日  録 原郷へ

2016年10月5日(水)

きのうは10月なのに真夏日だった。「水分を十分摂り、適切な冷房を行うなど熱中症にご注意ください」というテレビ・ラジオのアナウンスを久しぶりに聞いた。なつかしい気がした。冷蔵倉庫のなかで作業していた身にも、動き回れば汗がわき、外に出ればむっとして、盛夏を思い出させた。5時過ぎに帰る頃はすっかり暗くなって、虫が鳴く。西の空には三日月。

朝、歯医者で一時間治療を受けてきた。大学病院なのでインターンがひとり付き、主治医はあれこれ説明しながら治療をしていった。交代して治療の跡を見ておくように促すこともあった。患者のぼくは目を閉じて指導や忠告の言葉を聞いている。ほとんど専門用語がないので「理解」できる。ときおりうなずく自分が可笑しかった。

治療中にもうひとりのインターンがやってきた。「どうしたの? なに?」虫歯をけずりながら主治医が訊くと、「少しヒマができたので、見学に来ました」「あ、そうか。はははっ」

ぼろぼろの歯も若きインターンたちの役に立つのか、と思った。見られて嬉しいのはMに近くなったせいか?


2016年10月11日(火)

「してくれちゃったのよ」こんな言い方がいっとき流行っていたような気がして気になった。余計なこと、つまらんことを「しでかす」という揶揄や叱責ではなく、「ああ、ありがたい、奇特なことだ」いう前向きの意味で使われていた。ほとんど肉体のみを使うアルバイトをしながらこんな由なし事を考えるのは愉しい。

そのうちこれは広島地方の方言ではなかったか、と思うようになった。アパートのとなりの部屋に住んでいた人や一緒にビルの清掃の仕事をした人がよく使っていた。当時はふたりとも中年過ぎのおばちゃんだった。その他に誰が使っていたのか記憶をまさぐっていくと不思議にもおばちゃんしか思い浮かばない。「それはもうYさんがしてくれちゃったのよ」こんな言い回しはおばさん特有のものだったのか。

家に戻ってなおも考え続けると、「ほーれちゃったのよ」「あいしちゃったのよ」と繰り返す歌謡曲があったことに気付いた。これも若いもんの言い草ではない。

ともあれ、「惚れる」「愛する」と「してくれる」との間には日本語文法としては大きな溝があるのではないか。やはり方言だったのかも知れない。


2016年10月13日(木)

きのうの送電施設の火災はアルバイト先の近くだったのですぐにニュースは届いた。5時過ぎに外に出たときけむりは飛行機雲のような条となって西にたなびいていた。しかし家に帰ってテレビの映像を見ると濛々とした黒煙と赤い炎が何時間にもわたって地下から噴出していたのだった。これは天変地異のようだと背筋が震えた。

朝からワイドショーなどの「解説」に聞き入った。都会では電気は地面の下を縦横無尽(?)に縫いあげてあらゆるところに届けられていると知った。よくこんな網の目を設計し作り上げることができるなぁ、と感心したり驚いたりである。ふだんはなにげなく享受しているくせにいまさらのように大きな世界、世間を背負っている気概を感じた。

なぜ小説と呼ばれるのか? と誰かが疑問を呈したことがある。小説があれば大説があってもいい(金芝河には『大説「南」』という小説がある)。電気やガスの網の目の設計はまちがいなく「大説」に通じる。構造のある小説にはこの大説が必ず伏在する、などと横道に逸れた。

ところで、わが住まいは変電所のすぐ横にある。フェンスで囲われた広い敷地内に赤と白の鉄塔が聳え立っている。これらは、いつも目に見える地上のものである。見上げると安心感もある。


2016年10月19日(水)

今日明日と久々の二連休。通院の予定もない、家事もない、最後の2章分を推敲するにはもってこいだと、かねてより楽しみだった。ところがなんの因果か、朝から極度の便秘に悩まされた。昼過ぎにやっと解消したが、その直後外から居間に入ろうとしたときコンクリートの式台に躓いてしまった。網戸に両手をかけて全身を支えようとしたので網戸が破れた。そのおかげで、膝を打った程度で怪我はしなかったといえるが、大損失だ。

配偶者が中から顔を出して「何考えていたの?」と訊く。敢えて言えば今季かぎりで引退することになった黒田投手のことである。突っかけただけの靴も、裾のほつれたズボンも悪いが、この歳になれば小さな石ころにも足元がもつれるほどに身体の衰退があるということだった。黒田投手は日本シリーズに勝って「花道」を飾るだろう。そこには「気持ちの強さ」がある。おこがましくも彼と我とのちがいだと観念する。

験なおしに宝くじを買い、「長屋門」に予約を入れた。


2016年10月20日(木)

昼過ぎて、久しぶりに机の前、北東側の窓を開けた。するとやや涼しい風が葦のすだれをゆらゆら揺すり、風鈴を鳴らした。夏が戻つて来たような一日だった。

明日は金属ゴミの日、物置からプリンターや解体した本棚などを引き出しているときはもとより、網戸の開け閉めが滑らかでなくなったので急遽戸車を買いにホームセンターに走ったときも、パソコンに向かっているときでさえも、ずっと汗をかいていたような気がする。朝のいっときだけは青い空がとても高く、さわやかな秋を味わった。

蝿が一匹この部屋の中を元気に飛び回っている。レジ袋を用意して捕獲しようと身構えているが、とても無理である。止まっても、コンマ2秒間もじっとしていない。五月蠅(うるさ)い蝿は夏を喜んでいるみたいだ。


2016年10月25日(火)

昨24日にはMPの岡田さんと山本かずこさんに逢うことができた。およそ七年ぶりくらいだと思うが、そんな年月が信じられなかった。たとえ三十年ぶりだとしても、ついこの間逢って別れ、今夜また逢っているというように感じただろう。

いつもの日常生活がいわゆるバーチャルで、来し方行く末など四方山を語り合う数時間こそがリアルである、などという「実感」は時代に媚びているような言い草になるのでここは「原郷に戻った状態」と言い換えておきたい。

故郷のもっと奥にある古里。はじめて出逢った場面が鮮明に浮かび、振り返るたびにいて、遠くを望むときいちばん星のように輝いている。そんな古里が在ることがこんなに愉しいことだと知った。人生はいいものだ。


2016年10月30日(日)

直感から「縫わんばならん」を読んでみようと思っていた。今日になってやっとその小説が載っている『新潮』11月号を買うために本屋さんに行った。

その帰り信号待ちをしていると、前を歩く若い父親に幼い兄妹が小走りで追いつき、それぞれ父親の手につかまる場面が目にはいった。左手をにぎった妹の方は3歳、右手をにぎった兄は5歳くらいだろうか。フロントガラス越し見た三人のうしろ姿はやがて白昼のシルエットになっていった。よい光景だった。

これから書くものは過去の記憶であり、シルエットの数々を彩色するものであるのかと思い知る瞬間であった。ふと現れる記憶もあり、必死に思い出す記憶もある。どちらもウソかも知れない。もはや「真実」を確かめるすべはない。しかし、いまの心を映してさえいればかならずしもほんとうである必要はないとも思う。


2016年10月31日(月)

昼過ぎ仕事中に携帯電話が鳴った。登録されていない番号だったが出てみた。Yです、と名乗るので関西に住むY君と思い込んだ。しばらく頓珍漢なやりとりが続き、「明日の夜、食事でもしませんか」言い出すので、「え、こっちに出てきたの?」と聞き返す。

とうに現役は引退しているので出張ということはまずないが、なにかの用事で関東に来ているならば逢わねばならん。
「いまどこ?」
「所沢」

彼は同姓の高校の同級生だった。近くに住みながら、会う機会もなく何十年も経っている。再会を約束して電話を切った。関西のY君なら、この夏にも会っているので声でわかったものなのに、と思ったのはしばらくのちのことだった。いよいよ我も「オレオレ詐欺」に引っかかる域に入ったかとちらっと思った。


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