氷点下9℃、「恋人よ」


2018年1月1日(月)

 新しい年がやってきた。配偶者が息子夫婦とりわけ孫娘に、新年のあいさつを織り込んだ自撮り動画を送りたいというので便乗した。「おめでとう」と配偶者が言うと背後に控えたぼくがおめでとうと真似る。孫娘の名前を連呼して手を振ればうしろでぼくも手を振る。ぴょこんと頭を下げるとやや遅れてこちらも頭を下げる。配偶者は録画開始直後になぜか「はははっ」と笑ってしまう自分が年寄りくさいというので撮り直し。

「テイク3」まで撮ったがどれも「夫婦漫才のごとし」であると思った。ぼくは矛盾していようがまちがっていようが「そうそうそうそう」と何も考えずにいちいちうなずく「ボケ役」であった。はじめての自撮り、ふたりには照れもあるのか、オリジナリティが出ない。むこうから届いた返信の動画はまだ話せない孫娘がお辞儀をするところで終わっている。巧まざる愛くるしさだった。

ことしはこんな愛くるしさを「わが浄業」と心得て生きていくことにしよう。

みなさんことしもよろしくお願いします。


2018年1月4日(木)
 

 おととい仕事帰りに、年始の挨拶代わりの品を探すためにスーパーに立ち寄った。レジの外にいくつか菓子店が並んでいたのでショーケースを覗いて歩いた。コの字型の狭い一角を行ったり来たりしたがこれぞと思うモノがなかった。

 すると「文明堂」のケースの上に「TAKAKI BAKERYのバウムクーヘン」が一箱乗っているのに気付いた。地味な包装、ひっそりとした佇まいである。もしかして広島本社のあのタカキベーカリーか、と手がかりを探すべく箱を手に取った。たしかにそれらしいので迷うことなく決めた。

 次の日(きのう)もう一度同じところに立ち寄った。配偶者のこの日の誕生日のお祝いに買おうと思ったのである。人にあげておいて自分で味を知らないのはどうか、というリクツもあった。新たにコーナーが設けられ、箱の数が5つに増えていたのはどうしたわけだろう。

 バウムクーヘンは製造が特殊らしいが、ウィキペディアによると「年輪のような形状から目出度い贈答品のひとつとして慶事の贈り物として好まれ、結婚式や祝い事の引き出物として使われることが多い。」とあり、

「日本ではドイツ人のカール・ユーハイムによって持ち込まれ、1919年(大正8年)3月4日に広島物産陳列館(後の原爆ドーム)で開催されたドイツ作品展示即売会において販売されたのが最初である」

 と記されている。

 「TAKAKIのバウムクーヘン」の味は、職人の丁寧な気持ちが伝わるようなまろやかさがあって、おおいに感動した。
  


 明けてはじめての休日なので、初詣でに行くことにした。はじめ高麗神社を目指したが踏切の手前辺りから早くも混み始めたので断念。何年か前にも三が日は終わっているのに渋滞で丘の上の神社になかなかたどり着けないことがあったからだ。引き返して高倉の獅子舞で有名な地元の日枝神社へ。鳥居のそばで女子中学生二人が肩寄せ合って話し込んでいるだけで、誰もいない、ひっそりとした境内だった。


2018年110()


 この日69歳になった。古来稀なりの「古希」に突入である。古くからの友人たちは一様に「ちっともそんな気がしない」と感想を送ってくる。同世代はみんな同じように考えている。いまや稀ではないということか。

 とそんな風に思いを巡らせていると、腰に痛みが起こり、ときにまともに立ち上がれないような状態になる。仕事中は養生用の腰ベルトを巻いて、何度かアンメルツ(ヨコヨコ)を塗って持ちこたえたが、気持ちが少し弱々しくなった。古希を虚仮にした報いか、それとも無理をすんなよという警鐘か。

 それでも、夕食前にはショートケーキに一本のローソクを立てて祝ってもらったし、facebook にも多くの人からお祝いのメッセージが届いていた。ありがたいことである。


2018年111()

 朝K病院に行った以外は、パソコンの前で「作業」していた。数日前にソフト面で故障を来したパソコンがやっと修復なって、あとはホームページへのファイル転送ができるようになればというところまできたのだ。

 ところがフリーの転送ソフトをダウンロードして試みるもののうまくいかない。ひとつめはパスワードを何度も要求するばかりで接続しない。二つ目のソフトはすぐに接続したものの「リモートファイル」が出ず、こちらからの転送もできない。夜になってついに根気が尽きた。

  こうなれば頼みの綱は若き友エイトである。メール、電話での何回かのやり取りのあとやっと旧の状態に戻すことができた。深夜を過ぎていた。持つべきはその道の達人であると改めて思った。


2018年1月12日(金)

 原因不明のままWindowsが起動しなくなったのがたしか5日の夜である。ディスプレイのど真ん中に青い「窓」が出てフリーズしてしまう。強制終了をかけて再びスイッチを入れると、PC診断、自動修復メニューが出るもののどれを試してもだめであった。フリーズした青い窓、そのむこうにはなにもないのか。スイッチオンを何度も繰り返したが、期待した奇跡はついに起こらなかった。そこでOS:Windows10の再インストールとなった。

 すべて一からのやり直しという先入観があったので緊張した。インストールののち、Windows10更新はこまめにやるようにしてください、これが原因かもしれない、というエイトの言いつけ通り、丸一日かけて更新した。

 するとそれ以降安定が続き、このPCの頑健さを知ることになったが、驚きはそれだけにとどまらなかった。「主要ソフトは眠らせてある」という言葉を頼りに探っていくともっとも必要なワープロソフトも使えるようになったのである。はがき用の住所録まで残っていた。

 こんな時のためにハードディスクの一角に「眠らせて」おくなどは粋なはからいというしかない。PCを製作してくれたエイトの心憎いばかりの「忖度」であった。感激である。


2018年1月13日(土)
 
『新潮』2月号に載っている原田宗典「〆太よ」を読み始めたがなかなか進まない。前作『メメント・モリ』に次ぐ作品として興味がある。いつか一気に読める日が来るのかもしれない。ところでこの雑誌には田川健三がエッセーを寄せていて目を瞠った。大きな仕事が終わったことも報告している。『イエスという男』を読んだのはいつだったろうか。本棚の前面にいまもある本の奥付を見ると1980年4月発行とある。38年も前である。


2018年1月15日(月)

 この日は昔の(1999年まで) 「成人の日」であり、「小正月」とも呼ばれている。今年のこの日ぼくは突然走ることができるようになった。両足の膝蓋骨(いわゆる皿)を2年の間に相次いで割ってから5、6年が経っている。骨を縫い合わせてもらった直後はリハビリに努めたがなぜか走ることができなくなっていた。馬で言えば速歩までであった。いざというときには逃げ遅れるのを覚悟せざるを得ない。

 ところがこの朝、職場で、両膝が軽やかに持ち上がるので駆け足を試みればなんの違和もなく前に進む。加速すれば体は宙に浮くようだった。必要もないのに倉庫内を走り回り、みんなに「走れる」と叫び、配偶者にも「走れるようになった」とメールした。すぐの返信で「何が? 誰が?」と言ってきたが事情を話すと「おめでとう」ときた。

 1歳前後になったこどもが歩き始めるときもこんな感動がある(親にもあった)のかもしれないと思った。お昼、弁当を開けると赤飯が入っていた。ふととなりの同僚をみると彼女も赤飯だった。夜、食後におしるこが出てきた。鏡餅が入っているという。ああ鏡開き、だ。なにもかもがめでたさにつながっていく。

2018年1月18日(木)

 ことしはじめての「6連勤」が終わって、やっとの休日。いつもより2時間遅く目覚め、朝食のあとは、雑誌を片手にベッドに横になっているといつしか眠りにおちていた。11時まで2時間ほどの熟睡となれり。

 寒さにやられていまや丸坊主状態の龍眼を外に出した。幹を丹念に眺め回して芽吹きのしるしを探したがなかった。ちとせっかちだったが、それなりの理由はある。入院中に枯らせてしまった龍眼が再び芽を出したときの感動が忘れられないからである。

 写真が残っているので調べてみたところ「龍眼、丸坊主のあとに出てきた芽生え。」(2012.05.14)とキャプションがついていた。すると5月ごろまでお預けか。あたたかい一日だったとはいえまだ「ほんとうの春」には遠いわけである。

 
2018年1月19日(金)
 
 BAKUP用のCDからファイルをパソコンに移した。最も古いものは1995年、いまから23年前のものである。当時使っていたのはNECの98。そろそろおシャカになる寸前で画面が黄色く変色していたが、ワープロ専用だったので不都合はなく、面白がってしばらく使っていた。これはよく覚えている。

 フロッピーからCDへと昔のファイルは引き継がれ、ワープロソフトも何度かバージョンアップされたがいまなおちゃんと表示してくれる。HPを始めるまでの5年間の日記(323枚)やいくつかの草稿はつい時間を忘れて読み浸ってしまいそうなのでいまは深入りしないことにした。ただいくつかのファイルはパスワードを設定していてすぐには開かない。

 こうなるといっそう開けたくなる。パスワード? はて何だったか。「パスワード怖い」の再来である。故障したあとパソコンを再設定するときにいろんな場面でパスワードを要求され、記憶があいまいなために何度も再入力を迫られるからである。つい最近経験したばかりである。

  いろいろ試していると「自分の名前」に行き当たった。いまは「誕生日」を組み合わせたものを多用しているが当時はちがった。単純明快、忘れにくいものに設定しているはずだ。しかし「jun」も「junji」もだめだった。これは永遠に開かないか、と半ば諦めつつ「JUN」と入れると開いたのである。ファイルを読むことよりも、これぞ究極のPswと悦に入ることしきり。


2018年1月21日(日)

 明日は南岸低気圧が入り込んでこのあたりも夕刻から雪が降り積雪も予想されるというので、タイヤチェーンの装着を試みた。これまで一度も使う機会がなかった。記録的大雪は4年前、あのときはノーマルタイヤで雪道を走って往生こいた。次の年からせめてチェーンだけは載せておくことにした。一昨年、積雪はあったが巻くほどではなかった。去年は雪らしい雪はなかった。

 というわけではじめての装着であり、手順をしっかり予習しておこうと思った。だが、意外や、けっこう大変だった。雪の降りしきる、くらがりで、この作業ができるかどうか、おぼつかない。そんな事態にならないことを心から願って約一時間の学習を終えたのだった。



 昼寝の時に見た夢には、実在の田波目交差点が現れ、角のコンビニに立っていた。なぜか台車を引っ張っている。交差点の向こうでは教え子とその子供が信号待ちをしていた。台車を放り投げて歩道まで移動し、こちらに歩いてくる子供の名前を何度も呼んだ。近くに瀟洒な喫茶店があるので、そこでしばし歓談できる、と思うが、実現しなかった。買い物の時間だよ、と起こされたからである。


2018年1月23日(火)

 昨日は大雪の日。予報よりも早く降りはじめ夕方には積雪10センチほどとなった。仕事が終わる頃には「追突多発、帰らない方がいい」「たまにはホテルに泊まりなさい」「あちらこちらで立ち往生しています」「車の中で寝たら絶対にだめ」配偶者から矢継ぎ早にメールが入った。

 せっかくチェーン装着の練習をしたが、車で帰る気はすでに失せていた。かといって泊まるのも剣呑である。そこで、スタッドレスタイヤをはいた同僚に最寄りの駅まで送ってもらうことにした。その旨知らせると「気をつけてお帰りください」と即座に返事があった。

 雪道をせっせと歩いてたどり着くと、熱い風呂と博多華味鳥の水炊きが待っていた。ともに1月生まれのふたりの誕生日祝いに息子夫婦が送ってくれたものである。1月22日を「配達指定日」としたのは「いい夫婦」のもじりだろう、と推量した。この歳になって、やっとわかる感覚である。

 身も心も温まって一夜明けた今日、6時過ぎに電車に乗って7時にはみずほ台駅前のバス停に並んでいた。ところが、30分、60分と時は過ぎてもバスは来ない。バス待ちの行列は減ったり増えたりするが相変わらず長い。7時発のバスが来たのは8時30分を過ぎていた。乗ってもバスはなかなか渋滞を抜け切らず、9時30分、90分遅れで仕事についた。よいこともあればよくないこともある。


2018年1月25日(木)

 昨夜、大寒波襲来、明け方氷点下4℃にもなるというのでゆたんぽを入れてもらった。足を温め、やがて腹に抱きかかえるようにしていた。おかげで、寒い思いもせず、7時までベッドの中にいることができた。

 朝起きて、目下雑誌のしおりに使っているのが「広辞苑」第6版の広告、片面は「広辞苑を散歩する18 ゆたんぽ」であることを発見した。広辞苑は改訂されて第7版が出ているのでほぼ10年前のしおりである。不思議な暗号に惹かれて「精読」すると、大意、

《漢字で書くと「湯湯婆」と湯の字がふたつ重なる。中国渡来の道具でタンポという音(唐音)も一緒に伝わってきたが、タンがお湯を指すとはわかりにくいので「ゆ」の字をかぶせた。「婆」は、老女ではなく妻・女房あるいは母親の意で、「竹夫人」(暑中に寝るときに涼をとるための抱き枕)と同様の発想による名付け方らしい。》

 読後、足元から胸のあたりにまで迫りあがってくるゆたんぽがスローモーションのようによみがえってきた。


2018年1月26日(金)
 
 この朝、最低気温が-9℃になったという。水を出しっぱなしにしておいたので水道管は凍結しなかったものの、からだの芯に寒気が透った。こんな体感ははじめてかも知れない。


2018年1月28日(日)

 午前6時、起きがけの用事が灯油を買いに走ることだった。先客がひとりいたのでびっくりした。よく似た事情を抱えているのだろうか、といらぬ想像をする。こちらはエアコンをフル稼働させたばかりに朝から2回ブレーカーを落としている。少し緩んだ(氷点下まではいかなかったようだ)とはいえ依然寒い朝だった。「(灯油を)切らしたらあかん」状態だったのである。

 昨夜NHKスペシャル「赤報隊事件」を見た。もう30年が経つのだ。記者たちの驚きや怒りや使命感が再現されて、心を打った。その渦中にいた畏友Y君を思い出しながら、時代や歴史はどこか一過的でありながら、記憶の中ではときにすごいリアリティを持つものだと考えさせられる。

いまや「過去」しかない身であること、それはかけがえのない「現生活」ではないか、と。
 
 
2018年1月30日(火)

 帰り道、カーラジオから突然五輪真弓の「恋人よ」が流れてきた。涙がこぼれた。死んでしまった肉親や友人は「そばにいて」もらうことなどもはやできない、今生においても「別れ」は常にある、この先おまえはこれらのこととどう折り合いをつけていくんだ、そんな自問を繰り返していたところだった。なんというタイミングだったか。

 男であれ、女であれ、また世代はちがえども、逢いたい人はすべて「恋人」である。そんな「恋人」が数え切れないほどできてしまったが、反比例するように思いが叶うことは減っていく。

 居所がわからない、生死すら確かめようがない、それでも「恋人よ」と呼びかけて記憶のなかに取り込んでおきたいのである。

「あらざらむ この世のほかの おもひでに いまひとたびの 逢ふこともがな」

 いよいよそんな心情に駆られるものなのか。




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