日  録 おでこのいたみ

2017年1月1日(日)

どこかでお逢いしました? 思わずそう話しかけていた。実際目の前に立った頑強な若者は初対面とは思えないような懐かしさがある。ふっくらとした顔つき。二重まぶたの大きな目が澄んでいる。

「いえ、ちょっと働きぶりを見せてもらおうかと思いまして、近づいてきたようなわけです。評判どおり、お歳のわりには矍鑠としていらっしゃる。安心しました」

アルバイト先が夢見に、未来のある若者が大好きであると日頃から公言しているせいか、若者まで現れた。1日未明の夢だから「初夢」とは呼ばないそうだが、新しい年を迎えるにあたってせめて精神だけは若くありたいという願望を反映しているのにちがいない。若者は夢の中の自画像である。

ことしもご厚誼のほどよろしくお願いします。


2017年1月5日(木)

休日が一日前倒しとなり、
大晦日から続いた「連続出勤」は5日目でストップした。6連勤、6連勤となぜか(?)騒いでいたので拍子抜けがした。ただこの前倒しはありがたかった。配偶者が急きょ富良野に戻ることに決まり、昨夜は航空券やリムジンバスの手配に専念できたからである。

早朝バス停まで配偶者を送ったあと、年賀状の返事を書いた。今日までに約20通ばかりが届き、メールで返信ということも考えたが今年はちゃんと年賀状として返そうと思い直した。それぞれの、短かったり長かったりの添え書きを繰り返し読んで、その魅力に憑かれたからだ。

自分もあれらのような粋なメッセージが書けたかどうかは疑問だが、ペン先をインクにつけて濃淡を滲ませながら書くことはよい「経験」であった。指の先や右手小指側の側面にインクがつくのも職人のしるしのようで嬉しい。かつてはこんな風にして原稿を書いていたのかと思うと感慨もひとしお、正月早々に。


2017年1月7日(土)

新装なったK病院へ。3ヵ月ぶりの通院だった。予約時間の30分前から待機し、予約時間から1時間以上経ってやっと名前を呼ばれ診察室へ。そこでも20分ほど待った。

待つ間となりからは、咳き込む老婆と付き添いの男性とお医者さんの声が聞こえてきた。すごく急を要する症状(入院するかどうか)のようだった。この患者の次にこの先生がぼくの方に回ってきてくれるのだが、院長先生でもあるこの医師は懇切丁寧に診察していてなかなか終わりそうになかった。命に関わることなれば不満も怒りもない。

ぼくは4、5日前に降圧剤がなくなり、いつもより頭が重いと感じる程度で切迫感はない。処方される薬が目当ての「ヤク切れ」者である。おとなしく待っていた。

処方箋を持って近くの薬局に寄ると混んでいた。用事がひとつあったのでそれを済ませたあとにもう一度来ることにした。2時間後、受付で処方箋を受け取った薬剤師の女性は赤いメモ用紙を見ながら、「K病院から電話がありまして、診察券をお忘れのようですのでこのあと立ち寄って下さいね」と優しく言った。はっとする一瞬だった。

新しく導入された自動精算機で会計を済ませたときだ、としばらくして思い当たった。診察券で認証したあと取り忘れたのだった。これはタイムラグのもたらす結果であって、けっして認知の問題ではないだろう、と自らを慰めた。ただしいまのところは、との留保がつくのかもしれん。


2017年1月11日(月)

昨日10日は68歳の誕生日だった。昼間アルバイト先では、自分でケーキを買って帰って、ローソクを一本立ててなどと考え、ひとりで忍び笑いをもらしていた。

3日は配偶者の誕生日だった。「予約しておいて帰りにバイエルで買ってくるか」と訊けば「いい。近くのコージーコーナー行って買っとく」と言う。「自分で買うんかい」と笑い飛ばしたが、仕事のあとにわざわざ遠まわりさせたくないという思い遣りだったのだろう。

家に戻ると、facebookにたくさんの人からお祝いメッセージが届いていた。これが嬉しくて、夜も遅くなってから近くのコンビニに走った。モンブランケーキを買ってきた。ろうそくこそ立てなかったが、HAPPY BIRTHDAY TO ME 歌詞を変えて唄った。生きて、齢を重ねることこそが幸せちゅうもんじゃ、と呟いた。誰の口まね?


2017年1月15日(日)

これまでシャワーで済ますことが多かったが本格的な寒波についに降参、お風呂を沸かした。いざ入ろうとするとお湯が満杯になっている。たしか上縁から10センチ程度下までしか入れていなかったので、ヘンだった。一時間前「自動運転」のスイッチを押したとき「湯張りを行います」という音声ナビが流れたことを思い出した。そのときは気にも留めなかったが、こういうことだったのだ。

しかし、どこから湯が入ってくるのか。湯に浸かりながら試しに「たし湯」のスイッチを押してみると、温泉のごとく底からお湯が噴き出してくる。「感動」がないとは言えないが、それ以上に「浦島太郎」だった。

築35年の古家だったので風呂釜を取り替え、給湯設備を新調してもらった。それから12年が経ってはじめて発見したのである。他にもスマートな機能があるのに使いこなせていない。こんなのを宝の持ち腐れというのだろうか。RINNAIのホームページを覗くと、「フルオート」「ハイブリッド」などの名前が並び、便利機能のオンパレードである。頭が痛くなってきたのですぐに閉じた。

「スマホ」には当分近づけない、やはり。


2017年1月22日(日)

隆慶一カ『花と火の帝』(日経文芸文庫)の上巻を読み終えた。時代は江戸初期、題材は幕府(家康、秀忠、柳生)と天皇の隠密(八瀬童子・猿飛佐助・霧隠才蔵など)との闘い。一見地味だが、超人の技や読心術・呪術が飛び交ってさながら中世のおもむきがある。それらに大いにリアリティを感じ、愉しいうえに勉強にもなる。

ぼくの出た高校は当時は甲賀高校といった。城跡が運動グラウンドだった。水堀にかかる木の橋を渡って地面よりも数十メートル高いところにあるグラウンドへ行った。堀の斜面はうっそうとした雑木雑草で覆われていた。そこで入学する1、2年前に市川雷蔵主演の『忍びの者』のロケが行われた。先輩たちは大勢エキストラとして出演したがぼくは「遅れてきた少年」だった。

忍術屋敷(甲賀流望月氏本家の旧邸)というのもいまやなつかしい存在である。外観はどこにでもあるような茅葺き・平屋建ての民家だが中にはいろいろな仕掛けが施してあった。どんでん返しの扉、隠れ部屋などは、考えて見れば愚直なものである。調合した薬を全国を駆け巡って売り歩いたともいわれるが事実ならこれも実直。元々は「由緒ある武士団」だったらしいので故なしとしない。猿飛や霧隠とはちがうわけである。

残念ながらぼくは忍者の子孫ではないがときに自分を「忍者のようだ」と感じることがある。忍ぶ姿が好きなのである。そのくせ忍びっぱなしではいやなのであるから、いい加減だが。

そういえば忍術屋敷のとなりにはクラスメートの家があった。いまもあるはずだ。ふるさとを離れても帰る度に忍術屋敷に思いをはせたのはそのことがあるからだった。ふらっと一度訪ねたことがあった。本人は留守だったが彼女そっくりのとびっきり美人のお母さんが応接してくれた。

いまは追憶よりも下巻のことである。後水尾帝の運命やいかに。


2017年1月27日(金)

きのうおでこをぶつけたなぁ、とアルバイトの作業中に突如気になった。しかしどこでぶつけたのかなかなか思い出せなかった。まったくヘンなことを覚えている。そして忘れているものである。

車後部のハッチを開けたまま荷台に突進しておでこをぶつけたことが何度かある。手には灯油缶などの重いものを持っている。仕事中ならばパレットラック(棚)である。踏み台にのって奥のものを取ろうとかがんだ拍子にぶつける。こちらも何度か。どちらも、しばらくの間は「学習効果」はあるが長持ちしない。

きのうのおでこはぶつけた直後にだれかが謝っていたことがヒントになってやっと思い出した。歯科病院で治療台を降りて歩き出したときゴツンときた。進路にはみ出していた口の中を照らすアーム形の器具だった。ついでに、そのおりの痛みまで甦ってきたのは愛嬌というべきだ。



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