日  録  明日の日記を書く?

2018年9月1日(土)

今日から9月。日録は月ごとのファイルにしているので第190集を数える。 単純に12で割れば15.8である。実質15年10ヵ月にわたって日々を記録してきたことになる。書いているときは懸命だが、こうやって残っていても読み返すに足るほどの価値はないだろう、きっと。 それでも止めないのは、虚仮の一念? (心の片隅に)自分なりの効用を認めているからだろう。

畏れおおくも島尾敏雄の『日の移ろい』が当初から念頭にあった。本棚の一番前に『続日の移ろい』と並んで置いてある。時折眺める。手に取ることもあるが再読はしない。まぁ、一種の守り神みたいなものだ。190集の中で憑依できたことが何回かあっただろうか(反語的表現)。


2018年9月2日(日)

一昨日の夜からハエが一匹室内を飛び回っている。傍らにレジ袋を置いて捕獲態勢に入っているが、敵も然(さ)る者、悠々と飛び回っている。おまけにこの者、なぜか狎れ狎れしい。腕に止まったり、手に持った雑誌の回りをうろついたり、じっとぼくを見つめたりする。本気で捕獲する気にならないのである。人徳ならぬ、ハエ得であるか。



「お父さん、こっちの方が断然うまいよ」

 出勤途中に立ち寄ったコンビニでレジの人に呼びかけられた。平台からいつものテトラパックに入った甘納豆をふたつ手に持ち、さらにどら焼きに手を伸ばしたときだった。店舗の前にポストがあるので郵便物を出すときにはこの店と決めている。封書を手にして切手を頼むと、自発的に貼ってくれる人だった。顔見知りと言えば、そうだというしかない。しかし、「お父さん」とはどうしたことだろう。

 もうひとつの平台にあるそのお菓子の前に立つと「ぼくなんか、入荷するとすぐに確保するんですよ。あっという間になくなってしまいますので」悪びれずに言うのだった。買わずにはおれなかった。仕事が終わったあとで食べてみると、どら焼きというよりはおはぎのような食感がした。残業疲れは飛んだ。

 他人に呼びかけるのは確かに難しいものである。「お父さん」は「ちょっと、あなた」「おい、こら」「ねぇ、君」などの代わりになるのである。「お兄さん」と呼びかけられたのはもうずいぶん前のような気がする。そのうち「そこのお爺さん」になるのか。


2018年9月4日(火)

 風雨が強くなる前に買い物に行くというので車を出した。何を買うの? と訊けば「野菜とサンマ、それとお菓子」と配偶者は答える。「水は昨日のうちに買っておいたから、今夜の足りない分」こちらは午後から夕方にかけて影響が強くなるという。

 台風21号は「伊勢湾台風」や「(第2)室戸台風」に進路や大きさが似ているという。前者は昭和34年、ぼくは10歳、後者は同36年小学6年生になっていたはずだ。どちらかわからない(どちらでもないかも知れない)が、記憶のなかの台風は夜にやってきた。

 家族6人がろうそくの明かりを囲んで、当時は滅多に食べられなかったお菓子をポリポリ。話も弾んだ。中学生だった姉が「大仏次郎」の読み方を教えてくれたのも、知っている漫才師の名前を順番に言い合ったのもそんな夜だった。

 テレビもまだない時代、食事時よりもその夜の方がたのしかった。それは一家団欒の風景、あるいはハレの日だった。過去の思い出だからこんな不謹慎なことも言えるが、翌日には甚大な台風被害を知ったはずだった。台風21号よどうか爪痕を残さずに消えてくれますように。それにしても人間にとって自然というのは二面性を持つ厄介なものだとつくづく思うのである。


2018年9月9日(日)

6日未明、北海道・胆振東部で最大震度7の地震(震源地は厚真、安平町)が発生した。プレートの逆断層によって引き起こされたものだというが、山崩れ、地割れ、液状化現象などによって大きな被害が出ている。さらに道内全域で停電というのにびっくりした。「ブラックアウト」呼ばれる現象らしいがはじめて見聞きするものだった。


2018年9月11日(火)

面会開始の午後1時からそれが終了する8時近くまで埼玉医科大学国際医療センターにいた。あっという間に時間は過ぎていったが夕刻、「食堂」の椅子でうたた寝をする前後にふたりの肉親にむけてほぼ同じこんなメールを発信した。

《今日は休みなので昼から病院にいる。さっき担当の若き医師と話すことができた。カテーテル手術は成功(こぶを完全にブロックできた)し週末には退院できる(16日予定)と言われた。
 娘は術後約24時間集中治療室にいて今日の昼から病室に移っていた。相部屋が空いてないので空くまでは個室。病院の事情なので目を剥くような金額の「差額ベッド代」は請求されないので安気。本人もお昼から食事を摂れるようになった。あまり食欲はないようだが、それでもすっきりとした顔でベッドに寝転がっている。家族も羽を伸ばして寛いでいる(笑) 。いろいろ心配をかけました。ありがとう。報告を兼ねて。》

ひとつふたつ体調の気がかりはあるものの敢えて知らせなかった。術後ゆえのことなのでおいおい解消されるだろうからだ。主治医もそう言っていた。今日は晴れのち曇り。ときどき小雨。ここを後にする頃はTシャツ一枚の身には、涼しいを通り越して肌寒かった。ついにキムチ鍋をねだった一日である。


2018年9月17日(月)

 16日朝娘退院。入院当日の9日は4人部屋、10日の手術のあと丸一日集中治療室にいたほかはずっと「個室」だった。(予期せぬこととはいえ)その面では「快適な入院生活」だったと思うが本人は「早く帰りたい」と言った。頭痛用の頓服や血液系の薬を少なからずもらってきた。大事を取って家でしばらく養生するということだろう。

 退院の朝医師が二人回診に来た。6日前に話をしてくれた医師とはちがう人だったがこちらも30歳前後とみられ、話しぶりも動作も若々しい。何人かでチームを組んで手術に臨んだようだったが、何人だったかは知らない。本人や配偶者は知っているかも知れないがぼくの耳には入らない。ふたりの話を総合すれば外来で診察にあたってくれた女医先生がそのリーダーのようであるらしい。若くて、切れ者で、娘もすっかり信を置いている。こうして伝統が引き継がれていくのかと実感したのである。

 あれは何年前のことになるのだろうか。鼻茸を取ったときか、掌蹠膿疱症で通院していたときか、毛呂山の埼玉医大に通ったのはその2回だけだから、どっちかの折りだろう。どちらが先立ったか覚えていないほどの昔、30年も前のことである。病院の廊下ですれちがった教授らしき二人の会話が耳に入った。

「この地になくてはならない病院にならなければいけない。いまは、懸命に努力する時期だよ。」

 それを思い出した。何を為すにも強い使命は必要だなぁ、と思うのである。


2018年9月18日(火)

 8連続出勤中の7日目にあたる今日、めずらしく定時に終わった。なぜか身も心も軽やかになった。ただ車を走らせているといくつかの信号で渋滞を来していた。こちらは身にも心にも堪える。6時を過ぎるとすっかり日が落ちてしまう。秋分の日が近いのである。

 渋滞中に福岡に住む孫(2歳半)の最新の写真を覗くと、ピンクの甚平を着た彼女はなにやらポーズを決めている。左手が水平に伸び、右手は腹のあたり。左足は前に出て、右足は真横を向いている。あ、盆踊りかと思った。画面には写っていないが踊る人の仕草をまねてまさにいま自分もと身構えている。なかなか聡明ではないか。逢えるまであと4日。


2018年9月19日(水)

会えなかったが東京に住む義妹が来た。娘の見舞いをかねてということだった。札幌の義妹からのお見舞いの金品も持参してくれた。「予防」のための手術だったので本人を除く家族はわりと暢気だったが、部位が部位だけに親戚のみんなは心配してくれる。庭を散策しながらこの娘は義父母にとっては初孫だったとふと思った。それでどうこうということはないが、喜ばれかわいがられたのだった。本人の記憶にはないだろうが、もっと感謝の心を持ってもよい。


2018年9月20日(木)

 K病院へ。血液検査の結果を見て「いいですねぇ」と院長先生。「APTT」が基準よりも4.4高い44.4秒を示していることで「(血栓予防の)薬の効果が出ています」と言う。「これが60にもなる人がいますが、あなたの場合はこんなものでいいでしょう。この間薬の量を減らしましたが、このまま様子を見ましょう」

「APTT」というのは凝固までの時間を示す数値らしいが、それは家に帰ってからネットで調べて知ったことで、このときは「あ、そんなものですか」と聞いていた。お医者さんに全幅の信頼を置いているのだが、どこか他人事のような気もした。

 検査表にはほかに「L」や「H」のコメントが付いている項目が3つばかりあり、そちらの方が気になった。貧血の度合いを示す数値は相変わらず「L」なので訊いてみると「どこかで出血があるとこうなりますが、この程度なら気にしなくていいでしょう」

 薬局で投薬を待つ間に配偶者に「結果良好」とメールをした。「お喜び申し上げます」とすぐに返事が届いた。ここでは薬が手渡されると「はい何々さん、おいくらです」と呼びかける声が次々と聞こえてしまうのだったが(大概が2000円前後だったのに)ぼくのときに一気に跳ね上がった。その話を娘にも聞かせると「高!」と驚いていた。配偶者はただ笑うのみ。


2018年9月25日(火)

 22日から昨日までの三日間一緒にいた孫の行動やことばのいくつかが思い出されてついにやついてしまう。 なにをしても突飛で、なにを話してもことばが全身から迸る。この子は賢いと身贔屓にも祖父母は思うのであった。また近いうちに逢いたいという願望が込められているからこんなのも白日夢というのだろう。

 23日は湯布院へ。由布岳のきれいな稜線がすぐ目の前にある山間の里であった。両側にお店がびっしり建ち並ぶ金鱗湖までの約2キロの道を5人でぶらぶらと歩いた。道は人でびっしりと埋まっている。韓国からの観光客が目立った。われらの中心は元気いっぱいにあちこちに目配りする孫である。宿は『牧場(まきば)の家』。離れの部屋がいくつか点在し、どの家も茅ふき屋根をいただいている。入り口にはかがり火が焚かれていた。

 24日は太宰府天満宮。孫の手に引かれて(?)参道を歩いた。夕方空港で見送ってくれたが、また、1年後くらいに逢うときはもっと成長して、ちがう面を見せてくれるのだろうと考えると楽しくなるのであった。白日夢も諾なるかな、である。今日の夜になって足腰が張ってきた。これは明らかに歩き疲れであるが、その夢のよすがとなってまた心地よし。


2018年9月29日(土)

 昨日仕事からの帰途、カーラジオから沖縄発の番組が流れていて、パーソナリティが迫り来る台風に触れて「必ず停電と結びついて、ろうそくの火の回りに家族が集まり、食べながらいろいろな話をした、ぃわば団欒の記憶なんですよ。楽しいというと語弊がありますが」とそんなことを話していた。小さな頃を思い出しながら大いに共感した。

 今日は『図書』でさだまさしのエッセーを読んでいると「社長の人柄か、事務所に勤めている人達はみんな変な人達だった。/『変』は勿論褒め言葉である。』という一節に出くわした。デビュー(昭和48年10月)当初の「変な人」を次々と活写したあと「ただ「宣伝をしに行く」のではなく、あの町のあの人に会いに行く、ということが「楽しみ」な時代だった。」

 魅力あふれる変な人には最近は滅多に出逢う機会もないが、たまに逢うとなんか得した気分になる。5、6年前アルバイト先である人物に向かって「君は変な人だね」と言ったところその人が「あぁ、おれは変人だよ」と本気で怒り出した。これにはびっくりした。どんな文脈でも、通じないことばはあるものだ、と悲哀を味わったものである。「良い時代」はどんどん遠ざかる。


2018年9月30日(日)

 明日の日記を書く、というと突飛なようだが今日で9月も終わり、 ついに「もう10月か」と呟かねばならない。すぐにも深い秋がやってきて、味わう間もなく冬になる。季節の経巡りとはなんとも感傷的で、また年降るごとに凡庸になっていくものか。

 台風24号が日本列島を縦断・北上している。早めに帰途につき、懐中電灯を買うために近くの電気店に寄った。家にある数台はどれも使い物にならなくなっていた。店には、手頃なものが3つしかない。そのうちの2つを買った。この頃から雨が激しくなり、未明には暴風が吹き荒れていた。風の音でずっと目が覚めていたが、2時間も吹いていただろうか。

 風が止んだ午前5時(日付は変わっている)外に出て様子をみる。まだ暗いので新品の懐中電灯で照らしていけば、庭には何本もの住宅資材(垂木らしきもの。どこから来たのかわからない。まわりの車などにあたった形跡はなかった)、前の路上には大きなレンガや石ころが散乱している。こんな石も飛ぶのか、と思う。まともに人に当たれば大けがをしてしまう。風畏るべし、である。

 



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