日  録 5年目の「信州合宿」と友の墓参 

2015年8月4日(火)

おとといの夜、北に向かって車を走らせていると上空にオレンジ色の亀裂が間欠的に描き出された。鮮やかに光ってすぐに雷鳴にとって代わる。落雷や大雨の被害に遭っている人たちには申し訳ないが、久々に一大天空ショーを見る心地がして嬉しかった。

それは、対岸の火事という思いがあるからだろう。嬉しいきもちは月や星を見るだけにとどめておかねばならない。

仕事を終えて「冷蔵倉庫」のなかから出てくると熱風が全身にまといついて、つかれがどっと押し寄せる。夏の前はもっとかろやかだったからこれは暑さのせいにちがいない。(何%かは歳のせい?)

毎日熱中症で病院に搬送される人が千人以上いて、そのなかの何人かは命を落としているという。海水浴での事故もそうだが、油断したり、注意を怠ったりしているわけではないのに、不意に不運に見舞われる。いい意味でも悪い意味でも人と自然は一体ではないかと思うときである。

そこで、帰りがけにコンビニに立ち寄って冷たい飲み物を。アルバイト先の会社の商品があれば迷わず手にとり、なければ、連日たくさん送りつけている(会社別にいろんな商品を仕分けるのが仕事の中身)のに、と怨めしい。居合わせた同僚と語らいながらいっときを過ごす。ほんとうの帰途につけるのはそのあとだ。

こういう心理は何だろうと自分でも訝しい。少し突き詰めてみる必要があるかも知れない。猛暑の妄想、として。


2015年8月8日(土)

行こうか、行くまいか前夜まで迷ったが、意を決して今日、新宿健診プラザにて人間ドックを受けてきた。何よりもショックだったのは身長が1センチ以上縮んでいたことだった。

去年の記録を見ながら、168.4センチが167.2センチですね、減ってます、と担当の看護師は無情にも言う。そんな! と絶句していると、もう一度測り直しますか、と。即座にお願いします、と答えた。

背筋がちゃんと伸びていなかったことも考えられますからね、とフォローしながら測定機器をセットし直した。しかしその慰めの言葉もむなしく、測定値は変わらなかった。

こんどはちゃんと伸びていましたものね、と看護師は自分に言い聞かせるようにその数値を記録した。部屋を出て医師の問診を待っていたひとまわり下の同僚に「測り直してもらったが、ダメだった」と報告すると、大いに笑われた。足も縮む、からだも縮む。せめて心だけは広やかになっていこうと。負け惜しみみたいだが、そう思った。


2015年8月13日(木)

12日夕、信州から戻ってきた。数えてみればことしが五回目になるが、この5年、20歳前に出逢って以来ずっと交友を重ねてきた同級生4人は元気につどうことができている。名づけて「信州合宿」、ことしは安曇野「天平の森」のコテージだった。3人は西の方からやって来て二泊し、ぼくは東から駆け付けて一泊した。

こんなきっかけを作ってくれたのは09年3月9日に62歳で世を去り塩山のムスリム墓地に眠っているM君だった。2010年春にM君のお墓参りに行った。M君の奥さんと妹さんも同行、お参りしたあと持参したアルバムを見せてくれた。「大学の友」の項目にあった一枚には偶然にも30歳前後の5人が写っていた。第一回目の「信州合宿」は次の年の8月に伊那谷に集まったのが最初である。

そのお墓参りからちょうど5年が経っている。ことしの「信州合宿」はM君の墓参をもうひとつの目的にしていた。前日に志賀高原を歩いたあと、思いがけず善光寺に行くことができたのも何かの縁かも知れなかった。

翌12日、りんごや桃やサクランボ畑を縫って墓地のある丘に行った。すぐ右側を土石流が走ったらしくむかしの道が消えて、真新しい砂防ダムと堤防ができていた。5年というのはそれぐらいの変容をもたらすものだろうと思う一方で、くぼ地の家並みやアルプスの眺望は寸分も変わっていない。そのすばらしい眺めの方に顔を向けて埋葬されたM君に、この五年の無事を語りかけていた。



去年は野麦峠で3人と別れるとき不覚にも涙が止まらなかったが、ことしはSAで自分の車が消えてしまう(?)経験をした。一時間以上同じ場所を何度も往き来して探し歩いたが、見つからない。そのうち雨が降り出し、記憶が曖昧になってくる。これはひとつのミステリーだと、誰彼に向けて叫びたくなっていた。

実は、駐車場が建物を挟んで2ヵ所しかないと思い込んだための失敗だった。建物の影に隠れて「第3の駐車場」があったのである。教えてくれたのは車を誘導している人だった。「どうやっていくの?」と聞けば「あの建物の向こう側ですから、まつすぐ」。やっと見つけ出したとき、これは単なる「失敗の経験」ではないかも知れない、と思ったものである。何のメッセージかは見当もつかないが。


2015年8月17日(月)

「信州合宿」承前。あの有名なことわざ「牛に引かれて善光寺参り」とは、Webによれば、「思いがけず他人に連れられて、ある場所へ出掛けること。また、他人の誘いや思いがけない偶然で、よい方面に導かれることのたとえ」とあった。 元の説話は善光寺のHPにも載っていた。

牛の連想からのんびりと参道を歩く風景を思い浮かべていたものだがこんど認識をあらためることになった。若い頃全国紙の長野支局に3年間勤務したことがあるYt君は「なにかのアンケートによれば、長野の人は、牛の肉はあまり食べないそうだ」という。

このことわざと関係があるのかどうかわからないが、Ya君は「その地にとって神聖な動物ってあるよな」、「牛は農家ではついこの前までは、家族の一員だったんだよ」とO君。丑年生まれのぼくは、家の一角、台所の隣の土間にりっぱな部屋をあてがわれて同居していた牛たちのことを覚えている。

「同級生」はひとつ車の中やコテージで過去と現在の交錯するような会話を三日間にわたって続ける。いつまで経っても、いつも青春、この場合は何に引かれるのだろう。友とはありがたいものである。


2015年8月19日(水)

7日ぶりの休日。緊急の用事がいくつかあった。そのひとつ「オイル交換」の間に近くの家電店に立ち寄って、長らく切れているプリンターのインク探しをした。これは急ぎではないが、機種が違うと合わないので必死に思い出しているとたしか「ip2600」だったと思い当たった。ほとんど手が出そうになったが、家に戻って確かめてからでもおそくあるまいとここは慎重になった。

直後、換気扇カバーがあった。油汚れがかなりひどいのでこれは急を要する。いつもはホームセンターまで出かけて買わねばならない。家電店にもあるのか、と嬉しかった。

そのせいでこれだと確信して買ったものの、型番がちがっていた。ピタリとはめ込むことができない。ちょっとぶかぶかだけどすぐにお前の方がおおきくなるから、と靴をあてがわれたこどもみたいである。安い買い物でないのでしばらく使うしかない。(ちなみにプリンターの方は「ip2700」だった。あわてて買わないで助かった。すなわち1勝1敗)

換気扇カバーにかぎらず、ドメスチックな買い物となれば「こういうことにだけは積極的に動くのだから」と配偶者はいつもあきれかえってきた。今回の失態を知ればなんというだろうかとふと考えた。

午後も遅くなって病院へ。薬の処方箋をもらうのがほとんど唯一の目的だが、今回は血液検査が組み込まれていた。医師は、いつものように多少貧血ですが、コレステロールも血糖値も正常ですよ、と言ってくれた。赤血球は? 採血を待つ間にパンフレットから仕入れた知識をひけらかせて訊けば、「大丈夫」。

それにしても、8日の人間ドックのときに続いてまた血を採るなんて、まったくついていない。検査費用だって馬鹿にならない。1勝2敗である。それも含めて、検査結果を富良野にいる配偶者に報告した。換気扇カバーのことはあえて書かなかった。


2015年8月23日(日)


台所にヤモリの赤ちゃんを現れたのが数日前。歩みをとめ、愛らしい表情を浮かべて見上げるので、やぁー、と思わず手をあげた。体長3〜4センチなのに早くも一人前なのがおかしい。警戒心は毫もなかった。

後部座席のドアが中から開けられなくなった。主に娘が乗るのだが、どうぞお降り下さいとばかりに外に回ってドアを開ける。深窓のお嬢さんでもあるまいにと白茶けた気分でいるとずっと以前にもこんなことがあったのを思い出した。あのときは立ち寄ったディーラーでついでに訊いてみた。すると即座に「チャイルドロックですよ」とドア側面のレバーを操作してくれた。なんとなくばつが悪かったのを覚えている。

今回もまさにそれだった。原因特定まで数日かかったが、自ら、意気揚々と解除した。同じチャイルドでも、大きなちがいだ。


2015年8月25日(火)

昨24日は地蔵盆だった。といっても都会生活ではなじみがない。ネットによれば、

《地蔵盆とは、子どもの守り佛として古くから信仰されていました。/平安時代以降に阿弥陀信仰と結びつき、地蔵信仰が民間に広がり、道祖神と同じように村を守る役割も果たすようになります。そして、地獄の鬼から子供を救うとして子供の守護神ともなり、現在にいたっています。

《そこから全国に地蔵菩薩が広がり、それぞれの道端にも石地蔵が見られるようになったのです。しかし盛大にお祭りするところはおもに関西周辺に限られています。

《地蔵盆の主役は、子どもたちです。京都では、各町内ごと地蔵尊の前に屋台を組んで花や餅などの供物をそなえ、お菓子を食べながらゲームなどの遊び、福引きなどが行われます。》

などとある。鈴鹿の山中で育ったぼくは、こどもが家々を訪ね歩くとお菓子や飴を貰えたのはこの日だったのではないかと60年近く昔のことを想うのである。いまも残る風習とは思えないが、こどもとは地域のみんなが見守り、育てるものだと教えられていたようだ。こどもは宝であり、未来そのものだった。

こどもが殺される事件ほど痛ましいものはない。現世に「鬼」が住むと想像するこどもがいるだろうか。


2015年8月28日(金)

人間ドックで再検査を指摘され、病院に行く日と決めていたが、予約が取れなかったので来週にした。一週間「命拾い」をした気分である。娘や配偶者はそれぞれネットや実家にある本(かつて病院だった)で調べて逐次教えてくれたが、本人はあれこれ予断を持って心配するのは業腹だと思っている。自分のからだと向き合う勇気がないのかも知れない。

66歳ともなればどこかに故障が出てもおかしくはない。アルバイトをしながら、大丈夫か、動きが鈍くなっていないか、などと自問する瞬間が増えた。「最年長」を強く意識するときである。それでも、仲間に入れてもらって、ちょっとしたときめきもあるうちは働くべきだと思っている。

年齢算には「ぼくの歳が君の歳のちょうど2倍になるのは何年後ですか?」などという問題があったが、昨日誕生日を迎えた若い友人は33歳になるという。ちょうど半分のゾロ目である。故なく感激した。

この問題が任意のふたりに当てはまるのは一生に一度のことである。そういう意味でも稀有なことであった。


2015年8月31日(月)

図書館で借りてきた『文藝/秋号』にて宮内勝典さんの連載「永遠の道は曲がりくねる」(第三回)を読みながらなぜこんなにも言葉がなつかしいのだろうと思った。

同時に借りてきた大城立裕『普天間よ』、所収7つの短篇のうちの3つは雑誌掲載時に読んでいた。ここ7、8年内のことなのでよく覚えている。表題作だけは書き下ろしとある。ここでもまた絶妙の安心感を覚えた。

舞台はともに沖縄、戦争の影、ヤマトンチューとアメリカーの世を引き摺っている。それなのにはるかなる郷愁とでも言うべきものがある。言葉の力だろうか。

前後して考え続けていたのは純文学の「英訳」。かつては何度も口にしたのにすっかり忘れ果てていた。頭が痛くなるほど記憶を呼び起こそうとしたがダメだった。力尽きてネットに頼ってしまった。「serious literature」。

記憶は随分近くまで行っていたのだ。もう少しで自力で思い出すことができたのに。大事なのは自分の言葉だ。


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