日  録 陽を浴びたい頃

2016年11月3日(木)

昨夜8時すぎに戻ると宅配便の「不在通知表」が入っていた。不在表では差出人の名前が一字欠けていた。そこに矢印が延び、かすれて読めません、ということわり書きが黒々と書かれているのがおかしかった。

富良野にいる配偶者からの荷物だった。その前の日、明日配達ならば家では受け取れないので夜営業所に取りに行く、と電話すると「配達は3日です」と断言した。その日は休みなのでそれでは配達お願いします、と言って電話を切った。それなのに一日早く届いたのであった。

しかしそれらのことはいまやどうでもよいことだった。ドライバーの携帯に電話すると「ああ、1分以内に伺います。いや、30秒かな」

ドアを開けて待っていると20数秒後に長身の、頑強そうな若者がやってきた。「早いですね」と訊けば、「福本さんちが今日最後の仕事です」とだけ言った。すぐ近くの道路で待っていてくれたのか、とぼくは思い、少し感動した。

「グッドなタイミングでした。もう少しで帰るところでした」 颯爽とした、世に言う「佐川男子」(もう古いかな?)だった。


2016年11月10日(木)

6連続勤務はさすがに長い。次の休日までまだ3日もある。21歳の同僚も同じようなシフトなのでつい愚痴をこぼすと「休日まであと一日で一日前ですよ」となかなか小気味のよいフォローをしてくれた。今日は待ちに待ったその7日目の休日である。朝は車検のために車をディーラーに預けに行く。その一時間あとには歯医者の予約が入っている。

なんか「一づくし」になったが、ディーラーから5キロほど先の大学付属病院には代車で行った。この代車が走行距離3000キロの新車だったのでビックリした。ドアの開け方、エンジンのかけ方からしてちがう。預けた車との差に驚いていると、担当者は「わからないことがあれば電話ください」と真顔で言ってくれた。内部の機器もさっぱりだった。たとえば運転中シートがあまりにも暖かいので切りたいと思うが操作がわからない。ラジオもつけられない。

無事病院に着いてから「あまりにも新しすぎてわけがわからん」と配偶者にメールすると、治療中に2件の返信があり「そんな車危ないでしょ」「わけの分かる車に換えてもらったら」

しかし走っているとわけが分かりたくなり、あれこれといじってしまう。分かりはじめるとまた愉しいのだった。あなたはきっと運転しながらいじるだろうから、と配偶者にはわかっていたからあのような返事になったのだろう。新しいものは背馳をうながし、同時に身と心を惹き込んでいく。走行中は自重、自重。


2016年11月11日(金)

100メートルと離れていない母の実家は長い間茅葺きだった。集落の80戸のうち、やがて最後の茅葺きの家となった。18歳になってそこを離れるときはまだ茅葺きだったように思う。年に一度の帰省を繰り返すうちに、いつしか瓦屋根に変わっていた。

茅葺きの頃その家には曾祖母も祖母も住んでいた。一度大がかりな葺き替えを目撃した。手伝いに来た村の大人たちはみな鼻の頭を真っ黒にして作業していた。ぼくは一緒に手伝えるほどの歳ではなかったのだろうか。遠く、近く眺めていた記憶がある。

腕のよい大工だった叔父に中身は覚えていないがいろいろな質問をした。叔父は「これが最後だ。もう無理だよ。茅が手にはいらん」とこぼしていたように思う。その叔父が亡くなった。七年前の年末、斎場で姉であるぼくの母に「生まれ変わって来いよ」と大声で語りかけたことははっきりと覚えている。家族、親族をとても大切にする叔父だった。


2016年11月13日(日)

45gのゴミ袋に二匹目の蝿を閉じ込めた。なんという図だろうか。

暖まった部屋のなかで元気を取り戻した蝿を小さなレジ袋片手に追い回していた。こんどこそ捕まえたと思う瞬間が何度かあったがそのつどすり抜けている。数秒後には部屋のなかは狭ましとばかりにブーンブーン。なかなかすばしっこい。

そこで持ち出したのが大きなゴミ袋だった。吸い込まれるようにして蝿は入ってきた。おそらく捕まったという気がしないであろう。蝿の気持ちはわからないが、こちらにもルール違反の思いが確実に残っている。


2016年11月23日(水)

スーパームーンはダメだったが、15日の十六夜月はくっきりと見えた。 翌16日は朝から陽射しがあふれていた。1時間、いや30分でもいい、日溜まりに佇んで陽を浴びていたいと唐突に思った。二軒先のアパートに仕事場を持っていた宮内さんはこんな日の朝は石垣のフェンスを背にして太陽に向かい合っていた。いまに言う「オール」のあとだったのだろう。30年前、いまは昔のことだがきのうのことのように神々しい姿が甦ってくる。そのイメージのまま庭のまんなかの御影石に腰掛けていたかったのであった。年を取っても心はほとんど変わらないものである。

思いがけず先週に続く6連続出勤、平均残業時間1時間、睡眠も多くは取れない日々だった。運転をはじめて30分もすると眠気がおそってくる。今回は行きよりも帰りの方がモーレツだった。気付くと前を走る車ははるかかなたにいる、なんてことが何回かあった。ゼロコンマ何秒かのことだろうが、事が起これば取り返しがつかない。さすがにぞっとする。寄る年波には勝てないのかなぁ、と古い言い回しで体勢を立て直してきた。

日月が過ぎて待望の休日。所用を済ませ、読み残しの小説を読み終えた。今夜からは雪が降り、積雪もという。猛吹雪らしい富良野からは電車で行った方がいいよと電話あり。今年はじめに買って一度も使ったことがないチェーンがあるから大丈夫と答える。安心するかと思ったら、この頑固者め、とあきれられたようだ。


2016年11月25日(金)

通りすがりに畑の向こうに建つ厳めしい造りの人家を、とりわけ切妻から反り上がるようにして伸びる碧い甍を見たとき昔書いた「女権現」を読み直してみたいと思った。久しくない思いつきで、ちょっと不思議な感じがする。

2時間ほどあとに掲載誌(『海燕』1995年10月号)を探しはじめた。この号ばかりは本棚になかったので抜き刷りを取り出して100枚足らずの小説を読みはじめた。

主人公は23歳の「ぼく」、これを書いたのは40も半ばの「ぼく」だった。名古屋を舞台に勤めはじめたばかりの「ぼく」の屈折した恋を描いている。いま読んで恥ずかしいというよりはなぜかなつかしい。あぁ、必死に考えて作っているなぁ、と60をはるかにすぎた「ぼく」は読みながらいとおしささえ覚えてしまうのである。

碧い甍との関連もわかった。

「設楽商店のシャッターに背をもたせ掛けて坐りこんでいた。店は東を向いており、通りを隔てた向かい側の人形店も平屋建てである。陽が昇れば一番最初にぼくを輝き立たせるはずだった。(中略)太陽が人形店の切妻をかすめるように現れはじめたとき、」

「ぼく」はここからうたたねの夢の世界に入っていき、UFOを見に起きてきた恋の対象者の幼い娘が突如大きくなって目の前に立ちはだかるのだったが、当時の「ぼく」は人形店の構造をやはり必死にこしらえようとしていたことが思い出された。

20年、40年と経ってしまうとうそとまことの境目が消えてしまう。すると「ぼく」は嘘吐きではない、にちがいない。(あまり普遍性のない話だが)


2016年11月29日(火)

寝坊をした。いつもは1時間30分かけてする出勤のための準備を15分で済ませて家を出た。こんなことは最近ではずらしいことだ。目覚ましアラームが鳴ろうが鳴るまいが5時前には目が覚める。そういう習慣になっている。うんと若い頃(塾に勤めているとき)には授業時間に遅れる夢に何度もうなされたものだった。

家に戻ってパジャマの上からセーターを着ていることに気付いた。ズボンはちゃんとはきかえているので上着だけ脱ぎ忘れたようだった。見た目にも中身にもなんの支障があるわけでもなく、自ら失笑するのみだった。だが、こんなドジを踏むなんて、いくつも若返ったような気にもなった。


過去の「日録」へ