネットで)叩かれる。お父さんのことを心配して言うのではないよ、と何度も言う。偽悪的な面はあるが、一理あるか。


2015年1月31日(土)

1月もきょうで終わりである。

“この月はなかなか終わらない。だらだらと長くつづくように感じられる”

そんな意味のことを書いたのは誰だったろうか。何十年も前に読み、毎年1月をむかえる度にその通りだと共感してきたが、今年はとてもそんな風には思えない。

同じ日付の去年の日記には「寒かった1月が終わる。やっと、なのか、もう、なのかわからない。」とあり、「もう終わる」と感じるわけを縷々書きならべている。感覚はこの頃を境に変化していったのかも知れない。今年ははっきりと「もう」明日から2月と感じている。このあとは年々、1月にかぎらず月日は足早に過ぎ去っていくのだろう。頭のなかを66の数字が明滅する。


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