日  録 カラスも白い息を吐いた

2016年1月3日(日)

あけまして おめでとう ございます。

年が明けてもう3日が経つ。27日から続いた連続勤務がきょうで終わった。明日がはじめての休みとなり心身ともにほっとする。こんなタフでいいのか、みえない落とし穴が仕掛けられているのではないか、一方で怖さがあったりする。

ともあれ、新年の3日間はおせち料理を弁当に詰めてもらって仕事に行った。アルバイト先では、弁当を買うために近くのコンビニに走る同僚に「ぼくは、おせちをもってきたから、いい」と言うとおおいにうらやましがられ、からかわれる。

そういえば、いそいそと朝の支度をして「はい、おまえさん」と弁当を受け取った。それを手に「じゃぁな」肩で啖呵を切るように車に乗り込んだ。これは、まるで若夫婦のようではなかったか、と妄想するのである。

さしずめよみがえりを感じる新しい年にしたいものである。

 
2016年1月4日(月)

8日連続勤務、こんなにタフでいいのか、などなど吹聴していると心優しい若き友から「気持ちもいつまでも若くいてほしいですが、あまり調子に乗りすぎないよう注意です!」との忠言をもらった。

まったくその通りだ、いつこけてもおかしくない歳なんだと「反省」しながら、ふざけ好きで、お調子者のことを田舎ではなんと言ったのだったか、と考えた。ぼくもそのひとりで、大人たちからさんざん名指しされたものだったが、その名称が浮かんでこない。

はて何だったかと種々思い巡らせているうちに、ちょけ、と判明した。まわりのみんなが面白がってくれると自分も愉しいし、なによりも嬉しい。そんな心根だったのだろうが、もう遠い昔なのでしかとはわからない。

興味はあるが、ちょけん坊の時代まで還るとなれば相当のエネルギーがいるのだろうなぁ。それともいまや先祖がえりよろしく幼年時代に近づいているのだろうか。お里が知れるとはよく言ったものである。


2016年1月7日(木)

市役所・環境課から封書が届いた。開けてみると表題に「アライグマ捕獲従事者研修会について(ご案内)」とあり、宛名書きが「アライグマ捕獲依頼者 様」になっている。

屋根裏に棲みついたアライグマ一家のこども二匹が庭でうずくまっているのを見つけて「保護」し、市役所に引き渡したのが昨年の6月だった。特定外来生物だから自分で運ぶことはできなかった。

本文には「受講された方には「埼玉県アライグマ防除実施計画に基づく従事者証」を交付しますので、その後はご自分でアライグマを捕獲することが可能になります。」とある。講師は「県農業技術研究センター・鳥獣害防除研究チーム担当部長」、人数は「50名程度」となっている。

そして「是非この機会に研修会にご参加いただき、アライグマの駆除にご尽力いただきたいと存じております」と結ばれていた。

たしかに捕獲依頼はしたが、おとなしくただうずくまっていただけのアライグマの幼気(いたいけ)な目(おそらく空腹だったのではないかと推測する。親がなかなか戻ってこないので下に降りてみたところを人間に見つかってしまった)がいまだに思い出される。配偶者などは当時「生き延びさせてあげられないの?」と言ったものだ。それがぼくの責任であったのかも知れない。研修会に行く気にはとてもなれないのである。


2016年1月8日(金)

一日遅れで車内の正月飾りをとりはずした。おみくじが挟んであったのでいそいそと開けてみた。 「吉」である。

「願事;叶います」「健康;睡眠が肝要」
さらに「恋愛;この人は手放さない方が良い」とあった。

この人とは誰か? と添えてfacebook におみくじの写真を投稿したところすぐさま若き友がコメントを寄せてくれた。

「助手席に乗っている人はとても大切な人だからでしょうか」

これは盲点だった。「助手席の人」だったのか。車のお飾りだけに、粋なオチとなった。


2016年1月12日(火)

きのうの夜、蝿を一匹捕まえた。3日前ぼくの部屋で見つけた奴だった。捕まえたのはとなりの居間。それまでどこかに潜んでいたのだ。人恋しさにまた出てきたのか。この人は、敵なのに。

あのとき用意しておいたスーパーのレジ袋を手に持って、カーテンに止まった奴にそろりと近づき、一気にかぶせる。今度こそやったぞ、と袋の口を閉じて振ってみる。中にいる気配はない。それどころか天井辺りを悠然と徘徊している。またもや逃した。

そんなことを数回繰り返して、ふたたびカーテンに張り付いたところを「確保」した。動きの鈍くなった冬の蝿との闘いに勝ったぼくは、10日にまたひとつ歳を重ねた冬の老人である。


2016年1月16日(土)

かつて義母は電話口で「お姉ちゃんに来てもらうととっても元気になれるの。不便をかけますが、よろしくね」と言った。お姉ちゃんとは配偶者のことで、身のまわりの世話に配偶者が北海道まで行くことを詫びるのだった。

この「元気になれる」というのは何回も聞き、いまも耳奥に甦ってくる。2011年夏に亡くなるとき、病室で配偶者が看取った。死は無念なことにはちがいなかったが、そのことは義母にも配偶者にも良いことだったと思っている。

かしこい人だった義母のこのことばがこのごろぼくは理解できるようになった。元気をもらい、元気を与える、これこそ人間関係の基本ではないかと考えられるようになった。そう言ったときの義母の歳に近づいてもいるのである。


2016年1月25日(月)

夢ならよかった。夢でよかった。このふた通りの「言い回し」は天と地ほどのちがいがあるのだろう。これまでに、どちらにも当てはまる夢と出くわしてきたが、そのひとつ、観光バスの運転手になっている夢を見たことがある。もう何年も前のことである。

峠道を越えてすぐの巾着のように広がった駐車場で、そろそろ出発時間となったのでおもむろに運転席に付いて生徒たちが戻って来るのを待っている。09年まで続けた塾講師時代、毎年夏に勉強合宿を引率していた。その帰路に当たっている。すると場所は志賀高原だが、なぜ自分が運転する羽目になるのかはわからなかった。とにかく、全長十数メートルの車体を動かしてゆかねばならない。試運転よろしく、空のままここまで運んできた。思いのほかうまく動かせたので、少し自信はあるが、緊張していた。

夢が終わるころぼくは乗客になって生徒に囲まれていた。実際に運転することはなかったのだったが、こんな些細な夢を覚えていたばかりに有為の若者が命を絶たれた軽井沢のバス事故によって、長い間どんな「ことば」も浮かばず、ただただ無念極まりなし、と呟くしかなかった。


2016年1月28日(木)

朝出勤途中で1羽の烏を見た。小川の岸辺のフェンスを数センチずつ移動しながら真下にあるゴミ箱を窺っていた。一歩動くたびにポッポッと太いくちばしの先から白いけむりが出ているのだった。

やがて地上に降り立ったカラスは交差点角のゴミ箱まで飛び跳ねるように動く。そのたびに白いけむり。カラスの吐く息も白くなることをはじめて見た。信号が青になってその場を去ったので、ゴミ箱に突入する姿は見られなかったが、あの白い煙がマンガの吹き出しのようなカラスの吐息に聞こえてきた。


2016年1月30日(土)

食器を洗いながら「この部分を必ず忘れずに、常にキレイにしておくことが肝要」ということばが甦り、毎回丁寧にスポンジでこする。この部分とは「茶碗の底」のことで、50数年前、小学5、6年の頃、家庭科で教えられたことである。

その授業には調理実習があった。何をつくったのかはもう忘れたが男女がなかよくワイワイ言いながら食べた記憶も残っている。それが楽しみの根源だったのだろう。(山奥の小学校にはまだ給食がなかった。)

もっとしっかり覚えておかなければならないことがあるはずなのに、それらはきっと忘れ果て、どうでもいいようなことをいつまでも覚えている。記憶とはつくづく厄介なものであると思う。

ところでその「茶碗の底」は「高台(こうだい)」と呼ばれるらしい。糸底、糸尻とも言う、と「ネット」に教えられたが、半世紀も経てば学びのカタチもちがってくると実感した。


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