日 録 30年前の記憶いずこへ  

2018年4月1日(日)

 明るいうそや楽しいうそも思いつかず、びっくり仰天なうそで人から担がれることもなかった。

 31日未明からMP・岡田さんの依頼で20代後半から30代初めにかけて交友のあったKの電話番号を探していた。詩人であるKが生まれ故郷の田舎町に家を建てたときに訪ねたのは35、6年前である。広い座敷の真ん中に対座して庭とその向こうの、関東平野さいはての景色を眺めていた。その家の電話番号が古いアドレス帳に残っていたのでいさんで岡田さんに知らせた。ところが、今日の昼休みに自分でも掛けてみたが現在使われていませんというテープの音声が聞こえてくるのだった。

 訪ねて以降何回か逢ったり、電話する機会があり、手紙のやりとりなどもあったのに、いまや通じない電話番号だけが残っている。ということは、ふたりにとってはやはり長い年月であったということか。Kの身辺に小さな異変がいくつか重なっていったのは想像できる。こちらは知らない。KはKで12年前にぼくが引っ越したことも知らないはずだ。お互い疎遠に暮らしてきたのであった。

 うその電話は生活のうそへ変貌していく。平穏な、とはいえず、毎日がエイプリルフール、と云々。


2018年4月3日(火)

 その夢は奇妙だった。取材のために博士の自宅を訪ねた。すると奥から夫人が出てきた。その人こそいまかかりきりの小説に出てくる女性だった。アポイントは取ってあったのに博士は留守だった。じきに帰ってくると思います。その人は言うが、ぼくの関心は、あなたは生きていたのですか、ということだった。彼女は5年前の還暦を迎える一か月前に自殺したことになっている。目の前にいる以上あたりまえに生きているのはまちがいない。どこかに錯誤があった。こんなので先に進められるのだろうか。


2018年4月4日(水)

 高校同窓会の会報のなかにこんな記事を見つけた。そのタイトルと、書き出し、

「紅梅クラブ同窓会(元購売部員の同窓会です)

 購売部とは昭和27年から43年まで木造校舎の時代、木造図書館と小屋内体育館との間の中央廊下に面した位置に、ほら、文房具とパンの販売をしていた売店がありましたでしょう。」

 あった、あった。思わず膝をたたいた。この記事によって「購売部の真実」を50年ぶりに知ることになった。

「生徒に廉価で学用品を供給すること、購売部員に奨学金を支給することを目的にPTAの経営として設置された」「部員は担任から推薦され職員会議で決定された。始業前、各休憩時間、放課後に開店した。部員はベルが鳴るたびにガラス戸を開けては閉めて、教室に一目散に駆け戻って授業を受けていた」ことなどである。

 購売部のことをよく覚えているのは、水色の襟のセーラー服を着た販売員のひとりに惹かれていたからである。新入生には優しいお姉さんだった。その人の顔見たさに売店の前をうろうろしていたようなものであった。画質の悪い同窓会の集合写真があったので拡大鏡でみてみた。ただのじいさまばあさまである。その人の記憶すらないのに、そうせざるを得なかった。過去というのは不思議なものである。

 記事の末尾には「購売部の字がまちがっていると国語の増井先生から注意を受けたが当時の看板通りとした」と記されている。この先生は国語の時間に『暗夜行路』を全編朗読してくれたキンテン(金典)である。自分がそう呼ばれていることを知っていて「尊敬する人はむかしから音で呼ぶものなのです」と真顔で言っていた。いい声をしていた。よい授業だった。


2018年4月5日(木)

 K病院通院の日。予約時間ギリギリに診察室の前に着くと近所の親しいご夫婦と出会った。お互い同じ先生の診察を同じ時間に予約していた。横に坐って、この間もらったほうれん草のお礼を言った。四方山話をしながら待ったがなかなか呼ばれない。1時間ほど経ち、待ちくたびれた頃にご夫婦、次いで自分の番がやってきた。

「もう何年も調べていませんね。手元に資料・データがなく、問診と聴診だけで二種配合の薬を処方しつづけるのはよっぽどの名医か○○(対は藪医者だが正確には思い出せない!)か、どっちかです。」

「毎年人間ドックで調べてもらっています。心房細動と言われています。」おもねるような気持ちで告げると、先生はびっくりしたように、「それは大変なことですよ」手首に三本指を当てて脈を計り始めた。ほどなく、「すぐにどうということはなさそうです。こんどは、調べましょうね」

 この先生はK病院の院長である。「○○」ではあり得ないのでその忠言に従うことにした。かくて3か月後の通院は、血液、胸のレントゲン、心電図、検尿が加わり、健康診断のごとし。気候異変がなければ梅雨の真っ最中の頃である。


2018年4月8日(日)

 お釈迦様の誕生日。北風の冷たい日だった。去年10月の末に枝をバッサリ切り落とした(あれからもう半年近くが経ったのだ)裸のキンモクセイに若芽が吹き出た。待望久しい芽吹きである。夕方携帯を手に写真を撮った。

 寒さにやられたのか、すっかり葉を落としてしまった蜜柑の木と龍眼にはまだ芽吹きの気配がない。枯れ葉をつけた蜜柑の木を眺めていると通りかかった近所のご夫婦は「今年は寒さがとても厳しかったですからね。もし芽吹くとすれば、根元から数十センチのところから若芽が出て、その先の枝を枯らせてしまうのですよ。木本体を生き延びさせるために。芽が出るのをゆっくり待ちましょう。」と言ってくれた。そのことばに「蘇生」ということばを重ねて、生き物とは偉いものだ、と感心した。 


2018年4月10日(火)

 妹がミシンを持ってきてくれるらしい、と昨夜配偶者は言った。職場での制服のボタンが刃こぼれ状態であることをぼくはとっさに思い出した。ミシンがあれば簡単に縫い付けられるのだろう。しかし、ミシンとはわれらの生活にとってはレトロすぎないか。

 わが家のミシンは押し入れに仕舞われたままになって久しい。足踏み式ミシンはどこへ行ったのだろう。いやこのうちにはそんなものは初めからなかった。新たにミシンを手元に置いて配偶者はどうするつもりだろう。手すさびに裁縫を始めるのだろうか。また義妹はどこで手に入れたのか。どんな新式ミシンを持ってきてくれるのか。

 種々疑問は湧いたが、「ほう、いつ?」「わからない」そんな会話を交わしたのみだった。

 義妹は今日やって来たらしい。北海道のもうひとりの妹が送ってくれたニシンを届けてくれたという。あの魚のニシンである。45年閲した夫婦はいよいよ枯淡の閾に入るのかとおのずからの笑いが起こった。


2018年4月14日(土)

ふと気になったことがある。やぶさかでない、と改まって(わざと、冗談のように)言うことがあるのにどんな漢字を当てるのか思い出せなかった。うべなうなら「肯う」、あやかるなら「肖る」、と出てくるのにこれはちがう。ということは元々知らなかったのだろう。そこで調べた。

「吝か」は、それ自体「気が進まない」「気乗りしない」「あまりやりたくない」といった後ろ向きな気持ちを示す。これを「吝かではない」と、否定形によって表すことで、「やりたくないわけではない」、「やってもよい」、あるいは、「どちらかと言えばやりたい」、「むしろ喜んでする」といった肯定的・積極的な姿勢を婉曲的に表す。

吝嗇のリンであり、しわいと訓まれることもあるという。文に口、単純な成り立ちであった。


2018年4月16日(月)

 通販でバウムクーヘンを取り寄せてひとつを大阪の姉に送った。正月にタカキベーカリー(広島本社)製のものを偶然食べて美味しかったので照会したところ「季節商品ゆえにいまは製造していないが同じものがアンデルセンにはあります」という回答を得ていた。それが1月のことで3ヵ月経ってその機会がやってきた。

 荷物は今日届くことになっていた。いつもはメールのやりとりで済ませているがたまには声を聞こう、元気で暮らしていることを確かめようと昼頃から思い決めていた。すると夜になって姉の方から電話がかかってきたのである。先を越された、と思う。考えることが似ているのは肉親だからであろうか。血のつながりとは妙なものである。


2018年4月19日(木)

 庭の半分(約30平方メートル?)がいつしか野菜畑に変わっている。前面に夏野菜のキュウリ、トマト、それにズッキーニやスイカなどの苗が。道路側に向けては何ヶ所かに分けてジャガイモが植えられている。これなどは種いもを植えてしばらくして芽が出た。それも早いなぁと感じたものだが、その後の成長が著しいのに驚かされる。

 プロデューサー格のとなりのTさんがやってきて「明日は土寄せですな」と言ってくれた。土寄せとは「作物の株ぎわに,畝(うね)の間の土を盛り上げる作業。株の倒伏防止、土壌通気に役立ち、根や地下茎の発育促進などに効果がある」という。畑を借りて七畝ほどジャガイモを植えていたとき、土寄せは結構大変な作業だった。

 何年か前のことを思い出しながら庭のジャガイモ畑を見て回った。これならば小さなシャベルでかがみ込んで土寄せができる。あのときにくらべればままごとみたいなものに思えた。それでも、いつかホンモノの食卓にのぼる日が待ち遠しい野菜たちである。ここは別荘ではないが、どこか「ロシア流ダーチャ」の趣があって気分がいい。この発想は庄内川の土手にかくれ農園を目論んでいるらしい畏友O君に教えられた。


2018年4月21日(土)

 空が明るみ始めるや楓やサルスベリ若葉を目当てに小鳥がやってくる。何羽かが思い思いに枝から枝へと渡りながら新緑の葉をついばんでいく。健やかで、自由で、鳴き声も初々しい。

 その1時間前にぼくは起きてパソコンに向かっている。出勤までのわずかな時間を思索と執筆に当てる。惜しむらくは若くないことである。思考にも底が見えて、想像力の羽も思うに任せぬ。幾重にも難渋する。

 しかしわれと小鳥との差に落胆はしない。両者ともにまだ明日があるからである。


2018年4月22日(日)

 公休を返上して出勤。各地で真夏日を観測したらしいが、冷蔵倉庫のなかで作業する身にはあまり実感がなかった。夜風呂入ったあといつものパジャマに着替えてくつろいでいると妙にからだが蒸してくる。それではじめて今日一日の季節外れの暑さを体験したようなものだ。この時間でもまだ25度を下らない。長袖のパジャマを脱いで半袖のTシャツに着替えるとかなり快適になった。

 天気予報は「明日は今日より8度も低くなります」などと言うので、からだを天候異変にあわせることの難しさを思う。


2018年4月23日(月)

 
名古屋のO君からはがきが届いていた。その文面に犬山の北の坂祝(さかほぎ)という駅で大阪圏に住んでいるY君と出逢った、「何という奇遇! お互い大いに驚いた」とあった。ふたりとも若い頃からの友人でいまも毎夏信州あたりでキャンプをしながら旧交を温めている間柄である。カープ戦観戦中にナゴヤドームでバッタリ、というのならさほど驚かない(それでも十分に奇跡だ)が、こんなことが本当のあるのかとぼくもわがことのようにびっくりした。

 そこでまったく未知の坂祝についてネットで検索してみた。その町にはふたりを惹きつける何があるのだろうか。種々読んでみたが式内社の坂祝神社があることぐらいしか発見できない。それにしても同日同時間そこにいるという偶然はやはり得がたく、ここは以降、私的には「奇跡の町」となるのだろう。


2018年4月24日(火)

 2、3日前から肩の痛みが激しく、仕事中もよくならない。やり過ごせばいつしか収まってしまうのでそのために薬を飲むことはなかった。一種の荒療治みたいなものであった。そんな自らの戒めを破り昼休みに頓服薬・ロキソニンを飲んだ。歯を抜いたときに処方してもらったものを鞄に入れて持ち歩いていたのである。

 2、30分も経つと痛みの熄む気配。同時に冷たい風がスースーと頭のてっぺんに向けて吹き抜けていく。体のなかに通り道ができたかのようであった。浮力を得たようにかろやかでもある。抜歯のあとも服用しなかった薬、からだがびっくりして「覚醒」したと感じた。こんなのも副作用のひとつだろうか。ともあれ大過なく仕事を終えた一日であった。おかげでというべきか。


2018年4月28日(土)

 SNSにはかつての職場「かしわぎ進研」のコミュニティがいまも存在する。3日前、そこへ10年ぶりに書き込みがあり同時に「友達申請」のメッセージが届いた。それらを読むと、その人は30年ほど前、中学3年生の時に一年間在籍していた男性であり、誰に何を習い、どういう塾だったかを実によく覚えている。なつかしい同僚の名前が続々と出てくるうえに、ぼくのことも「数学の成績を上げてくれた恩人」として記憶されているという。

 ところがである。ぼくはその「生徒」のことが思い出せない。この三日間じっと名前をにらみ、口の中で呟き、思い出そうとするがだめである。これは大いにショックである。向こうが覚えてくれているのに肝心の自分が忘れているなんて、失礼極まりない。

 当時ぼくはいまでいう「アラフォー」。仕事も面白かったし、小説への「恋」を生きてもいた。いまよりも輝いていたにちがいない時代の記憶、その一部がすっかり飛んでいるのは情けない。引き続き、当時の記憶を掘っていかねば。



2018年4月29日(日)
 
 窓辺の庇をかすめて山鳩が1羽飛び立った。おや、と思った。仲のいい山鳩夫婦が雨水のたまりで水浴びしたり、ネズミモチの木に巣を作ったのは何年か前である。卵まで産んだのにカラスに盗られて、這々の体(おそらく)で逃げてしまった。もう来なくなるのだろうなぁと寂しい気持ちでいたのだった。

 配偶者によると、このところ夫婦鳩が頻繁に来る、屋根の下に新たな巣を準備しているのではないか。安全な場所を見つけたのか、巣ができるようなことになればこれは嬉しいニュースである。

「この場所を忘れていなかったのね」
「カラスから巣を守ってやらねばな」

 せっかちな老夫婦は交々言い合うのである。



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