日 録 「浄業(清らかな行い)」

2017年12月1日(金)

 細かい雨は夜半を過ぎても止まず、師走入り。月が変わる2時間ほど前にY君からメールが届いた。7月以来だから5か月ぶり。待ちに待った拝復メールでもある。

 先月メーラーを変えて5年分2万通を改めて受信することになったが、そのほとんどはメルマガを含む宣伝メールである。このところも私信はほとんどまじってなかったのでそういう意味でも、めずらしく、また嬉しい。

 Y君メールはとにかく長い。近況報告のうえに歴史の蘊蓄、文明批評を重ねるので一篇の論文の如しである。数回読んでやっと解読できる。その時間が楽しいのである。


2017年12月2日(土)

 寒い夜、閉店間際にスーパーの出入り口で若い夫婦とすれちがう。外に出るや、おお、さむ、と女が男の腕にしがみつく。男性の顔は見なかったが女性の顔からは安心しきった笑みがこぼれる。冬の風物詩のような風景に出合うと思った。

 腕を組んで、とか、手をつないで、とかには郷愁がある。対幻想をもたらすようなそんな動作からずいぶん遠ざかっているからだろうか。一番はじめの塾を辞めるときに高校生になっていた教え子何人かが送別会を開いてくれた。会場の喫茶店を出て、そろって駅に向かう道すがらなかのひとりがぼくの腕をつかんでくれた。

「組む」というのとはちがって、両手でしがみつくような感じだった。こどもが親に「頼る」ようなものにも思える。といっても当時ぼくは20代後半で頼られるほどのものは持ち合わせていない。いまやその女生徒(名前も顔も鮮明に覚えている)はアラ還、思えばびっくりするほどの歳月である。

そしてこれは、早春のころのエピソード。


2017年12月4日(月)

『図書』12月号の記事「3.11以後の中原中也」(佐々木幹郎)に触発されて同じ作者の『中原中也−沈黙の音楽−』(岩波新書)を読んでみたくなった。3.11は2011年の東日本大震災、中也が生きたのは1907年(明治40年) - 1937年(昭和12年)、百年隔たりがある。

 時空を超えてなお輝く言葉とはどういうものか。青春時代から五十年を経てしまった自身にも、なんらかの示唆があるのではと、読む前から功利を予想している。読書としては邪道かも知れないが早速ネット通販「オムニセブン」に注文した。2,3日後には指定した近くのコンビニに届くのである。つい二十年前までは本屋めぐりがおおいに楽しみだったのに、知らぬうちに内も外も変化を来している。あんな日々に買い求めた秋山駿の『知れざる炎』が見つからない。


2017年12月6日(水)

 一昨夜パソコンのスイッチがうんともすんとも言わなくなった。途方に暮れて、カバーを開けてみた。といっても、エアーダスターでほこりを除去することぐらいしかできない。

 中を眺めていると、電源ボックスのファンが回っていることに気づいた。スイッチを押すとファンは止まる。全くの無反応ではない。それは暗闇の中にかすかな光が射し込んでくるのに似ていた。

 栄人に「Helpミー」のメールを送った。返事を待つ間に、「も、一度」と念じてスイッチを押してみた。すると起動したのである。つかの間の深い眠りから覚めるがごとし、である。理由などは知る由もない。

 その旨を書いて再びメールを送るとほどなく返事があり原因として考えられるものとして4つばかりを列記してくれていた。電源スイッチの故障、バックアップ用のリチウム電池の劣化などの専門的な指摘のあとに「4.暑さor寒さ」とあった。この項になぜか納得した。これこそは人知を超えた異変であるからだ。

 何が起こるかわからない。そして何かが起こってしまう。多忙な若い友人に、また教えられた。


2017年12月7日(木)

 小さな頃指先が痛むと「ひょう(やまいだれに票と書く)疽やな」と何度か母から言われたことがあった。

 ネット上の「スキンケア大学」によれば、正式には「化膿性爪囲炎(かのうせいそういえん)」と言い、手や足の爪の周囲が細菌感染により急性の炎症を起こし、赤く腫れて痛みをともない、また皮や爪の下に膿がたまり、白く透けて見えることもある、ということである。原因となる菌も、どんな人がなりやすいか、予防は? なども縷々説明されていた。

 仕事柄か、冬になると爪の根元の皮膚が逆むけとなり、指先が割れるようになるが「ひょうそ」に罹ることはなかった。そのせいでこの病名とも無縁でいられたのだが、日本文学の翻訳家ジョン・ネイスンが「この奇妙な二文字の漢字を目にしたのがきっかけで日本語に興味を覚えた」という雑誌の記事を読んで、そういえばと、小さな頃を思い出したのである。

 あの頃は、木から落ちて頭を打ったり、のこぎりで指を傷つけたり、蜂や虫に刺されたり、原因不明の皮膚炎に悩まされたり、思えば休む間もなくいろいろなことに出くわした。「ひょうそ」もそのなかの一つであったのだろう。飛び跳ねているうちにどれもこれもいつの間にか治っていた。

 今回こんな言葉にもはじめて出くわした。「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」、こればかりはさすがに母も言いはしなかった。


2017年12月10日(日)

 小春日和の一日。繁忙期の夏にアルバイト仲間のひとりが「またたくうちに過ぎ去る」と嘆息した「休日」の今日、いくつの用事をしただろうか。

 まずは郵便局(坂戸の集配局)へ。行列の大きさに怖れをなしてのぞき込むとそこは「ゆうゆう窓口」だった。受け取れなかった郵便物をとりにきた人などが20人以上いるのだった。こちらの用件はATMなので反対側に回り込んだ。1、2人しかいなくてほっとした。

 近くの商業施設に移動して銀行ATMにて用を済ませたあと、併設のスーパーで配偶者の買い物に合流した。次がガソリンスタンド。帰り道でコンビニに寄って蒸かす前のあんまんを買う。以上が午前の部であった。ここまでで4つ。

 午後遅くになってから、オイル交換。終わるまでの間にさっき買いそびれた日用雑貨品と、ついでに宝くじを買う。カー用品店に戻って新聞などを読んでいたがなかなか呼ばれない。いつもなら30分程度で終わるのにもう1時間近く経っている。窓越しに覗くと、あかりを手にして何度もエンジンルームをのぞき込む姿が見える。いやな予感がした。

 やがて作業員がやってきて「オイルレベルゲージの丸い輪っか部分が取れた」という。金属部分がオイルタンクに落ちてそれを取り出すのに時間がかかった、入り口はとりあえずテープでふたをしたが、これはいずれ消耗品なので交換を、とも。ないと困るので注文した。

 最後に灯油。3台待ちだったが、前の車から婦人が降りてきて、わたしは右側の給油場所を使いたいので左が空けばそちらに入ってください」というありがたい申し出だった。右側をそれとなくうかがうと軽トラックの荷台に灯油タンクが10以上積まれていた。こりゃ時間がかかるぞ、とさっきの婦人にもう一度大きな声でお礼を言って退散。やっと帰れる。都合七つの用事。もうひとつ思い描いていた床屋は日延べとなった。


2017年12月11日(月)

 朝のミーティング時、この数字などは長く記憶できないと観念して、生まれてはじめて手のひらに書き留めた。その昔中学生が手のひらを文字いっぱいにしているのを見ておかしげな気分がしたものであった。中身を見せてもらったことも何度かあった。ほとんどが宿題、明日の持ち物など備忘録代わりにしていた。一種の流行のような気もした。

 はじめての文字は数時間後に見ると薄れていまにも消えそうになっている。これは想定外だった。われらの世代には「手のひら」から連想するのは「太陽」である。陽にかざせば心まで温かくなる。ぼくの手のひらにはどちらが似合っているのだろう。


2017年12月12日(火)

 パソコンから聞こえてくるあの音はなんだったのだろうか。耳元で蚊が飛び回っているような低い唸り音。深刻な事態の前兆でなければよいがとおびえつつケースを開けた。スイッチが無反応の折に除去しているので大きなほこりはない。さっとエアーダスターを吹きかけて、ケースを閉じた。あるいはと思ったのできっちりとはめてネジを留めた。すると音は止んだ。それが原因だと確たる証明ができないのが素人の哀しさである。

 「明日の朝の気温は1度か」それが初体験であるかのように反芻して布団に潜り込んだ。太ももの筋肉が少し痛む。どこかでぶつけたのかも知れないが、これも思い出せない。


2017年12月14日(木)

 軒下のゴムの木の葉がことごとく茶色に変色してしまったので枝を切った。丸坊主になってしまった。玄関先や居間が手狭になって一時的に出したのがまちがいだった。急激に襲ってきた真冬並みの寒さにやられた。

 およそ10年前の夏に宮内さんからもらった木である。何度か剪定し、切り落とした枝から根が出て幼木として育った。この直系たちは教え子を含む3人の知人の家ですくすくと育っているはずだ。いまも花瓶の中で孫世代の挿し枝が3つ大量の根を出している。玄関先で艶々しい緑色の葉のままであるのは一抹の救いである。近いうちに鉢に植え替えようと思っている。

 丸坊主のゴムの木、このあとはビニール袋で覆って寒気を退けよう。陽ざしをいっぱい浴びて春になったらきっと芽吹いてくれますように、と。


2017年12月17日(日)

 大型ホームセンター、レジの前で二手に分かれた。配偶者はフードコートでバーガーを、われはそのまま並んで勘定を済ませる。次の目的地に向かって移動中に、さっき買った百円ライターをレジ袋に入れなかったことに気付いた。混雑する店内に嫌気して一刻も早く退散したいと思いながら詰めていた。きっとそのせいでかごの底にうずくまっている小さな物が目に入らなかったのだろう。

 かつてかごの中に置き忘れたモノはバラ売りのキュウリ1本だった。あのときはポテトサラダにキュウリを混ぜてみようと思い立ってあと2本しか残っていなかったモノをあわててかごに入れたのだった。最後の1本はうしろに控えていた若い主婦が素早くかごに入れたのを見届けている。

 帰り着いていざ料理をと意気込んだときにはじめてないことに気付いた。無念の極みを味わった。

 今回キュウリのときとはちがうのは、配偶者は賛成しなかったが、電話で問い合わせたことだった。はたして、担当の人はかごの中に残っているのを見つけてくれ、サービスセンターにおいておくので取りに来てくださいと言う。無念さがなかった分、喜びもいまひとつ湧いてこない。身中で釈然としないモノが残っているのは、そのせいだろうか。もっと真面目に生きよう。


2017年12月19日(火)

 ヘッドライトのスモールランプが点かなくなって久しかった。夕暮れ時もそうだし、家を出る6時過ぎもまだ暗いので、スモールをしばらく点灯したまま走らなければならない。気に掛かりつつも取り替えを依頼する機会がなかった。先の休みの日などはカー用品店まで出向いたが「びっしり詰まっているので今日は無理です」と言われて断念した。

 大きいヘッドランプ、右か左か忘れたが、叩けば点く状態が長く続いたことがあった。点くと、そばにいる人などは手を叩いて喜んでくれた。修理の人には、ランプは切れていませんね、ここでは対応不可とまで言われ、そのうち消えなくなっていまに至っている。

 そのことを思い出したのである朝、そっと叩いてみた。すると点いたのである。大きい方は叩いて再点灯を繰り返したが、スモールランプはその後消えない。昔々叩けば音や絵が出るテレビに遭遇したことがあるが、いまも場所を変えてそんな伝説が生きていると思えばどことなくほっとする。


2017年12月22日(金)

 アルバイトの主な中身は「ピッキング・仕分け」である。1点たりとも過不足があってはならない。万一そうなったときは見つかるまでリストを点検し、荷を崩し、箱を開け、徹底的に調べる。最後に合うか合わないかは「仕分け者」の潜在的な恐怖となっている。どんなに慎重にやっても間違うことがあるからである。

 きのうそんな事態に陥った。1ダース足りない、1ダース余るのである。該当のすべての箱を調べた。まちがいは見つからない。時間も迫っていたので足りない物をもう一度持ってきてつじつまを合わせた。これは本当はやってはいけないことで、タブーを犯したあとのような居心地の悪さが残る。

 そのとき突然、仕分けなくていい方に余分に積み込んでいるのではないかとひらめいた。トラックに積み込む直前の荷物に駆け寄ってみるとはたしてその通りだった。余分をとりのぞきその分不足となるものをおぎなった。もしこのまま行けば不足分をあとから誰かが届けなければならない。大失策となるところだった。

反面、得意な気持ちも隠せなかった。見事推理が当たったぞ、と。自らがやらかした失敗なのに、ヘンな心理である。



通い始めて1年半、欠けた前歯のクラウン(「かぶせもの」をこう言うらしい)が完了した。あと1本のクラウンと入れ歯がまだ残っているので、これからも通院が続く。このペースでいけばさらに何年かかかるが、定期健診みたいなものと思えば苦にはならない。働き盛りならばこんな悠長なことは言ってられないのだろうが。


2017年12月24日(日)

 クリスマスイブなので人並みにケーキでお祝いしよう、どうせならおいしいケーキがいいとケーキ屋さんの記憶を探り出す。すぐ近くのコージーコーナーの工場直営店は最後の切り札にとっておいて、まずはかつての最寄り駅近くの和泉菓子店に向かう。10数年前まではよく利用したお店だが、これだけの年月が経てばまだやっているかどうかわからない。不安を抱えながら訪ねてみると別のお店に変わっていた。

 途中2軒の和菓子屋さんにも立ち寄った。ケーキでなくともいいだろう、という発想であった。配偶者はいくつか買ったが「やはりケーキだね」と言うので切り札のお店へ。ところがここは長蛇の行列である。30人はいた。いったん後尾についたが、出直すことに。こんな行列は意外だった。近所だからと高をくくっていたのである。まったく失礼なことだった。その帰り道で名前は思い出せないが近くにもうひとつ工場直営店があったことを思い出した。記憶をたよりに走りながら探したもののついに見つからなかった。

 戻ってネットで調べると道筋が1本まちがっていた。コラージュという店名も判明した。別の用事もあるので、夕方2つの工場直営店を再び訪ねた。後者はすでに閉店したらしく廃墟のごとしであり、前者は相変わらずの長蛇の列であった。まさに明暗がくっきりとしている。「岬めぐり」という唄があるけれど、今年のイブはさながら「ケーキめぐり」であった。別にケープとかけているつもりはないが、すべての人・モノ・過去にメリークリスマス!


2017年12月26日(火)

 夜半ごろ、高台にある城西大学の校舎のうえに上弦の月がくっきりと見えた。いつもよりも大きいような気がした。色はくすんだオレンジだった。今年もあと6日で終わる。元旦当たりが満月となり、こちらはほんもののスーパームーンだそうである。東に日の出、西にとびっきり大きい満月、ふたつながらに拝むことができそうである。


2017年12月27日(水)

 7年前のこの日、母は死んだ。浄土宗のお寺さんが出してくれた「中陰表」には「享年九十歳」、戒名は「蓮誉照室芳月禅定尼」。中陰とは「人が死んでから次の生を受けるまでの49日間」のことらしい。

 また、インドの輪廻の思想では「人の没後49日目に六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)中のどの世界に生まれ変わるかが決まると考えられていた。元の生と次の生との中間的な存在である49日間の状態を「中陰」もしくは「中有」と呼んでいた。」と解説されている。

 『観無量寿経』には「かの仏国土に生まれたいと思う者」は「当修三福」(三福を修すべし)とあり、

「一者、孝養父母/慈心不殺/修十善業」(不殺生、不偸盗、不邪淫、不悪口、不貪欲など十の善業を修し、)
「二者、受持三帰/具足衆戒/不犯威儀」(おおくの倫理的規定を守り、誇りを失わない)
「三者、発菩提心/深信因果」(悟りに向かうという願いを起こし、深く因果の道理を信じ、)
「如此三事/名為浄業」(これら三つのことを名付けて清らかな行いという。)

われには引っかかるコードがいくつかあるが、いま「浄業(清らかな行い)」ということばに興趣を覚えた。一説には、浄土を観ずる「清浄の業」すなわち「懺悔や念仏の行業が衆生の罪を滅して清浄ならしめるから」とあった。ならばまだ救いはある。

 母が逝って3年後の2013年7月28日に兄、同年10月27日に義兄が、さらに遡って2002年の4月28日には姉が亡くなっている。肉親の月命日がかぎりなく寄っているのもやはりなにかの因縁に思えてくる。そんな年の瀬である。


2017年12月31日(日)

 6:00起床のあと、8:00〜9:30仮眠。スーパーの外に出ると曇り空で空気がひやっとした。雪が降るような天気だなぁ、と配偶者に話しかけた途端に舞い落ちてきた。あまりのタイミングのよさに顔を見合わせて笑う。つかの間の乱舞だったが、まぎれもなく初雪である。

 戻ってBSにて『七人の侍』鑑賞。やたら長く、肩が凝った。画面を見ながらテレビの真上にあるエアコンまわりのほこりを払った。「名画」も形無しである。お昼に盛岡のじゃじゃ麺ときなこ餅を食べるとまた眠くなった。13:00〜15:00仮眠。

 食事しながら「さっき大掃除をした」と言えば苦笑される。寝正月ならで寝大晦日というが正しい。思えばこの一年毎日が眠気との戦いだったような気がする。朝と夜、運転中に襲ってくる睡魔にはヒヤリとした。どこかで少しでも眠っておく必要を感じて、その結果「食べると眠くなる」という新たな習慣が生まれてしまった。それでも睡眠時間は5〜6時間。鏡を見れば目のまわりにはしょぼしょぼ感が漂っている。

 とはいえ、年が明ければ古希(数え年の70歳)だなんていちばん信じていないのは自分である。衰えていくかに見える体力に比して気力は依然軒昂だからだ。来年も考えるぞ、書くぞ。

 一年間ご愛顧ありがとうございます。みなさん、よいお年をお迎えください。





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