日  録 仮歯との日々 

2017年6月1日(木)

 いきなり蒸し暑い日になった。日中はじっとしていても汗が滲んでくる。たらたら垂れるよりも不快感は強い。朝からずっと雨を待っていたような気がするが、ついに降らず。

 やっと涼しい風が吹くようになった夕刻に宮崎誉子の「水田マリのわだかまり」(新潮6月号)を読み始めた。三日で高校を中退した「水田マリ」は洗剤を扱う工場でパートとしてはたらきはじめる。その工場内の様子がとても生き生きしていて感心した。その躍動感を支えているのが多様な人間であり、「嘘」みたいなつながりが物語を動かしていく。はじめて読む作者だったが「希望」があってよかった。


2017年6月4日(日)

 この朝、ワープロを打っている夢をみた。主人公の名前を一所懸命変換しようとしているがその字がなかなか出てこない。根気よく何度も何度も試みるがほんとうは名前なんてどうでもいいのだった。ことばが欲しい、流れを誘い込むような一文が欲しい、夢の力を借りてでも、という無意識が主人公の名前という横道に逸れる。

 探している字は日偏に光、日光と書く「晄」。それは現在の自身の謂れのような気がした。


2017年6月8日(木)

 10キロ前後の荷物を持ち上げることがある仕事なのでいつもは腰ベルトをつけているが昨日にかぎってつけなかった。すると寝る間際になって寝返りがつらい程度の痛みが起こった。しくじった。もはや必需品か。

 最近テレビのCMでも見かけることがある腰ベルト。腰痛ベルト、サポーター、コルセットなどと呼ばれて、種類も多いようだ。CMでは、女性に向けても大きくアピールしていたように思う。それだけ腰痛は多くの人の悩むところなのであろう。

 こちらは歩いている途中に右足付け根のあたりに突然激痛が走り、崩れ落ちそうになった。それまでぎっくり腰を2、3回経験しているだけでいたって丈夫なはずだったからはじめは腰とは思わず内蔵の異変を想像したものだった。その後同僚などの忠言を受けて腰ベルトに辿り着いた。それが半年ほど前のことだった。腰ベルト効果は絶大だった。まだいけると安堵した。

 今日は二週間ぶりの歯医者だった。仮歯のままの前歯を義歯にしてもらう予定だったが、2枚のレントゲン写真を見比べながら、
「よくなっていない、さりとて悪くもなっていない。このまま義歯にすることはためらわれます」
というのが医師の言葉だった。かくて根管治療をやり直してもらうことになった。

 歯も大事。腰も大事。しかし、不滅ではない。


2017年6月16日(金)

 5時までに終わらせねばと作業を急いでいるといつしか女子社員がそばに立っていた。空の段ボール箱を指さして「フクモトセンセイ、これひとつもらっていいですか」と言う。はっとして、「もちろんいいですとも」と答えていた。

 つい最近結婚したばかりの二十代の女子社員である。ここでは二番目に若い人が最年長のぼくに話しかけるのである。それでもセンセイと呼ばれる謂われはないのでドキッとした。タイムスリップしたような不思議な感じがした。

 直後、久々の6連勤が終わった瞬間には思わず口笛を吹いていた。口笛なんて何年も出てこなかった。なぜかとんでもなく規を超えてみたいと思った。はやりの言葉で言えば「VR;不良老人」である。


2017年6月20日(火)

 草茫々の駐車場で車を降りて数歩動くとふくらはぎに鋭い痛みが起こった。帰りにもまたおなじ轍を踏んだ。一瞬だがチクリとする。足元には花はまだ青いつぼみのアザミ草が! 元気な若草だけに葉先のとげは強力であるのだった。

『アザミ嬢のララバイ』という中島みゆきの歌があるのを思い出した。なぜアザミなんだろうと思った。

「春は菜の花 秋には桔梗 そしてわたしはいつも夜咲くアザミ」

 ララバイは子守歌の意味で、このリフレインが歌の主題だと思われるがアザミ嬢と鋭いとげとの関連または因果はわからない。意味の詮索を拒否しているようでもある。ズボン越しの痛みがなつかしかった。


2017年6月25日(日)

 前歯が取れた、一度ならず二度も。

 けさはパンを食べているときだった。なかのクルミを思い切りかんでしまった。一度目は入れてもらった翌日、かりんとうを食べているときだった。両となりの歯にボンドでくっつけているだけの仮歯であるから危ういものである。あのときは連絡をして、もう一度つけ直してもらった。インターンの女医が念入りにボンドを張ってくれた。縫い合わせるような長い治療(作業)となった。それから10日間持ったことになる。

 さてどうするかと悩んでいると聞きとがめた配偶者が「そのままにしとけば? 生活に支障があるわけでないし」と言う。1か月後に予約しているのでそのときまで待てばいいという気になった。人前でみっともない、というのは、この歳に及んでの思い過ごしというやつで、欠けた前歯すら慣れてしまえば頬のえくぼ並みになるだろう。

2017年6月29日(木)

連載開始から20年で完成した佐伯一麦さんの『渡良瀬』が新潮文庫になるというので今月はじめにセブンネットで予約、夕べ入手した。単行本の時に読んだ感想は2014年4月の日録で触れている。そのときから数えても3年が過ぎた。「一国二制度」の香港も20年、年単位の歳月はまさに光陰矢のごとしである。

 虚仮と書いて「こけ」と読む
もともとは仏教用語で「虚」は真実でないこと、「仮」は外面と内心が一致しないこと。一心に打ち込むことを「虚仮の一念」などと言う。見せかけだけで中身のないことを「虚仮おどし」と言ったりする。そんな風に好悪二面で使われている

 テレビのワイドショーは「ハゲー!の暴言代議士」や「加計問題」「ヤミ献金疑惑」さらには「稲田発言」「憲法改正」について賑わしい。ここは十年一日のごとし。時間の流れはとてものんびりとさえしている。こんなに「虚仮にされて」国民大衆はまだ安倍、か




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