日  録 うつつをぬかす日々 

2016年2月5日(金)

あたらしい年も、早くも月が変わり、もう5日となってしまった。はやっ、と思わず呟いている。3日名古屋のO君からメールあり、

「近くの庄内川の堤防の上から遠く養老山地がのぞまれるが、この時期はその向こうにある鈴鹿山脈のいくつかの山の頂上が雪をいただいてくっきりと見える。あの山々のむこうに甲賀郡や蒲生郡があるのかなどと考えた。」

甲賀郡というのはぼくの生まれ故郷であり、「あの山々」のなかには御在所岳や綿向山が含まれている。春を待ちかねて頂上をめざしたなつかしの山々である。稜線の残り雪を両手で掬って口にするときのうれしさを思い出す。山歩きの好きなO君はそんなこころの機微を知っている。

翌4日は立春。まんまと望郷の念を煽られたのだった。


2016年2月7日(日)

3、4日ほど前、義妹からズボンが送られてきた。この21日には教え子や若い友人たちと逢う機会があるので、自前のブレザー、義兄の形見分けのベルトにフィットしたズボンが欲しかった。コーディネーションに気を使うことは滅多になくなっていたから自分でも不思議な変化だった。配偶者が戻ってきたらねだってみるか、と思っていた。その矢先だったのでビックリした。

二本ともピッタリである。先の細くなった今風のパンツで、かつてのマンボズボンと似ている。「仕事にも穿いていけるなぁ」というと「もったいないよ。一本何万もするのよ。」と配偶者に叱られた。「Henry Cotton's」とは知らなかった。もっともはじめて聞くブランド名だが。つまり、猫に小判。晴れの場で、馬子にも衣装、となるかどうかに成否がかかる。ありがたいことだった。


2016年2月9日(火)

鼻風邪の様相を呈していたので、4日つづけて葛根湯(顆粒エキス)を飲んだ。「大人(15歳以上)1日1回」という用法にしたがって、もう一回、もう一日と伸ばしてきた。5日目の昨夜はさすがに止めた。

治ったような、治らないような、微妙な段階であるが、この葛根湯はクセになる。いったん飲んだあと、気が付くと袋に残った何粒かを掌に受けてお菓子か何かのようにかりかりと噛んでいたりする。そこで意を決して中止したわけである。すると今朝は快調。薬の効用もまたデリケートというべきか。



明け方の夢で、タバコを吸っていた。銘柄は両切りピースである。立て続けに3本ほど吸ったところで、6年前にやめたはずなのになんでだろう、と気付き、あわてて路上に捨てると足で吸い殻を踏みつぶした。いまや許されるはずもない、歩行喫煙だったのだ。急いでどこかへ行こうとしていた。どこかはわからない。


2016年2月13日(土)

靴のサイズ、長年25センチを貫いてきたが昨夏ついに24.5センチに変更した。身長同様足も縮むということを認めざるを得なかったからだ。しばらくフィットしていたが、このところまたぶかぶか感が出てきた。

仕事先の倉庫で履く靴なので四方山話のひとつとして持ち出すと「靴の容積が広がったとも考えられるし、文字通り足が縮んだともいえる。足もストレッチしてあげないとだめだね」と飛んだ。

以来、もっぱらお湯につかりながら足裏をもみほぐし、指先をひきのばしている。このところ慢性となったしもやけとあかぎれの足である。これらは外気温に敏感だから、今日明日あたりは寛解するだろうが、足、本当に元に戻るのだろうか。



「しょなら」というタイトルの小説が載っているという理由で『新潮3月号』を買いに若葉まで出かけた。「修那羅」と書いてもっぱら「しょなら」と呼ばれる実在の地名である。2013年の『信州合宿』がそこだったので、この小説に親近感を覚えたのだった。うっそうとした森の中の石仏群を思い出して、追体験できるかも知れないと思った。諏訪哲史の60枚くらいの小説だったが、ちょっと期待が外れた。日本的感性満載のどろどろしさは修那羅のものだったが。


2016 年2月16日(火)

きのう仕事中に(アルバイト先で)「おいくつですか」と真正面から聞かれた。一拍おいて、しかし反射的に「67」とこたえた。聞いた方はビックリ仰天している様子だったが、言った自分も「なぜぼくはここにいるんだろう」と奇妙な思いに捉えられた。あと何年こんな「重労働」を続けることができるか、と不安になったからである。もしかして明日、身体が動かなくなるかも知れない。「明日をも知れぬ命」というのがもはや比喩ではない、あやうい時間を生きている。

聞いた35歳のドライバーに「あなたのお父さんと同じくらいでしょ?」と返すと「65歳です。でも、働いていますよ。図書館の本を回収する仕事です」と教えてくれた。納得して、心が晴れたものである。

朝、K病院へ。降圧剤を処方してもらうための二ヵ月に一度の通院。他に悪いところはひとつもない身体だが、「明日をも知れぬ…」はスリリングな実感だった。

命あるうちに「不審(ふしん)疾(と)疾(と)くはれられ候(そうら)はでは」(蓮如御文章)である。不審を晴らすとは、「まこと」なるものを聞き定めておくことであるという。なかなか難しいことである。


2016年2月22日(月)

昨夜は愛媛に移住することになった新人の送別会に参加した。新年早々にそのニュースを聞いてそれは是非一献傾けねばと思った。連絡をくれた栄人や直人ら数人の会かと思っていたら、20人以上の送別会となった。

中学生の頃から人なつっこくて、磊落な人柄がみんなから慕われ、忘れがたい印象を残すせいだろう。ぼくにとってもみななみ、塾時代の教え子や同僚であり、なつかしい面々である。ほとんど逢うのは十年ぶり、二十年ぶりであった。あっという間に歳月が流れたと思うが、ぼく以外は、社会の第一線で活躍するはたらき盛りである。それぞれの話を聞くだけで、愉しくなるし、浮かれた気分になる。いい会だった。

また、ここでもぼくは最年長だった。別れ際に握手しながら「これがもう今生のお別れになるやも知れませんが、どうかお元気で」などと茶化すと「いえいえ、あと2、3回は逢いましょう」と言ってくれる。

そうだそれでこその人生だ、とすぐに前言を撤回した。新人は10日ほどあとにはもう松山の人だという。帰り道、皓々とした満月を眺めながら、瀬戸内の海に思いを馳せた。


2016年2月27日(土)

「うつつをぬかす」の「ぬかす」とは何かと考えた。うつつが現実の「現」か、空想の「空」かで、ぬかすの意味も変わってくるのだろう。

「現」ならば、抜き取るあるいは飛ばすというほどの意味となり、ちょうど「夢の中」にいるような感覚の言葉となる。蛇足ながら「夢現」という対語もある。

「空」ならば、「ぬかす」はもうひとつの重要な意味「言いやがる」に相応するのではないか。いまも関西方面では使われているはずだが「ふざけたことをぬかすな」の「ぬかす」である。つまり「絵空事を延々としゃべる(行動にも現れる)」というイメージである。

このところ来る日も来る日も小説のことを考えているので、後者の方にぼくは与(くみ)したい。



まるで海のようよ、と配偶者が哀しむので一大決心をして台所直下の排水溝を浚うことにした。ふたつの排水たまり場を土中で結ぶ管に泥土が詰まり水が地上に溢れかえるのである。なぜ管に泥土が流れ込むかといえばたまり場の内側のコンクリ(囲い)が崩壊しているからである。

もう長年の瑕疵だが、抜本的な修理をせずに定期的に管の泥を吐き出してきた。今回は、半年以上ほったらかしだった。気になりつつもそのままにしてきたが、水を使うのが申し訳ない気持ちでいる、と聞いて、もはやこれまでと観念したのであった。

つけとも言うべきか、泥土はヘドロと化していた。スコップで「海」の水をよけ、鋼鉄のらせんワイヤーを管に通してくるくる捻ること30分、ついに貫通した。そのままふたをするのは芸がないので、少し工夫をした。

すなわち、泥が入り込まないようにたまり場の底に植木鉢の受け皿を置いてみたのである。吉と出るか凶と出るか、もとより素人の技だから、判別はできない。



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