日  録  思い出が降る日々

2019年3月2日(土)

届かなかった封書の「調査依頼」をした数日後に実は届いていた、家の者が気が付かないところにおいていたという受取人である弟から連絡を受けた。郵便相談センター宛てに「関係者の方々にはたいへんご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。」と送ったところこんな返事が来た。

《再度ご連絡いただくお手数をおかけし、大変恐縮に存じます。 お申し出いただいた内容につきましては、日高郵便局 (最寄りの集配局が窓口となるらしい)へ申し伝えさせていただきました。 この度は、ご多忙の折、当センターへご連絡いただき、誠にありがとうございました。 今後とも、郵便サービスをよろしくお願い申し上げます。》

恐縮したのはこちらの方であった。

2019年3月3日(日)

朝になって飾り忘れていたと配偶者が内裏びなを出してきた。内裏びなといっても卵の殻に絵付けした一対でもう何年も前に義妹がくれたものだった。いつもは居間の本棚の一角に置いてあるものをこの日には玄関に出すのである。それを忘れたという。

お姫様とお殿様とどっちが右、と聞くからはたと困った。インターネットで写真を見るとどちらもある。ある人形店のサイトには、こんな説明があった。

《関東と関西(主に京都)では、内裏雛の置き方が逆になることが多いのです。

置き方が逆になる現象の要因は、内裏雛が模しているという「帝」と「妃」の位置が、昔と今では変わっているからです。

日本には古くから「左方上位(左側の方が位が高い)」という考え方がありました。ですから左大臣と右大臣では、左大臣の方が格上になります。神社で手水を使うときに左手から清めるのも同じ理由です。雛人形は平安貴族の姿をしていますが、平安時代の帝は、妃の左側(向かって右)へ座っていました。京都と関西の一部では、そのしきたりに従って、内裏雛を並べているのです。

一方現在の皇室では、天皇は必ず皇后の右側(向かって左側)に立たれます。座られる場合も右側です。この位置の取り方は、西洋式のルールにのっとっています。明治時代の終わり頃から日本でも西洋に準じて、このルールが取り入れられました。

つまり関西(京都)は昔のルール、関東は今のルールに従っている訳ですから、どちらが正しくてどちらが間違いとは言えません。時代や地域などによって異なりますし、「必ずこうしなければならない」という特別な決まりはありません。》

目からうろこであった。うちは古式にのっとった。


2019年3月5日(火)

ヒオウギ貝をお土産にもらった。貝殻が黄色、オレンジ、紫色と鮮やかである。初めての目にするものだったのでどんな漢字を宛てるのかと調べると「緋扇貝」。緋色はなかったが、なんとも素敵な命名である。 緋は桧とも書くそうであり、地方の呼び名もアカガイ、チョウタロウガイ、アッパなどさまざまらしい。

食卓には酒蒸しのようにして調理したものが出された。とろけるような甘みがあつて美味しかった。南の海で獲れるそうだが、北のホタテ貝とは双璧をなす「高級品」である。滅多に食べられるものではない。8枚も平らげてしまった。


2019年3月7日(木)

昨日カルロス・ゴーンは108日ぶりに娑婆に戻ってきた。作業員に変装して現れた。いまやぼくはゴーン贔屓である。庶民というか部外者にとっては実害は一つもない。長々と拘留するほどの『悪』はゴーンさんのどこにも感じられないのだった。

朝のテレビで流された日産女子社員のコメントは「やましいところがないのなら堂々と出てくればよいのに」だった。それは違うのではないか、とぼくはとっさに思った。他の社員のコメントもあったが「気にしていません。平常です」。社長にいたっては「(保釈は)想定の範囲内」と本心を隠している。洗脳が相当進んでいるという印象も受けるが、みんな恩知らずである。儒教の国とはもう言えない。どうか無罪を勝ち取って検察をぎゃふんと言わせて欲しい。

その後の出勤途上、信号が黄色に変わろうかという瞬間に三角という名の交差点に入っていった。直前対向車線にスポーツカー仕様の白い車が一台いたが、右折ウインカーが点いていないので突入を決断したのであった。すると上に高速道路が走る暗い三角交差点にけたたましく警告音が響いた。あわやという一瞬で難をやり過ごしたあとしばらく足元がひんやりした。恐怖はまずブレーキを踏む足に来るんだなぁと思った。合図をしないで君は右折するのか。生きづらい一日になりそうだった。


2019年3月8日(金)

『明恵上人集』を入手した。『夢記』を読んでみたいと思ったのだが、パラパラと捲ってみると手強い感じである。たしかに夢を記述するが、修行日記のようであり、夢の中身は「仏」にまつわるもののようだった。難渋が予想されるが読み通すつもりでいる。『日本仏教史』に続いての仏教関係の本である。いよいよ現世離脱を心身が欲しているのか。いやそうではないだろう。そろそろいい小説を読みたいと一方で願っているのだから。


2019年3月11日(月)

9時にベッドに入り12時に目が覚め、パソコンを少し覗いてまた眠った。こんどは3時半に目が覚め、このときはすぐにまた眠った。それから5時前に起床するまでの間に見た夢のなかで配偶者と真剣に何やら話し込んでいる、こんなことは現実には滅多になくなったので、しきりにこちらから懇願している風であった。しかし、何を? 残念ながら中身は覚えていない。どうでもいいことだったのかも知れない。場面が変わって外を見れば真っ白の世界である。大雪の朝だった。

ベッドから出て窓を開けた。夜来の雨であり、本降りの様相。季節はずれの雪は正夢とはならなかった。明日は7連勤目。あさっての休日が待ち遠しい。待ち焦がれて今日一日、頭がタイトだったが、作業中は元気なので不思議。馴化(あるいは順化)などということばはこんなときに使っていいのだろうか。


2019年3月13日(水)

白昼電話が鳴った。080……の携帯電話のようだったが取り上げると「東京電力の料金プランのご案内です」ときた。「はぁ」と先方の出方を待ちながら、午前5時から翌日の午前3時頃まで皓々と電気を使う生活なのでどの時間帯を安くするか迷うのだなぁ、それに電話一本で手続きできるわけではないきっと、役所並みに面倒な手続きがあるはずだ、などと考えていると向こうの女性は「どなたかわかる方はおられますか」と言う。

こちらも「どちらへおかけですか」と問い直す。料金プラン云々を繰り返して「奥さんか、若い方は?」と聞くので「いえおりません」「いつお帰りになりますか」会話がかみ合わないうえに嫌気が差して「いいです」電話を切った。

お年寄りが留守番をしていると向こうの女性は思ったか。声だけで年齢がわかるとも思えないので、「経験」から来る先入観かも知れない。思い出すだに失礼千万。こっちがもっと若ければ怒鳴っているところだ。そうしなかったのは、料金プランへの迷いと実際に「老人」だからである。



その「老人」が孫のことを語ると、遠く離れていて滅多に逢えないと思うと恋しさは募る一方、とつい凡庸な表現になってしまうが、このところ動画や写真が送られてこないと嘆いていると、配偶者のスマホに「○○が体調を崩している」と息子からメールがあった。心配性の配偶者は動転、あれこれ想像して寝込まんばかりの落ち込みぶりだった。ぼくも同じなので、電話して直接聞いてみようと思っている矢先に続報が入ったようだった。「ふたりめらしい」ほっとした表情で報告にきた。よかった、そんな予感がしないでもなかった。

生後半年の孫は玄界灘の海岸線をドライブ中、車が止まると泣き出し動きはじめると泣き止むということを繰り返した。夜中泣き止まない赤ん坊を車に乗せて走り回り寝かしつけたなどという若い父母の証言も聞いたことがある。後日車の音が胎内にいるときの音と似ているからだと専門家が説明したので納得したものだった。その胎内に新しい生命がと思うと喜びかぎりなし。老いたるものの特権だった。


2019年3月16日(土)

「明恵上人夢記」一読。さっぱりであるが、これなどはまだわかる方であった。

「同廿九日、後夜坐禅す。禅中の好相に、仏光の時、右方に続松(ついまつ)の火の如き火聚(くわじゆ)あり。前に玉の如く微妙の火聚あり。左方に一尺二尺の光明充満せり。音(こえ)ありて云はく、「此は光明真言也。」心に思はく、云々。」

千年の時の隔たりを感じさせない夢を期待したものだったが先入主は見事に覆された。 夢も仏修行のうちなのか、貴人はかくも高尚な夢を見ると思った。翻って凡俗のわれのモノは
 とはいえ、親しみのあるものばかりであり、夢はいくつになっても楽しいものである、と云々。


2019年3月21日(木)

春分の日。日中は陽射しもあったが強い南風が吹いた。春の嵐の一日だったようだ。というのは冷蔵倉庫の中で風の唸り声を聞き、外からやってくる人に様子を聞くのみだったからだ。

「春一番となったかな?」
仕事が終わったあと更衣室で少し年下の同僚に話しかけると「あれ、もう吹いたのではなかったかな」と言われたしまった。それでも納得せず帰宅してニュースを見ると「東京、横浜、福岡で桜開花=中国、九州地方で春一番」と報じられている。さらに調べれば関東地方の春一番は9日に、とあった。去年にくらべて8日遅いとも書かれていた。同僚の記憶、季節感覚の方が正しかったのである。

日々芽吹いてくる若葉を見るのがこの頃の楽しみである。1月に植えたばかりのプラムの木などはまことに健気なものである。着実に大きくなっていく。枯れたゴムの木からも芽の出る兆しが顕著になってきた。見るたびにもう春だと感じていたのに、春一番はぼくにかぎっては「12日遅い」わけであった。


2019年3月23日(土)

7日ぶりの休日、カスタマーセンターの営業時間内に電話をすることができ、やっと「dポイントカードの藪」の中から抜け出た。

発端は配偶者が使っているスマホ(名義人はぼくである)に契約の自動更新にともなって3000ポイントが付与されたことだった。1週間前さっそくdカードを手に入れてパソコンから利用者登録をした。ところがその3000ポイントが反映されない。どこかに手続き上のミスがあると思い種々変更を試みたが依然当初の2ポイントのままだった。

3日ほどあとに配偶者がローソンに行った折ポイント残高を調べてもらったところ「3569ポイント入っていますね」と言われたという。それを聞いてとひとまず安心した。しかしパソコンではその数字は出ていないのだった。翌々日「これで」とカードを差し出すとレジの男性は「2ポイントしかないですよ」とカードを突き返してきた。赤っ恥もさることながら、謎がまたひとつ、であった。

カスタマーセンターの担当者は本人確認のあと即座に言った。「この携帯電話にはdアカウントがすでに存在するのです。なのに福本さんは新しいアカウントを作りカードを登録しました。ひとつのカードにひとつのアカウントが原則です。このカードのアカウントを変更することはできません。そこで福本さんにお願いしたいのは、新しいカードをもらってきて、再度ここに電話していただきたいのです。そうすれば携帯電話のアカウントを使ってポイントを紐付けることができます」

何日も思い悩んだことが延べ10分ほどで解決したのだった。この世界はぼくからどんどん遠くなっていくと思い、もうひとつの謎「ローソンのレジで言われたポイント−正確な数字だった−はどこから出てどこへ消えたのか」については詮索する気が失せていった。外ではパラパラと細かい雪が舞っていた。気付いたのはぼくだけかも知れない。


2019年3月24日(日)

現在23日午後10時だから厳密には「明日の日記」である。ジャガイモを植えたばかりの庭の畑を見ていると乾ききった土の上にひとしきりの雨が欲しいと思う。

《板屋も漏り、衣もとほりて、雨の脚身に当れば 

あないたやただ一重なる夏衣 ふせぎかねつる雨の脚かな

「ほら明恵上人だって、脚という字を使っているよ」衒学風に言ってみたくなったが、時すでに遅しである。雨脚か雨足かで女学院の学生Tと語り合ったのは半世紀も昔のことだからだ。小説を仲立ちにして日ごと親しくなっていた。深夜の公園で小さな論争となった。ぼくは「脚」派でTは「足」派だった。

Tは自転車に乗っていた。並んで歩くときには降りて押していた。いまで言うママチャリで前のかごにはぼくの原稿が入っている。その原稿は何日かあとに無くなった。盗まれたとTは言ったがこんなのを盗ってどうするんだとぼくは自嘲した。内心もったいないことをした、逃がした魚は大きいぞ、と思わないわけではなかったが仕方ないことだった。

公園のベンチで寝るわけに行かないので「わたしの家で酒飲もか」とTは提案した。坂の上のマンションまで並んで歩いて行った。両親はすでに寝ていたが「ただいま。友達連れてきたから」と大きな声で呼びかけた。そのあとも朝まで互いの原稿を肴にして過ごしたはずだが記憶は消えている。Tとどこで知り合ったのかも思い出せない。天真爛漫、性格はぼくの十数倍も潔く、純粋だった。だからいまも白昼に現れる。

Tはいまどんなおばあちゃんになっているのだろうか。ぼくのことを覚えているだろうか。この歌の「あないたや」は「穴板屋」と掛けていると註解されるが、埋めてはいけない穴があるから思い出は雨のように降ってくる。


2019年3月26日(火)

こんなスパムメールでお昼寝を打ち破られた。まったく迷惑な話である。

《ご注文を頂きまして誠に有難う御座います。わろしもらるけぬ/(中略)/今回ご注文を致しました商品のご確認をお願い致します。わろしもらるけぬ(原文のまま)/以下URLが表示されている。》

会社名のつもりだろうが、わろしもらるけぬ、とはなんだ? 回文ではないなぁ。アナグラム? まともに付き合うのは癪だったが、ちょっと考えた。

「今回ご注文を致しました」も主客がひっくり返っている。

こちらはのんびりとした休日だったが、世の中にはもっとヒマな奴がいるものである。いや案外必死な形相で、好奇心旺盛な人が「応答」してくるのを待っているのかも知れない。網を張る、という表現が思い浮かんだが、メールでは詐欺師の「顔」は見えないので、「迷惑メール」としてソフトバンクに報告しておいた。


2019年3月30日(土)
 
少し肌寒く感じられる朝、古びた自転車で700メートル先のコンビニへ行った。いつもは車で通り過ぎる道も10分の1の速度で走ってみるとまったくちがった風景に見え新鮮であった。

庭の向こうの道路を東に50メートル行くと隣市との境界線となる道路に突き当たる。夜ふけにはバイクが1、2台爆音を立てて走ったりする道路である。音を聞くたびに走る場所に事欠いたチキン輩(ばら)めが、と舌打ちしたくなるが、それはともかく、突き当たりを右折、ほどなく30度の二叉路になる。叉の付け根にそびえ立っていた巨大な銀杏の木がなくなり、ふたつの道に挟まれた一帯が見渡せるようになっていた。その三角地は他の木々も住む人のいなくなったボロ家も消えいまや更地寸前である。

二叉路のどちらも国道に至るが、右の道は途中まで二車線へと拡幅工事が行われている。これらの道は大型車の通行が年々増えてきたように思う。自転車や歩行者にとってこんな狭い道を行くのは命がけである。それでも、両脇にポツンポツンと建つ家を覗き込みながら移動する。敷地内に墓地を構えるのがこのあたりの風習である。庭の一角に新旧の墓碑がいくつか立っている。昔からの住人と知れるが、新参者はこんな家があったんだと新しい発見のように思うのだった。

辿り着いたコンビニで1000円札を出しておつりを500円もらってしまった。頭のなかで買ったものの値段をあらかた足しながら振り向いてみればレジの店員は何事もなしという顔をしている。外に出てレシートを見ると「お預かり1100円」となっていた。レシート上は平仄があうのだった。

すると100円はどこから? 前のお客がトレイに忘れていった? それともレジの打ち間違い? 戻って申告しようと一瞬思うが面倒さが先だって止めた。同じ道を通って家に帰った。その道は緩い上り坂になっているというのも新しい発見であった。


2019年3月31日(日)

3月も今日で終わり、明日には5月の新天皇即位に向けて新しい年号が発表される。「平成」までいくつの年号があったのか気になった。発端は小学校で日本の歴史を習い始めた頃何かを一所懸命暗記してほめられた思い出である。その何かが年号ではなかったか、と思ったのである。

あるサイトによると「大化、白雉、朱鳥、大宝、……明治、大正、昭和、平成」1320年間でなんと250を数えるという。これを全部覚えるということはできないので、ちがう。すると、あれか……神武から始まる天皇の名前! 

戦前の皇国史観のもとでは、歴代天皇をすらすらと言えることが誇りだったにちがいない。しかし、これだって128、山手線の駅名の4倍以上あるので「神童」でないほくにはできなかっただろう。しかし挑戦はしてみたはずだった。小学5年から授業に加わった日本の歴史が大好きになっていたから。

こんな風に書きながら小学3年生の頃「社会科」の通信簿が突如最低ラインまで下がったことを思い出した。「女の子に何か言われただけですぐに泣き出すから」というのがその理由だった。呼び出された母は愕然とした。泣き虫だった自分も情けないが、低学年の「社会科」とは当時幼稚園児並みの協調性を習うものだったのかといまさらあきれかえる。高学年で「社会=歴史」となってやっと救われるのだった。

閑話休題。あと12時間後に発表される新年号はなんだろう。どんな漢字が使われるか大いに興味はある。




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