日  録  700分の1 

2018年12月1日(土)

 この夜北寄りの強い風が吹き路上では枯れ葉がくるくる舞っていた。ついに木枯らし1号かと大きな発見をしたように内心色めき立ったが、もう師走なのでそうは名付けられないというのだ。木枯らし1号の定義は、

《西高東低の冬型の気圧配置となり、その年はじめて吹く北寄りの強い風(季節風)。東京地方と近畿地方でのみ発表されます。例えば東京地方では、10月半ばから11月末までの間に冬型の気圧配置となって、北よりの風速8メートル以上の風が吹くと、気象庁はその風を「木枯らし」と認定し、最初の木枯らしを木枯らし1号として発表しています。》

 つまり今夜の風は一日遅れの木枯らしだったわけである。あるいは幻の1号? しかもこれらのことはすべて後知恵、帰宅直後には配偶者に「ついに吹いたかなぁ。ニュースでやっていた?」などと聞いて、怪訝そうな顔をされたのだった。

 もっとも「東京地方と近畿地方ではそれぞれ基準や条件が異なり、近畿地方の期間は霜降(10月23日ごろ)から冬至(12月22日ごろ)まで」らしいが、ここは「東京地方」なのだ。負け惜しみにもならない。

2018年12月4日(火)

 日は粛々と流れていく、なぜかそんなことを思う。毎日同じ時間に起きて同じようにして出勤し、同じ仕事を繰り返し、帰ればまた一連の作法を終えて次の日を迎える。それが6日間も続くと苦痛ではなく、かけがえのない日常となるから妙なものである。と言いつつ、次の日が休みとなれば気分は軽やかである。7日ぶりの休日が今日である。

 カラスが二羽家の中に入り込んで、重ねた布団の山の高みから寝顔を覗き込んでいた。開け放したままの窓から入り込んだようだった。腕を差し出すと乗ってきたので外に逃がした。二羽目も同じようにした。大きなハシブトカラスだったが、案外とおとなしく外に出て行った。カギ型の平屋建てで窓の外は中庭になっていた。常緑樹が一本植わっていて、夜明け前から小鳥がいっぱいやってくるがカラスが来ることは一度もなかった。

 明け方二度寝したときの夢にこんな中庭がなぜ出てきたのか昼過ぎまでずっと謎だったが、つい最近読んだ『チェーホフ短篇集』(原卓也訳、福武文庫)の「可愛い女」に、

《彼女はがらんとした中庭を無関心に眺め、何を思うでもなければ、何を望むでもなく、やがて夜ふけが訪れると、寝にいって、がらんとした中庭を夢に見た。(中略)クーキンやブストワーロフといっしょの時や、そのあと獣医といっしょだった時のオーレニカなら、何事でも説明できたし、どんなことに関しても自分の意見を述べたはずなのに、いまでは思考のただ中や心の中に、中庭と同じような空虚さがあるだけだった。》

 という一節があることに気付いた。記憶をたよりにもう一度ページを繰って書き写してみたが、「中庭」が隠された大きなテーマになっていることを知った。オーレニカはこのあと希望を取り戻して生き生きと生き抜くのであるが、こんなのもカラスのお告げだったのだろうか。


2018年12月9日(日)

 あと1か月で満70歳になる。10年ほど前に、この歳くらいまでは働く(お金を稼ぐ)ぞと思ったはずだが、この分ではあと2、3年は行けそうである。

 数日前配偶者が「五分刈りにしたら、せめて髪くらい」と唐突に言った。20歳前後からずっと長髪好みで過ごしてきた。下のこどもを肩車する30台前半の写真を見るとこれがわれかと疑いたくなるような長い髪であった。そのなごりかいまなお耳をすっかり覆うようになるまで放っておく。そのくせ床屋に行くと耳を出してくださいという。理由は話が簡単に済むからである。

 50代の後半の頃、いまから10年ほど前のこと、椅子に坐って「バッサリとやってください」と言うと「いいんですか。こんなにも自然なのに。長髪の人かと思いましたよ。」そう言われたことがあった。お世辞半分にしろきっと似合っていたのだろう、なんて。その頃からも時は経ちすぎている。

 いま、この忠言を受けて、それも一興、と思うのだった。しかし、せめて髪くらい、とは?  


2018年12月11日(火)

 メールの末尾に「夜暇なとき電話シテクダサイ!ヨロシク」とあるので姉にしてはめずらしいことだと思った。3回目にやっとつながって、懸命に伝えてくれたことは同級生たちとお伊勢参りをしたあと2年ぶりに帰った故郷の様子だった。

 それによると、鎮守の「1年神主」も伝統を継ぐべき壮年の男子がいなくなってお年寄りが2度目3度目のお勤めをしている。次の日には数少ない若い主婦が老人たちをもてなす会が開かれ、公民館の前には乳母車がずらりと並んでいた。叔母のひとりから、ここらの老人には乳母車が不可欠、と聞かされていたが、いざ目の当たりにしてびっくり。杖代わりにしろ歩き回れるのでみな元気である。

 そのなかには叔母たちも含まれている。兄や同級生の近況もあった。高齢・過疎の、そんな田舎にはもう8年帰っていない。顔を見に一度、と最近思うことが多かっただけに、貴重なお報せだった。

 電話では最後に「お好み焼き食べる?」と聞いてきた。 しばらくしてあぁあの味だと思い出した。去年の冬、配偶者と娘が相次いでインフルエンザに罹ったときにタイミングよく(偶然)届いてありがたく食べたのだった。「週末に着くように送る」と言っていつもよりも長い電話が切れた。気持ちがはしゃぐひとときだった。


2018年12月14日(金)

よい報せもあれば悪い報せもある。よい報せを二つ。しばらく音沙汰がなかった教え子からこんな記事に「いいね!」が書き込まれた。そろそろメールをと思っていた矢先だった。考えてみれば、仕事や子育てやらで彼や彼女たちはもっとも忙しい年代である。「年寄り」のたわごとにそうそう付き合ってもいられまい。と言いつつ、スキップしたくなるような嬉しさだった。

もうひとつ、オムニ7から「出版社にご注文商品の在庫があることが確認できましたのでお知らせをいたします」というメールが届いた。その本とは網野善彦の『中世の非人と遊女』である。2005年に初版が出された講談社学術文庫。出荷までのお時間は2週間以内、と書き添えてあった。半信半疑で注文したが、これは憑いていると言うべきだ。届けば版元相手の競取りみたいなものとなる。もちろん他に売りはしないが。


2018年12月15日(土)

 病院から戻るなり配偶者は先生との会話を話してくれた。再現すると、

「先回言われたことは、味噌汁もラーメンも、汁はだめ、ということですか」
「その通りです」
「どちらも大好きなので、汁は残さず飲んでいました」
「信じられません。血圧のお薬を飲みながらそんなことをするなんて」
 真顔で叱られたのだった。
「それじゃいつまでたっても薬はやめられませんよ」

 ぼくの先生は一度もそんなことは言わないので信じられない思いがした。塩分を控え目にするというのはわかるがここまで徹底しなければいけないのか。配偶者の血圧は上下ともぼくより20くらい低い。
「味噌汁は具だけ? ラーメンは麺だけ? 守れそうにないなぁ」 
「あなたのおにぎりは砂糖をつけて握ろうか」
「勘弁してよ」

 名医か(失礼ながら)藪か、ぼくには判断できない。



 この日の「おまめちゃん」騒動についても書かねばなるまい。コープからこんど配達される品目の中におまめちゃんというのがあった。遅配達と付記されていて、どうやら4週間前に注文した物らしい。注文した配偶者も覚えていない。

 名前から連想すると黒豆の煮たものだろう、などとぼくは推測した。それにしては値段がちと高すぎる。

 何なのか気になるのでまず電話で聞いてみることにした。商品を調べてもらうと「南部鉄の…お鍋の…」聞き取りづらい声が聞こえる。あれか、と突如記憶が甦った。鉄分を補給するために煮炊き料理の鍋などに入れるモノだった。「貧血対策」としてテレビで紹介されているのを見た直後だったので取ってみるか、となった。その場にぼくも居合わせた。血液検査では毎回PHの値が基準値をわずかに下回っているのだった。

 空豆の形をしているので「おまめちゃん」と命名されているが、名が体を表さない一例か。もっともこれは負け惜しみで、4週間前の記憶が二人してあやふやとは、この先が思いやられる。


2018年12月18日(火)

 昨夜あたりから喉がいがらっぽくて咳が出る寸前になっていた。こんな状態をゆずいと言ったかなぁ? それともいずいかなぁ? 

 帰り道カーラジオでは薬と副作用の話をしていた。専門家が「たとえば、葛根湯と風邪薬。葛根湯は引き始めにからだのなかを燃え立たせて風邪を退治するのに対して、風邪薬はいまある症状を緩和する効果を期待されている。葛根湯を飲んでさらに風邪薬を飲むなどは、正反対のことをすることになるので、何のための薬かわからなくなります。これも薬の害のひとつですね」大いに納得して、帰ればすぐ葛根湯を飲もう、と思った。

 顆粒を夜と朝、さらに昼と三回飲んだ。配偶者の言にしたがってあまり好きでないマスクをして寝た。朝起きたときから喉のいがいがは消え、その後栄養も休息(昼寝など)も十分とれたので明日からはマスクなしの素顔でいけそうである。葛根湯畏るべし。

 ※

 孫へのクリスマスプレゼントに「名入れクッキー」なるものを発見、ネットを通して注文した。何時間かあとにそのアンデルセンから問い合わせの電話があった。「ひとつだけクッキーに名前を入れることができるのですが、どうなさいますか」という。実はサイトのどの場面で書けばよいかわからなかったのでメッセージだけにして、まぁいいか、と思ったのである。指摘を待つまでもなくこれでは商品の目玉がないも同然、ひらがな5文字を口頭で伝えた。

 またしばらくして「メッセージは3人連名にするべきだった」と配偶者が言うのでこんどはこちらからメールで変更をお願いした。何時間も経たずに了承の旨返事があった。そこには電話での「名入れ」の件もちゃんと記録されていた。

 40年近く前お気に入りのミルクパンを買うために4、5キロ先の商店街にあった「リトルマーメイド」に通ったものだった。ふいにそのことを思い出した。家族で自転車を連ねて坂を上ったり下りたりして行った。子どもらは赤い顔をして一所懸命ペタルをこいだ。いまやネット通販だから時代は大きく変わった。孫の父親にその記憶は残っているだろうか。


2018年12月20日(木)

 午後2時30分田舎の兄死去。一年前の8月に電話で話したのが最後になってしまった。8年も帰っていないぼくに「帰ってこい」と呼びかけてくれた。口数は少なかったが男気のある兄だった。生まれてから18年間ずっと一緒に暮らした肉親に先立たれるのは辛いものがある。

 従兄弟の○君によると、11月に会ったとき「○よ、ワシ棺桶半分浸かってもうアカンわ、と言ってたからアホな事言わんとき、と励ましていたのですが…見た目、元気そうでしたが、もっと話しておけばよかった」

 また姪は「先月電話したとき、めずらしく自分からいろいろなことを話してくれた。正月顔を見に…と思っていたけど、あのとき行っておれば逢えたのにといまは悔やまれます」と書いてきた。

 早すぎたなぁ。無念である。


2018年12月24日(月)

 お通夜(22日)・葬儀(23日)に際して弔電を打つ。あて名は嫂。悲しみにぐったりしている姿が目に浮かび、電話の声も聞くに忍びない。葬儀のあとに大学の後輩で奇しくもわが母校の小学校(いまは過疎のために廃校)で長く校長を勤めたK氏からメールが届いた。K氏は子供たちも含めてこの辺鄙な村を心底愛してくれた。こんな文面だった。

「新聞で知り、今日、お葬式に参列してきました。順次さんにお会い出来るかと思ったのですが残念でした。幸男さんは小学校の役員をしていただいておりいろいろ助けて頂きました。ご冥福をお祈り申し上げます。」

 ここでも故郷はあまりにも遠かったのであった。


2018年12月25日(火)

 真夜中近くなってキーボードとマウスが動かなくなった。文字も書けない状態にいたたまれず、Eight にSOSを発信。こんな時間に、と配偶者には叱られたがメールのあとに電話までしてしまった。

 突然壊れたのか、それにしても同時というのは不思議だ、などと推測して判断を仰ぐつもりだった。ところがEightは「いえ、それはドライバーのせいです」即断した。指示にしたがってUSBの差し込み方を替えるとたちまち正常に戻った。感激した。

「いままでのやり方をOS(Windows10)が認識しなくなったのです。あちこちで似た現象が起こっているようです。」と教えてくれた。ぼくが自分だけのせせこましい場所で呻吟しているとき、Eight は世界のど真ん中に腰を据えて何が起こっているかを見極めている。感動した。同時に反省を促された。「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」である。

 すでに日付は変わっていたが、ナイスなクリスマスプレゼント。ありがとう、Eight。


2018年12月28日(金)

 いまや古くなったい型のオートマ車に乗っているが、ブレーキを踏んでいないとギアをPからDへ動かすことができないことにいまさらながら気付いた。はじめは知っていた(はずだ)が、長年操作を続けるうちにあまりにも当たり前、つまり自然な動作に慣れて、なぜ踏むのか? という大本の理由を忘れたにちがいない。

 来年の誕生日で免許更新を迎えるがちょうど70歳にもなるので更新の前に「高齢者講習」を受けなければならない。はがきが届いてから1か月ほどあとに近くの教習所に電話したところ、いまごろ? おそいですよ。すぐに予約入れないとどこも満員です、と断られた。何ヶ所目かでようやく、30年前に通った教習所で予約が取れた。その日は奇しくも誕生日当日となった。

 ブレーキとアクセルの踏み間違えとか、車線を逆走とか、大事故になるケースも多く、そのたびに世間の指弾を受けることになる高齢者。そこから発想された「制度」だろうが、自動運転が一般の道路で実現する日も近いと言われるなか、改めて「安全」を指南されるわけである。ありがたい制度なのか、高齢者を自動車社会から締め出そうという[陰謀」なのか、判断を留保したい気持ちである。

 アイドリングストップ車は、ブレーキを放すとエンジンが再始動する仕組みになっているという。またハイブリッド車は燃費がよい。通勤に使う身にはともに垂涎の的である。それでも自動運転には抵抗がある。わが腕と目と足と、さらに頭とで乗り続けるしかない。これって、過信と紙一重? 気をつけよう。


2018年12月29日(土)

 年の瀬のドラッグストア。

 前に並んでいたおばあさんは3000円なにがしの買い物に1万円札と端数の何円かを出した。レジの若い女性が「おつりですよ」と叫んだ。おばあさんは気付かずに出口に向かう。レジを離れられない女性に代わってぼくは走った。ドアの向こうで追いついて「おつり忘れてるようですよ」と教えてあげた。この場合は7000円である。

 次にぼくは1090円の買い物に対してお札と百円玉を出した。物を受け取ってレジを離れようとすると「あのー、おつり」と呼び止められた。「10円とレシートです」彼女は苦笑しながら手渡した。伝染したのだった。金額はおばあさんの700分の1であるが、巷ではおかしな連鎖が起こる。


2018年12月31日(日)

 十数年前まで20年間住んでいた町の商店街に餅を買いに出かけることになった。お目当ては手作りの餅などをほそぼそと商っている間口も狭い個人商店である。味は上等だったのでいまなお記憶に残っている。

 コンビニを筆頭に消長の著しい商業界ゆえに、もうないかもなぁなどと配偶者と話しながら人出のあふれた道路をゆっくりと走って行った。新しい建物や建築中のビルがつづき、不安はいっそう増していった。店の前に車は停められないので信用金庫の駐車場から歩いてお店に行ったものだった。信用金庫は健在で、しばらく行くとそのお店があった。「あるよあるよ、そうだ、伊勢屋だ、伊勢屋だ」こんなことを口走っていた。近くに1台分のお客様用駐車場まであるではないか。予想に反してたいした進化であった。

 そのあと迂回してよく通ったスーパーに向かった。建物や駐車場のかたちはそのままだったが店の名前が大手スーパーのものに変わっていた。吸収か買収されたのだろう。駐車場の脇、むかしカメラ屋さんだったところには安売り量販店ができていた。めずらしさに釣られてそっちに入った。

 不易流行? を実感することになったささやかな大晦日。みなさまよいお年をお迎えください。 


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