日  録 記憶、がんばれ

2016年5月2日(月)

今日も夏日であるという。庭は黄色い花の木香薔薇や白い満天星(どうだんつつじ)が満開になっている。地面を這う赤い酢漿草(かたばみ)もいつの間にか領野を広げていて、元気いっぱいである。

南西の角に巨大な地球儀のように聳え立つ金木犀(樹齢33年)の枝を切り落とすことを思い立った。懸案だった。道路にはみ出しているために強風で倒れたりすれば一大事、というのが最大の理由である。大地にしっかり根を張っているので倒れることはまずないと思うものの、何が起こっても不思議ではないのが最近の自然であってみれば、早めに手当てしておくに如くはない。

午後から機会をねらっていたが、曇り空のままで、気温も上がっていかない。晴れの日に、汗だくになりながら格闘したかったので、本日は断念。緑の地球儀はかくてなお健在である。ちょっと嬉しい。


2016年5月6日(金)

緑の地球儀という呼び名が気に入っている金木犀の写真を表紙に飾った。一回移植したが33年間一度も手入れしないできたのに、こんなにまん丸く育つなんて。近々枝を切り落として、もっとスリムにするつもりでいたが、芳香とともに花が咲くまで待ってみようかという気になった。秋の彼岸すぎまで。


2016年5月9日(月)

朝から曇り空だった。ときおり小雨がぱらついた。こんな日にほぼ半日「日時計」のことを考えていた。ヘンなめぐりあわせであった。発端ははるか昔宇品島(広島)の小高い丘(標高53メートル)で目にした巨大な石のモニュメントである。正しくはその記憶。(もはや記憶も怪しいので他の場所だったかも知れない)あれは何だったのだろうという疑問だった。

稚内・宗谷岬の最北端の地の碑も思い浮かんだ。正月に訪れて北極星の一稜(とがったところ)をかたどった碑を背にして写真を撮った。背中のむこうにサハリン島が横たわっている。40数年前の記憶をもとにその記念碑が巨大な日時計だったらと想像してみたのだった。

しかし想像もここまでで、あとはネットで日時計の画像を眺めていた。世界には実に様々な日時計が存在する。すばらしいの一言。太陽とともに人間は歩んできたと改めて実感した。長い時間日時計画像に魅入っていた。


2016年5月14日(土)

ひと月ほど前、前歯が一本欠けてしまった。フランスパンをかじった拍子に折れた。さほど堅い物ではなかったので、前々から弱っていたのだろう。

数日前からフィンランド土産の歯磨き粉を使い始めた。明るいオレンジ色の、ムーミンとリトルミーの絵柄をあしらったチューブである。かなり甘いので子供向けだろうとすぐに気付いたが、それでも使っている。使うたびに乳歯の抜けた子供の笑顔は可愛いものだがなぁと嘆息する。

逆に子供から見れば、どんな風に見えるのだろうか。剽軽な姿に見えればいいのだが。


2016年5月18日(水)

昨日アルバイト先ではじめてあった人(社員)の名前が忽然と消えた。退社するまではちゃんと覚えていたのに、思い出そうとすれば後頭部が唸るように痛みはじめる。口惜しいがそのうち甦ってくるだろうといったん諦める。

お昼前、配偶者の買い物に付き合ってひとりスーパー内の百円ショップに入った。途端に、さっき家で買うときは百円ショップがいいなぁと思ったことを思い出すが、その物が何だったのか、出てこない。ううと唸って数歩歩くとこちらの方は楊枝だったと判明した。

その後、その人の名前は丸一日以上経ったいまも思い出せない。聞くところによれば大病から生還して会社に復帰、このセンターでリハビリをかねて職務を果たしていくという。一日一緒に行動したがからだも脳もまだ完全ではないようだった。年齢を聞くと38歳だという。これからの人だ、がんばって欲しいと職場の最年長は思うのだった。

それなのに、肝心の名前をど忘れしているのだから、呆れる。記憶、がんばれ、と言いたくなる。


2016年5月25日(水)
 
昨夜“残業”を終えて帰宅すると玄関先の龍眼が横倒しになっていた。先端は隣家の金網のフェンスで直角に曲げられている。風が強く吹き始めて間もないと思われるので、ついさっきの出来事のように思えた。

風の強い日またはそう予想される日にはドア左側の風除けの近くに移動するようにしてきた。ふだんは、狭いポーチもドアから離れるほどに太陽の光りに近くなるので、南国育ちの龍眼にはその方がいいとドアから遠く離している。そこは風も通り抜ける場所なので(移動を忘れると)ついこんな仕儀にいたる。

あわてて起こしてみると先端まで優に2メートルの高さがある。ひょろりと長いから重心がかなり上にきているのだろう。倒れやすいはずだと思いつつ、月あかりで満開寸前の花を眺めた。

この花はやがて実を結ぶことがあるのだ。固い殻を割ると透明のゼリーが種を包んでいる。それがミルクのように甘いのである。最近は成らない年が多いが、今年こそはと毎年期待をもたらしてくれる花である。

ところで龍眼花蜜と言うのもあるらしい。「瑞々しく肌を潤すことで人気が高い」などと謳われていた。実さながらの効用なのだろうが、残念ながらわれらには無縁である。


2016年5月26日(木)

詩の出版社「MP」の岡田さんが私信のメールで遠藤周作の『無鹿』に触れておられたので昨日、近くの市立図書館に行った。開架室にはなくてカウンターで訊くと係の人が書庫から取り出してきてくれた。1997年に出版された遺稿短篇集というからもう20年が経っている。

1991年に発表された表題作「無鹿」は岡田さんが言うように「味わい深い小説」だった。長いような短いような人生を惻々と感じさせてくれる。上田三四二の「祝婚」でも似たような感銘を受けたことを思い出した。どちらも、引用されている詩の効能かも知れない。

『新潮』の追悼号があったなぁ、と本棚を探し始めたところ本棚にはなくて目の前に積んであった。ついこの前まで他の何冊かと一緒にモニターの置き台として使っていたのだ。

置き台を日本語大辞典に換えるまで背表紙の「追討 遠藤周作ー人間・文学・信仰」という文字がいつも目にはいっていたわけであった。追悼号なのに失礼なことではあったが、おかげでもう一度何人かの人の追悼文を読む機会を持つことができ、『沈黙』を読み直してみようという気にもなった。


2016年5月30日(月)

黒滝へ行く夢を見た。続けざまに2回も見たのでなにかの験かと考えた。道路のそばを逆向きに流れる田村川に沿って五百メートルほど走り、急角度で向きを変えるその川に架かる橋を渡ると道が二股に分かれる。右側の坂を下って田村川をさらに遡っていけばたったひとつの集落・黒滝があるのだった。

もうひとつの、まっすぐ山腹を縫うカーブの多い坂道を上っていくとはじめての集落・鮎河で野洲川に突き当たり、川に沿ってさらに二キロほど遡ればわがふるさとに至る。野洲川ダムのふもとの集落である。そのダムにためられた水が川を流れていく。まさにどんづまりの村里であった。

家に帰るのならば坂道を上るはずだが、夢の中ではなぜか黒滝への道を下っている。黒滝の祭り、と聞けば喜び勇んで出かけた記憶がある。「黒滝の叔母さん」は実家であるわがふるさとへもしばしばやってきたが、末の息子と同い年のぼくが行けばそこでもいっそう喜んでくれた。田村川沿いの道をぶらぶら歩くのもたのしかった。

最後に行ったのは中学生の頃だからもう50年以上も前のことになる。叔母もその連れ合いの叔父も近年亡くなっている。道がかつてと異なり、集落の表情も一変している。高台にあった叔母の家も見つけられない。2回目はこんどこそ見つけ出すぞ、と意気込んで黒滝へ行った。

目覚めて気付いたことは叔母の頬にあった大きなひとつのほくろだった。3年前に亡くなった実兄にもあり、いまやぼくの頬にもある。日々大きくなっていくようである。なんの徴として血縁のなかを引き継がれていくのか、気になる。


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