日  録 無垢の至宝

2016年12月1日(木)

昨日根っこだけ残った右下の虫歯を治療してもらった。誠実で優秀なこの医師は事前にいろいろ説明をしてくれる。

「こういう歯を(あえて)残す意味はふたつあります。ひとつは入れ歯のときの架け橋にすること、もうひとつそれより大事なことは抜かないことによってその下の骨が下がるのを防げること。すぐ抜く人もいますが、ぼくはちがいます」

これはなんとなくわかったが、レントゲンの黒い線を指して、「こりゃ細い、おまけに先が曲がっている、できるだけ広げてみましょう」の意味は最後までわからなかった。戻ってからネットで「歯の構造」のイラストをみたがあの黒い線こそ神経の通る歯髄かも知れないと見当がついた。

ならば「あれこれいじりましたので痛みが出るかも知れません。痛み止めを飲んでも、また痛くなるようなら電話して下さい」ということばに合点がいく。ただ何のために広げるのかは依然わからない。次回行ったときに聞かねばならない。

ところで予言通り夜痛みはじめた。我慢できないほどの痛みではなかったが、頓服(ロキソニン)を一錠飲んでみた。20分ほど経つと痛みは消えた。ついでにこのところの肩の痛みまで消えたのにはビックリした。

ところでところで、「急なこと」の熟語として頓服のほかには頓死、頓挫くらいしか思い浮かばないが頓にはほかに「ひたすら」、「一途」、の意味もある知っておどろいた。こちらは「頓着しない」という用例か。歯の痛みもなかなかさりとてはのものである。


2016年12月6日(火)

過日帰り際に「65歳以上の方へ、雇用保険証をもってきてください、とありますね」。勤怠担当の副所長が言う。はて、そんなものがあったようななかったような、とにかく捜してみます、と答えて職場をあとにした。

帰宅早々探し回ること30分、出てきたのは名刺サイズ2倍の大きさの「失業保険被保険者証」。かなり黄ばんでいる。「昭和48年8月20日交付/新宿公共職業安定所長」も霞んでいる。

さらに 「この証書は重複して発行しません。永年使用です。」とスタンプで押されたと思われる朱色の文字である。これか、と思った。それにしても四十数年ものあいだよくなくさなかったものである。

問題はなぜこんなモノが要るのかであった。世間に疎くなっている(自身そう仕向けている嫌いがないでもない)が、一応ネットで調べて見た。

すると、大意、29年1月から65歳以上も雇用保険に加入できる、経過措置として32年まで負担金はゼロ、離職時には二回「ハローワーク」に行くだけで「一時給付金」が出る、それもこれも一億総活躍社会実現に向けての政策である云々。

ODAってなんだ? と叫んでお前知らないの? と居合わせた友人を呆れ返らせたのはもう随分前のことだが、今回もちょっとした衝撃だった。 隠遁のつもりでも世間はくるわくるわ。


2016年12月8日(木)

この冬3匹目の蝿は一週間も居着いただろうか。行く手に立ちはだかる(?)45gのゴミ袋に捕獲されることなくどこかに消え、またどこからともなく現れ、居間とぼくの部屋を悠然と往き来していた。日一日と大胆になっていった。コーヒー茶碗や惣菜の皿にとまり、パソコンモニターの枠を跳んで歩き回り、いまやぼくの指先を窺う勢いだった。しかしそれが命取りだった。スーパーのレジ袋に捕らえられた。ぼくは袋を密閉してゴミ箱に捨てる代わりに外に逃がしてやった。理由は陽射しがあたたかく、空が高かったからとしか説明できない。


2016年12月12日(月)

10月に『長屋門』で聞いた話が耳に残っている。修行に出ていた息子が帰ってきて跡を継ぐ、と店主は言う。店主のこどもふたりは塾の教え子である。当時、屈託なくなんでも話してくれる姉は「脱サラで居酒屋はじめたんだよ」と教えてくれた。弟は無口だった。顔と名前はなんとか思い出せるが、どんな料理人になっているのか想像がつかない。

そこで忘年会をやろうか、と随分前に提案しておいたところいつもの幹事役H君が働いてくれた。10日後には弟の跡目ぶりを身近に見られると思えば心はずむ。


2016年12月16日(金)

髪の毛が表皮ごとつるっと擦り剥けた。鏡もないのに見慣れぬ頭がビジュアルにわかるところは夢たるゆえんだろうが、これは「夢判断」的にはどうなんだろう。

突然腰に激痛が走ったのはもう何日か前だった。以来、立ち居振る舞いのたびにおなじ痛みが繰り返した。腰サポーターをして仕事(10キロ前後の物を上げ下げする)に臨むと幾分緩和されたが「もうダメかも知れない」という弱気の虫が何度となく頭をもたげてきたものだった。

残りの人生を「腰痛」を抱えながら過ごすことになるのかと悲観的に思ったのである。3年前に死んだ兄が長い間苦しんでいたことも思い出された。

それがこの朝目覚めると、ゆうべは寝返りさえ打てないほどの痛みがあったのに腰の痛みがさっぱりと消えていたのだった。「まだ治るのか」と思わず叫んでいた。この身体、疲弊もすすみ、いつなんどきくたばるか知れたものではないのに、希望は残っているということか。半信半疑ではあるけれど。

この場合は逆夢?


2016年12月22日(木)

気分は「パンデミック」である。アルバイト先では、おう吐、下痢をともなう胃腸炎を引き起こすウィルスが次から次へと同僚たちを襲っていった。二十人ほどの職場でその数は九人となり、何日か間があきとうとう已んだかと喜べば、また一人。あなたもですか、とおどろき、次はわが身かと身構える日々が続くのだった。年令がぼくに近い彼などは他の人より二倍以上長引いて三日間呻吟したという。そして昨日は四十の男も倒れた。

やられない者の方が俄然少なくなって、その境目はいずこにあるのかとつい真剣に考え込んでしまった。ウィルスに嗜好性があるとも思えず、現にやられた人たちに共通な属性もみつけられない。やられない者のそれもしかり、しかしその境目は単なる偶然とも思えないのだった。

(人はいざ知らず)ぼくにはなぜか「感染しない」という自信がある。根拠はない。強いて言えばニンニクのサプリメント「アホエン」を飲み続けていることだった。七年来風邪ひとつ引かないし、これはあのSARSにも強いといわれているのである。

危機に直面すれば「自分だけは大丈夫」とみな思うそうだが、もちろんぼくもその例外ではない。ただ、世間の流行に鈍感な「アホ」であることはまちがいないようだ。それでウィルスもスルーする、なんて。


2016年12月24日(土)

昨夜『長屋門』での忘年会を終えて帰宅すると追いかけるように陽向君とのツーショットの写真が届いた。陽向君というのはYUKI夫妻の子供で誕生したときに「第三のじいじにも是非だっこしてもらいたい」と言われ機会があればといいなぁとこちらも心待ちにしていた。それがついにこの夜実現したのだった。もう二歳三か月になるというので、月日の早さにおどろき、子供の成長の早さに目を瞠る。

いい写真だった。膝に抱かれて顔を見つめてくれる笑顔がきれいだった。無垢の心が生み出す至宝の表情である。返信メールで「一生の記念になります」と書いたが、またお逢いしたいです、と母親は言ってくれるので何年か経って逢えるのが楽しみになってきた。次の次くらいの時代を確実に担うことになる子供である。みんなの宝物である。

『長屋門』では跡継ぎの弟にも再会した。小学生のときの生徒だったから面影はかなりうすれていた。親父ほどの貫禄はまだないが、こちらも晴れやかな笑顔が印象的だった。いい忘年会だった。みんな、ありがとう。


2016年12月28日(水)

朝洗濯をし、昼までにいくつかの所用を済ませ、 陽の力が弱くなる3時には洗濯物も取り込み、以降は一人家にこもって、自分だけの時間を持つつもりでいた。ほぼその通りになって順調な休日となった。8時になると習慣通りテレビ「時代劇専門チャンネル」をつけたが、お目当ての「子連れ狼」がなかった。年末年始の特番体制に入ったのだろうか。誤算だった。

これは萬屋錦之介が圧巻である。ほとんどしゃべらないが立ち回りで存在感がある。「大五郎」にしても「ちゃん!」としか言わないように思える。「冥府魔道」をゆく親子の旅を毎週楽しみにしている。「冬のソナタ」に再熱中したのがたしか二年前の冬だから「TVドラマはまり」は隔年現象?

とはいえ、 二つのドラマ、とりわけその主題のちがいには愕然とする。この二年の間どこを彷徨っていたのか。 けだし、いつまでたっても分からないものは自分である。



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