日  録 「率爾ながら…」 

2015年10月3日(土)

数日前、砥石が見つかったので包丁を研いでみた。何年ぶりのことだろうか。いや、初めてかも知れない。シャッシャッと音を立てていると一人前の職人になったような気がした。

小さい頃は、見よう見まねでノコギリの目立てをしたこともあったのに、友人がかつて「オレは包丁研ぎの名人だ」と言うのを不思議な面持ちで聞いていた。包丁は定期的に研ぐものだとせっかく教えてくれていたのに。

札幌から仕事で出張してきた配偶者の妹は開口一番「わぁ、年取ったね」と言った。会うのは5,6年ぶりくらいである。同年同月生まれの妹は昔とちっとも変わらない。さっそうとして、まわりの者を元気にさせるオーラを放っている。こちらも現役で仕事をしている身なのに、もはや「爺さまみたい」であったのだろう。 「つかれがなかなか取れなくなったよ」と韜晦。

近くのデパートで、目当てのお店を探して移動しているとき、エスカレーターが突然停止した。叫び声とともに咄嗟に前にいたぼくの腕を掴んだのは妹である。ぼくはキョトンとして、手すりにもたれかかっていた自分のせいで止まったのか、などと考えていた。となりの下りは正常に動いていたからである。歩いて上の階に移動した。店の人に知らせず動き始めるのを確かめることもせず離れた。

ここで包丁を研いだ情景が浮かんだ。感性も身体も、研ぎ続けなければ、年齢に負けてしまう?


2015年10月7日(水)

朝、内田吐夢監督の『宮本武蔵』を観ていると中村(萬屋)錦之介扮する武蔵が「そつじながらそこもとは関ヶ原でさぞご活躍なされ云々」と言う場面にでくわした。「そつじ」とはしばらくお目にかからないことばなので耳をそばだてた。咄嗟に漢字を当てはめることもできない。

広辞苑によれば「率爾ながら」とは「にわかなことではあるが。突然で失礼ですが」と説明されていた。話し言葉はもとより、書き言葉としてもいままで一度も使ったことがないはずなのに、どこかで一度は使ってみたい、なつかしいことばだと思ってしまった。

年長者に異論を唱えるときに「お言葉を返すようですが」と口ぐせのように前置きした故・河林満を思い出した。これはとても真似できないことばだったが彼が書くものは抒情が澄みきっていて長く心に残っている。

最近は流れゆく過去も日々の感覚も「無常性」におおわれていくが、そして映画も錦之介も古々(!)だが、そんな無常感をひっくり返すことばなのかも知れない。


2015年10月11日(日)

白昼こむら返りに見舞われたのが一昨日。仕事をするうちに、激痛の瞬間は減っていったがその瞬間の記憶が生々しく残っているのでこわごわと歩を運んでいた。きのう薬局にて、勧められたフェルビナク配合の湿布薬を買ってふくらはぎに塗った。たしかに塗れば痛みは緩和されてゆくような気がした。

8月の「人間ドック」からはじまった一連の内科検診は昨日で終わった。半年後の「CTスキャン」の予約を入れてもらったがまずは「問題なし」となりホッとしていた。そんな頃合いである。

原因は筋肉の酷使にちがいない。痛みは、少しは歳を考えろ、という警告であるのだろうか。「内憂外患」の日々は生きているかぎり続くということか。


2015年10月16日(金)

短い秋である。眠りは心地良くなったが、見る夢ははかない。中身もきっと「しょうもない」ものだろうと高を括っているとこんな夢があらわれて仰天した。

誰かに向けてぼくは語っている。少なくともふたつのアイデアがあるんだ。ひとつは、○○、もうひとつは△△、これを仕上げるまではまだまだおさらばできない。○○と△△の部分が中身なのだが、完全に忘れ果てている。「しょうもない」以前であるが、語りかけている相手は誰かではなく自分自身である、というのがオチである。

秋は夢を見るよりも夢を生きるのに向いている。


2015年10月17日(土)

きのう帰りがけに、来月は是非連休を、と勤怠担当の上司に頼んでみた。いつでもいいのですね、わかりました、と了承してくれた。遠くへ旅がしたいのである。

7日ぶりの休日となった今朝は、高速バスや新幹線宿泊セットや格安航空券をネットで調べてみた。どの日が連休になるかまだ決まっていないので見るだけである。なんとも気の早いことであった。

それから自転車のパンク修理をはじめた。今日の予定のひとつとして修理セットを予め用意しておいた。その程度にやる気満々だったが取り掛かってみて愕然とした。ゴムの部分がなくなるほどにタイヤがすり減っている。ことに中央部分はいまにも破れてしまいそうである。配偶者の証言によれば、その瞬間パーンという大きな音がした、という。

修理はなんなく終わったが、チューブが黒い疣のようにはみ出しているところが1ヵ所見つかった。そこは地面と接する中央部だけにまたいつ何時パンクするかわからない。もう一度取り出して、その部分にパンク修理に使うパッチを貼った。それでも疣はタイヤの穴からふっくらとのぞくのである。

車の運転中に、ゴムか皮の切れ端をタイヤのその部分の内側にあてがえばよかったのだと気が付いた。家に帰る頃はもう暗くなっているので、また次の休日にやり直す(対処療法に過ぎないが)しかない。

こんなことですらたった一日の休日では完遂しない。いやそうではなく、そのアイデアに気付くのが遅すぎたのであり、要はソフトもハードも想像力が衰えているということかも知れない。反省。


2015年10月20日(火)

先の休日にパンクを修理した自転車は翌日、配偶者が近くのコンビニまで乗って出かけたところあっけなくバーストした。タイヤはリムからみごとに外れていた。これはもう取り替えるしかない。

YOU TUBE で 「HOW TOビデオ」などを見ながら自分でやるのもひとつの選択かと考えたが、けさ病院帰りにホームセンターに寄って聞いてみれば思ったよりも格安(税込2980円)で交換できるという。家に戻ると早速ハッチを開いて荷台に自転車を押し込んでホームセンターに向かった。

仕上がり時間をかなりすぎてから引き取りのために再々度ホームセンターへ。後輪だけがピッカピカの自転車に満足して(つまり乗る必要もないのに乗ったりして)30メートル先の車に戻ると、となりではいままさに荷台から自転車を下ろそうとしているところだった。車の形もそっくりである。

「なんという奇遇でしょうか」見ず知らずの人に話しかけていた。

若い奥さんが外に引き出すのに難渋しているので、ぼくは「ちょっと場所を代わってください」と言って左に回り込んでハンドルとサドルを抱えてなんなく引っ張り出してあげた。この種の積み卸しに関しては20年来のキャリアがあるのだ(エヘン)。

一緒に来ていたおばあちゃんは「孫が出かけるというのに、ブレーキが利かなくなっていたので直してもらおうと思って」問わず語りに説明してくれた。こちらの事情もよほど話したかったが、遠慮した。中学生になった(おそらく)孫はすぐにも出かけなければならないのだ、きっと。もう日が暮れかかり、ぼくの休日も終わろうとしていた。


2015年10月21日(水)

自転車の話には「つづき」が待っていた。車に積んでホームセンターから家に戻ってみるとタイヤの空気が甘くなっている。空気を入れ直して夜中に見るとまちがいなく減っている。こういうことは気になってしょうがない。そんな性分であるらしい。

起きてすぐ作業を開始した。曇り空のため外はまだうす暗い。チューブを取り出して空気を入れ、バケツの水に何度もつけて漏れを調べていった。

わずかずつ減っているということは穴は小さいはずだ。見つけるのも容易ではない。何巡目かでやっと見つけた。バルブの近く、つなぎ目辺りからポッポッと泡(バブル)が吹き出している。新品なのに、欠陥商品? だったのか。

穴というよりも小さなそのほころびを塞いで完了。約30分の工程だった。これを「朝飯前」というのだろうと悦に入った。

気になるので仕事先から「空気はどうだ?」と数時間おきに2回メールをして確かめた。「パンパンです!」という返事があったので本当に直ったのだと確信した。

最後はホームセンターに電話。車に積んで往復4キロを走る必要はなくなったので「一件落着」だが、やはり「報告」はいるだろう。


2015年10月23日(金)

朝一番、1gのパック入りオレンジジュースを6本両手で抱えて移動しようとしたときパレットに蹴躓いて転倒した。

咄嗟に飲料バックを床に放り投げ、からだを90度ねじり側面で着地していた。柔道の受け身の要領であった。膝で受けてはいけないという天の声を聞いたのである。

11年の正月と12年の暮れに相次いで膝の皿(膝蓋骨)を割って入院している
。また割れるようなことがあればこんどこそ修復不能となるかも知れない。スローモーションのように自身の動きが反芻できる。おかげで怪我はなし、痛いところもない。ただジュースパックは角や側面がへこんで6本とも使えなくなった。

床に倒れ込んだぼくに気付いた女性が「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」と気遣ってくれた。直後、ふたまわりも歳の離れたアルバイト仲間のその女性に、横向きに倒れた理由を縷々説明しはじめる自分がいた。

偶然ではなくぼくは十分に意識してこんな風に倒れた、ゆえに無事だった、と。ここは大いに自分をほめてやりたかったのであるが、その女性には伝わらなかった。キョトンとして耳を傾けている風だった。「まぁ、気を付けてね」退屈そうにそう言うのだった。

ああ、これぞ普遍ロマンチズム=ひとりよがり。照れ隠しの強弁の方がまだかわいい。

シャクだったので社員をつかまえて顛末を話した。「商品は御釈迦になったが、自分の身体を守ることはできた、と言いたいのですね」と返された。わかる人にはわかるのか。


2015年10月27日(火)

東京地方で24日夜おそく、近畿で25日、「木枯らし1号」が吹いた。去年と比べて東京で3日、近畿で2日、それぞれ早いという。木枯らしとは10月中旬から11月いっぱいにかけて吹く毎秒8メートル以上の北よりの風のことだが、ことしの第1号は東京都心で最大瞬間風速13.3メートルだったらしい。

翌25日の朝がもっとも冷え込んで、昨26日にはたまらず出勤前に灯油を買いに走ったのである。今日は南風が吹いて気温も上昇、夏日になった。秋の天気は変わりやすいのたとえ通りである。

ところで地上の人間のひとりであるぼくは立春の頃にはじめて吹く風速8メートル以上の「南よりの風の名前」がでてこないで苦しんでいた。春なんてはるか昔のことだとでも考えていたのだろうか。

「春一番」やっと口を衝いて出たのは今宵東の空に満月を見上げたときだった。晩秋に春の話題とはひねくれ者の仕業だが、この調子だと春が恋しくなる季節はすぐにもやってくるのだろう。


2015年10月29日(木)

交叉点を曲がるとむこうから歩いてくるAさんが見えた。何日か前の、午前8時過ぎのことである。Aさんは6年間一緒に仕事をしたアルバイト仲間である。見聞によれば、直情的な性格ゆえにいろいろな人とぶつかることが多くついに辞めざるを得なかった。些細なことでぼくとも一時険悪の仲に陥ったことがあったが辞める頃は元通りの付き合いに戻っていた。

辞めた直後、電話しても出ないんだよ、と仲間の一人が言っていた。それを覚えていたので、むこうも出勤途中であるらしい姿を目撃してほっとした。

その後もう一度見かけた。こんど会ったら合図をと思っていたところけさ3度目の出会いとなったのである。クラクションを鳴らすと敏感なAさんは立ち止まって音の鳴る方、つまりぼくの車を見た。笑いながら手を振ったがAさんはスマホを手に立ち竦んだままだった。バックミラーに長い間こちらを眺めている様子が写っていた。気付かなかったのかも知れない。

十数分後、大きな交叉点を右折すると反対側で信号待ちをしている車のなかに見知った顔が見えた。さっきよりもっと瞬間的な一瞥だった。彼女はうなじに手を当てて長い髪をかき上げるような仕草をしていた。そんな癖も、何度か見たことがあるのでほぼまちがいないだろう。

「あの街角でいつもすれちがう人にいつしか恋心」などというのはもはやレトロな(昭和的な?)心象風景だろうが、たった1時間の間に2度も経験するとは、稀有な一日であった。


2015年10月31日(土)

ここ数年間開け閉めが容易でなかった網戸。力の入れ方が悪いと時にはずれてしまうこともあった。今日、戸車(とぐるま)を取り替えたところ見違えるほど滑りがよくなった。新しい戸車ははめ込み式で滑車が2個並んでいる。滑りがなめらか、はずれにくいというのがうたい文句である。

実は数日前、となりのTさんが居間の網戸の戸車を取り替えてくれたのだった。こちらもぼくの部屋ほどではないが、相当建て付けが悪くなっていた。日頃の難渋ぶりをみかねてやってくれたのである。

その報告を聞いてこんどは自分でと思い立ち、どういう風になっているかいったん外して調べておいた。それが効を奏した。ホームセンターにまったく同じものが一対528円で売っていたからだ。

これはいわば二番煎じ、自分の手柄ではないので、なんでいままで気付かなかったのだろう、と控えめに独りごちれば「生活をより良くしようという気持ちがないからよ」と配偶者はにべもない。「そうだなぁ」とつぶやき返すしかなかった。

次は木製レールをはみ出して時にコンクリートの三和土に落ちてしまう雨戸だろうが、いまのところ何の勘案もない。ことしもあと二ヵ月となる。



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