日  録  「昭和の味」

2017年3月19日(日)

 おととい私、茶色い服着てた? 仕事中に配偶者からメールがあった。リムジンバスを出迎えたときのことを聞いているのだった。いやぁ、白っぽかったような気がする、と返事した。帰宅して事情を聞けばお気に入りのジャケットが見当たらない、という。車に残ってない? 白の記憶がこびりついていたせいで、ないよ、と即答した。

  次の日、開始時間を待ちかねて羽田空港の「お忘れ物センター」に電話した。わりと早い時間に、ない、という返答があった。業務終了後に何人もの警備員がくまなく(すみからすみまでだったか)調べますので、と補足してくれた。

  バス会社に当たってみた。こちらもやや時間をおいてから、ないですね、という返事。いよいよ最後の望みの綱とばかりに航空会社の遺失物管理の部署に照会すると、「今のところないですね。見つかったらこちらから連絡します」という。なくなったと思われる前後の状況を三度繰り返した配偶者もエライが、三社とも丁寧な対応だったようで感心した。

  その直後である。乗る前に車の後部座席をふと覗くと件のジャケットが転がっていた。意外な結末に唖然とした。感心している場合ではなかった。ここは、謝罪または感謝である。

2017年3月23日(木)

 修復されて新品同様になったパソコンが戻ってきて5日経った。そろそろ制作者EIGHTのパソコン哲学が身に沁みてくる頃である。ハードの増設や交換は教えてもらったのでわかる(ケースの蓋を開けて中を仔細に見たこともあるし前面の窓から覗くこともできる)がインストールされたソフトの選択やディスプレイの配置は使う側が忖度するしかない。

 新しいOSや最新のワープロソフトはまだまだ手探りの状態である。自分仕様になるにはまだほど遠い。EIGHTはこのあと想定される不具合について種々レクチャーしてくれ、数年は大丈夫だがその後(OSやマザーボードに起因する)根本的な問題が起こることも覚悟してください、もっともそのときはケースごと取り替えます、と言ってくれる。

こうなると生身が死ぬまで使うぞ、という気持ちに駆られる。これが内在する「哲学」であろうと思いが至る。

2017年3月28日(火)

 25日午後、あと数ヵ月で103歳になる義父が死んだ。はじめて会ったとき義父は五九歳だった。あれから44年、孫が10人生まれ、いまやひ孫もいる。そんな一族の日々を扇の要の位置から見守ってくれた。「大きな星が墜ちた」というのが一番はじめの感慨だった。

  そのときぼくは京都で姪の長男の結婚式に出ていた。義父逝くの知らせを受けたのは翌日の早朝だったから建部大社ゆかりの老舗を継いだ七代目の門出を一途に祝うことができた。

  ただそこで、2002年に亡くなった姉を探していたから多少は暗合めいている。姉と似た顔の人が何人かいるのだった。つい席を立って近づき挨拶をした。姪の孫にあたる六歳の子供もそっくりに見えた。血の継承は時のつながりと同じだと考えた。

  あの年の4月28日の日記にこんな風なことを書き留めている。「夜帰宅すると腹違いの姉が死んだという報せが届いていた。物心ついた頃はすでに嫁いでいて、一緒に暮らした記憶はないが、盆や正月に会うとなぜか心が安らいだものだった。からだが温くなる。血がざわつくからだろうか」
 
 姉の名前は「きん」なのでいまだに「おきんちゃん」と呼ぶ。遠い縁戚の老婦人が「おきんちゃんがここにいれば、どんなに喜んだことか」と話しかけたのでうれしくなった。

2017年3月30日(木)

 Windows10のメールの送受信がやっとできるようになった。何回やり直しても「アカウントの設定が最新ではありません」という表示が出る。その都度足払いをくらった。プロバイダーのWebメールサービスでチェックできるからいいか、と半ば諦めるも心は晴れやかでなかった。

  なぜできたのか。アカウント名とパスワードとユーザー名が偶然のごとく合致したとしか思えない。同じことの繰り返しに見えても「進歩」はあったのだろう。自覚は一つもない。だから受信箱に825通のメールが飛び込んできたときにはびっくりした。もっとも古いものは12月30日。記憶にないがどこかで「保存期間三か月」と設定したにちがいない。

もはや魑魅魍魎の世界ではないか。

2017年4月7日(金)

 本来6連勤が7連勤に伸びて、今日はいよいよの休日である。日々仕事量が増え、連日の残業だった。明日からまた5連勤となるが、ぐんぐん暖かくなるのでこの状況は続くのだろう。

  いまどきこんなに働く高齢者はいない、この強靱(?)なからだは自分のものではない、いつか高転びするかもと危ぶんでいるが、世の中はいずこも深刻な人手不足で雇用の幅を七五歳まで広げようという動きがあると聞いて、むべなるかな、と思う。

  年齢七掛けの時代だそうである。七十を迎えてもまだ四九歳、古くからの友人ははがきで「モノの本にあったが、男の付き合う女の年は、男の年齢割る2プラス7」と書いてよこした。古希で試算すると42となる。これに七を掛けると29歳である。

「付き合う」に他意はないはずで女性にかぎらず常に若い者らに囲まれていることはきっといいことにちがいない。陽気に誘われてまずは外に出かけよう。
 

2017年4月13日(木)

 ほぼ2か月ぶりに歯医者へ行った。配偶者を富良野に送り出す必要ができて3月の予約を急遽取り消したためである。「先回は失礼しました」と謝って椅子に坐ると「そろそろ一年になりますね」と先生は応じてくれる。このあとの治療の予定を聞くとまだまだ何ヵ月も、いや最低でもあと一年くらいはかかりそうである。つまり、入れ歯が整うまで、ということになる。

 先生は「またインターンがつきますがよろしくお願いします。ことしは特にみな優秀で、さっきの講義もすぐに理解してくれました」とも言った。今日は女性がついたが、患者つまりぼくに言うときと、インターンに指導するときとでは言葉遣いが微妙にちがうのだが、目をつむりながら、うんうんと頷いている自分がおかしかった。


2017年4月16日(日)

 2時間近く残業して夜8時過ぎに帰宅した。思えば朝から締まらない一日だった。便通感あれどもままならずという情態が続いた。ほぼ解消したのは仕事が終わった直後だった。いわゆる便秘の一種だろうが「食べ過ぎ」という説もある。腹八分目が守れない。餓鬼道に墜ちたかと自身思うときもある。13日に帰ってきた配偶者の久々の料理が楽しみな毎日でもある。

  帰宅すると大阪の姉から高級バームクーヘンが届いていた。配偶者宛の手紙も同封されていた。(介護の)ねぎらいの意味を込めて「水入らずで食べてね」とあった。このことだけで一日は締まった感じを取り戻した。

 先月25日に訪れた姉の家ではすき焼きをごちそうになった。その肉が100グラム800円と聞いてびっくりしたが、弟ふたりのために張り込んだ気持ちが身に沁みた。その手紙には「一昨年が、もう最後か、と思ったのにまた逢えた」とも書いてあった。

 また、いくで。 


2017年4月18日(火) 

 ゴムの木の新しい葉に見とれてしまった。つややかである。かがやきを放っている。生まれたてとはこんなにも美しいのかと目を見張った。たったそれだけの発見がうれしかった。あまり使われないようだが「新葉」ということばも新鮮だった。


2017年4月20日(木)

 同居3人のわが家にはいま5つの携帯電話がある。「一人一機」に近づけるためにまずはぼく名義の1台を解約することが急がれていた。

 これは娘が使用していたがスマホに代えてからはほとんど使われていないガラケーである。何年間もムダ金を払っていたのである。7日ぶりの休日なのでいくつかの所用が重なっていたがこの解約を一番の課題とした。

 十五分ほど待って対面すると担当者は「いま解約すると利用代金のほかに違約金3240円がかかります。更新月の来月できるだけ早い時期になさる方がお得ですよ」と言う。この携帯は一年ずつ更新される契約になっているのだった。そんなことは知らなかったかすっかり忘れ果てている。肩すかしをくらった感じである。出直すことにしたが、5月3日に予約を入れてもらった。そうでもしないと意気込んでやってきた甲斐がないからである。ぼくの落胆を知ってか知らずか「このつぎは身分証明書だけでいいですからね」と担当の女性は慰めてくれた。

 家に戻ってから調べてみるとこの携帯はいまから16年前の4月に契約している。ぼくがはじめて携帯を持ったのは13年前の暮れだった。余っているからと娘名義のモノを借り受けていまも使っている。その3年前に娘のために1台契約したのだった。もう思い出せないがなんらかの事情があったのだろう。あっという間の16年であり、歳月の重さに圧倒される。

 こうなると、ガラケーにも歴史あり、というしかない。解約で消えるようなはかない歴史である。まるで人生のような、というとちょっと言い過ぎか。


2017年4月23日(日)

 日曜日の休みは先月の26日以来である。もうそんなに経つのかとおどろくが、その日は大阪にいて夕方梅田で学生時代の友人Y君と逢って飲食した。Y君は広島ではじめて親しくなった友である。18歳の時だからちょうど50年前になるが、当時すでに一生の友になるという予感があった。それだけ気が合った。彼を通じて何人もと知り合い、そのうちの数人はいまなお付き合いがある。

 必要があって母のことをいろいろ考えているが、小さい頃からの母の口ぐせは「ともだちは大切にせなあかん」だった。あらゆる場面でこの助言が思い出されてきた。自分が大切にされ、救われているほどには(友に)尽くしていないのではないかと恐れ、反省することもしばしばだった。いまだにそうである。

 恥多い人生でも友には恵まれてきたと自慢できる。ちなみに父の助言は「他人のふんどしで相撲とったらあかん」だった。こいつもじわっと利いてくるから、「父母の効用」とはかようのものかと思う。


2017年4月27日(木)

 4月ってこんなに寒かったかなぁ? というのがここ数日の感想である。夏日から一転、朝夕のひんやり感は身に堪える。天気予報で平年並みですと聞くにつけ何年間もの「4月の記憶」を思い出そうとするわけである。桜の花と旅立ち、寒かろうはずがない。

 きのう、4月の労働時間が200時間を超えそうですね、と勤怠の担当者から言われた。アルバイトの中でトップを走っています、とも。21歳の若者が僅差でぼくを追っている(時間だけの話です、中身は負ける)。

 午後陽射しがあったので車を洗うことにした。半年ぶりである。放っぽり出しになっていた長ホースのノズルが壊れていた。横から水があふれ出してズボンがびしょびしょに濡れる。洗車というよりは水遊びであった。

 その4月もあと3日を残すのみとなった。「200時間」のおかげで今日を入れてあと2日の休日が確保された。眠りたい、書きたい、読みたい、しかし遊びたいは出てこない。


2017年4月30(日)

 朝から春らしい一日だった。7時半(仕事のある日は5時起床)までぐっすり眠り、9時過ぎに30分ほどうたた寝し、その後近くのホームセンターまで運転手役を務める。今日は田舎まんじゅうにありつけるかなと心のなかで思っていると配偶者も「そうだ、まんじゅう」と呟いた。先回「発売は週3回」と聞き出したのは彼女だった。日曜日が入っていたことを思い出したらしい。

 着いて真っ先に農産物産直コーナーに駆けつけるとまだ数パック残っていた。配偶者は3個入りのパックをためらわずふたつかごに入れた。きびだんごではないが、お供の甲斐があった。粒あんを包んでいる小麦粉が歯ごたえのある蒸しまんじゅうである。夕方までにふたりして2個ずつ平らげた。

 柏餅なども見かけると興をそそられる。買ってしまうことも多い。粽もそうである。だんごを笹に包んで笹毎蒸したものが記憶のなかの粽だが、地方独特でこれはなかなかお目にかかれない。あれもこれも「昭和の味」がするから惹かれるのかも知れない。



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