日  録  令和狂騒の長い日

2019年4月1日(月)

 新しい元号が「令和」に決まった。

「れいってあの礼儀の礼ですか?」仕事中に「速報」をもたらした同僚に聞くと「そうらしいですよ」と言った。信じたぼくは「儒教の国に戻ったのか。悪くはないが、こんど天皇に即位する皇太子の弟・秋篠宮は幼少時の称号が礼宮(あやのみや)だったはずで、なんか紛らわしいなぁ」と思った。昼休みに「友和」と予想した配偶者に「和は当たったな。あやは綾に通じる」とメールを送ると、「わかりません。礼って?」と逆に不審がられた。

 これはいわばエイプリルフール異聞。その後、ラジオニュースで万葉集の「梅の宴」に典拠があると知って嬉しかった。その宴が行われたのが太宰府だったというのもまた。1300年の時空を越えて言葉は甦る。しばらくは「老兵」などと卑下しないでおこう。


2019年4月5日(金)

 31日から8日まで9連勤の日々である。2日は午後出勤だったから半日しか働いていないが「9」は初体験である。「70代としては」と冠すればすべての出来事は「お初」となっていくのだろう、これからは。

 一緒に働いている男性ふたりが相次いで入院することになったのが「9」の理由である。二人とも60代前半の歳ごろ、ぼくよりは7、8歳若い人である。復帰してくるまでは休み返上が続くかも知れない。今回はとりあえず、明日、明後日、明明後日(しあさって)の辛抱である。数えないで淡々と一日一日を送ろうと意識したがやはりだめであった。凡人の通弊であるか。

 名古屋の友・O君から来信あり。電子メールもときに来るが、主流は肉筆の手紙や葉書である。これらを電子メールと区別する呼び名は単に「手紙」。シンプルでいい。便箋に向かうゆっくりとした時間が欲しい。そんなことを思うのも「お初」である。


2019年4月7日(日)

 母音というのはアルファベットにすると「1音」しか表さない。Aはあ、Iはい、Uはう、Oはお、という風である。氏名の頭文字をアルファベットで表すとすぐにわかるのが特徴である。本名を秘匿したい場合などは、ばれる確率が大きいので損だよ、と発見し、嘆いたのはその名古屋の友であった。半世紀以上前、学生時代のエピソードである。

 ふとFはどうかと考えてみた。「ふ」以外にあるだろうか。ファ、フィ、フ、フェ、フォだから日本の人名としてはひとつ。母音並ではないか。その連想からポーの「黄金虫」を読んでみたくなった。巽孝之訳 『モルグ街の殺人・黄金虫』 (新潮文庫、2010年)をネットで発注。古い本は本棚を探せばあるだろうが、黄ばんでいるわ字が小さいわで、老人の眼には辛いのである。


2019年4月9日(火)

 昨8日は昼すぎから気温が一気に下がり荒れ模様となった。冷蔵倉庫のなかまで雷の音は聞こえた。冬に戻ったような天候に乗じるようにぼくは父が愛用していた襟巻きのことを思い出した。早朝神社のお詣りや炭焼き小屋に籠もる夜にはその襟巻きをして出かけた。一年中、一生、どんな場面でもそれを巻いていたのではなかったかといまでは思えるほどだ。

 ネルでできていたのでとても暖かいように見えた。あるとき新調してもらった真っ白の襟巻きを上着の首回りにしまい込みながら嬉しそうに、いや少し照れくさそうにしていた。少し前に新しいのが欲しいと母にねだっていた場面を覚えていたので「見かけによらず、夫婦は一体なんだなぁ」と子供心に感心したものだ。

 ネルとは《フランネルの姿かたちを真似た綿織物を指す和製語で、フランネルの語尾を取ったもの。さかのぼると、明治時代の初期、和歌山で開発され、表面が起毛していることから「毛出し木綿」と呼ばれました。のちに生産地や素材の名称を取って「紀州ネル」「綿ネル」となり、単に「ネル」と呼ぶようになりました。起毛しているため薄手でも保温性がある特徴を生かし、肌着や肌襦袢(じゅばん)などに使われたようです。》と説明されていた。

 村では壮年から老年まで大人はみんなネルの襟巻きをしていたような記憶も残っているので長年にわたって流行していたのかも知れない。とすれば新調をねだったのも故なしとしない。配偶者は仕事に出かけるぼくのために毎朝せっせと弁当を作ってくれる。お茶の入った魔法瓶のほかに最近は空のコーヒーカップの中におやつをいくつか忍ばせる。お昼休みが待ち遠しいばかりか鼻高々にぼくは弁当を広げる。父のネルの襟巻きに伍して余りあるではないか。


2019年4月10日(水)

 10日ぶりの休日だったきのう、ひがな一日寝て暮らしたという表現がピッタリだったが、お昼前何度目かの起床時に腰に異和感を覚えた。ギックリ腰ほどの激しさはないが立ち居の拍子などには堪える痛さである。その緩慢な痛みは日をまたいで続く。休みは欲しかったが、休んだら休んだで、身体はヒステリーを起こすのか。いやいやをする幼子のようだ。

 夕食後の、この日何度目かの睡眠時に犬が現れた。畑のそばの道を悠然と歩いている。立ち止まっては草や土の匂いを嗅ぐ。優しい顔をしている。Nさんちのボニーではないかと思った。ボニーは時折NさんがSNSに写真を投稿するので見知っている犬だった。実際に会ったことはない。Nさんはいないかと見回したがボニーひとりだった。「ぼっち」は危うい、と感じてNさんに電話しようとするところで目が覚めた。電話の代わりにSNSでかつてのボニーの写真を探してコメント欄に夢の経緯を書き込んだ。もはや夢現一如である。


2019年4月12日(金)

 おでこの受難にはじまりおでこの受難に終わった。起き抜けに居間との境の半開きの襖戸にぶつけた。勢いがついていたので痛かった。深更ベッドに潜り込む前、半腰で毛布を引っ張れば指が滑って直撃。なんで2回も、と思ったが、きょう一日のストーリーズはこんな風である。

 午後になって2泊3日の検査入院(術後半年の経過を見るため)をすることになった娘を国際医療センターまで送り届けた。その前後にはのびのびなっていたオイル交換や換気扇の購入、郵便局からの送金などの用事を済ませた。再び病院に戻ったが送迎役の身には他にやることもなくスタバや病室棟にある食堂(誰もいなかった)で読書。

 帰りは丘を切り開いて作った新しい道路を走った。病院から高麗神社脇を通る緩やかな傾斜の道であり、まだ交通量は少なくて気持ちのよい道だった。途中トマト用の土を買うためにホームセンターに立ち寄った。25リットルの有機土、いくつ? と訊くと配偶者は、いつつ、と言う。一度にこんなに買うのははじめてだった。ことしもトマト三昧か、まだ来ぬ夏を思い嬉しくなった。

2019年4月14日(日)

 朝退院する娘を迎えに行く。病院内のスタバでコーヒーとケーキを摂りながら「退院祝いに今夜はサイボクの肉を奮発しよう」と言うと予想以上に喜んだ。あぁ、食べたい、食べたい、というわけである。サイボクの豚肉は高い(100グラムあたり300円から500円)が美味い。11時過ぎにサイボクに着くとすでに多くの人で混みあっていた。レストランの前ではたくさんの親子連れ、家族連れが空きを待って並んでいる。売り場も人であふれていた。満杯の駐車場には「鹿児島」「山口」「なにわ」などのナンバープレートが散見された。ここはいまや全国区である。

 3、40年ほど前、焼き肉と言えばここまで買いに走ったものであった。当時はそれが当たり前のことだったが、いつしか敷居が高くなっていった。その頃は昭和から平成にかけての10年間に重なっている。個人的な感想としては輝ける時代の一エピソードである。

「羽振りがよかったのかなぁ」
「ちがうと思う。何かを信じていたんだね。だから前に進むことができた」
「豚肉と関係あるのかい?」
「おおありさ。人生は山登りみたいなものだからね」
 
 自問自答のなかには「答」はない。が、前に進む意欲は不変である。 


2019年4月20日(土)

 寝ぼけまなこでトイレの扉を開けると、高々1センチの敷居に躓いてよろけた。掴まるものが目の前にあったので倒れ込んで便器や壁で頭を打ったりはしなかった。ただ右足の小指が小さな損傷を受けた。痛みがあり、指の間から血がにじみ出ていた。朝っぱらからなんてこった。

 その後欠けた入れ歯を補修したいという配偶者を丘の上の大学歯学部付属病院へ送って行った。受付開始の9時少し前に着いたがすでに多くの人が順番を待っていた。土曜日にも診察してくれるのは地域の多くの人にとってありがたいことであるのだ。

 つい最近までぼくも通い、配偶者も入れ歯を作ってもらった病院だがもう5年も経っているので「初診扱い」になった。配偶者が書き始めた61項目にわたる「問診票」を覗き込んだ。ハイかイイエを丸で囲んでいくのだったが、どれもイイエだった。質問の内容が思い出せないのがいま残念である。ひとつネタを逸した気分である。こんど行ったときにこっそり持ち帰ってこよう。

 待ち時間にまわり(毛呂山)の田園地帯をドライブした。宛てずっぽに走っていると歴史民俗資料館の前に出た。一度来たことがある場所だった。あのときは入館して『毛呂山民俗史』『鎌倉街道と苦林野』『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』などの小冊子を買い求めたのだった。これらは手元にあったのでパラパラと捲っているが宝の持ち腐れ感にさいなまれる。もっと研究心を持たねば、またどこかで転ぶぞと云々。


2019年4月23日(火)

過日3歳になったばかりの孫に幼稚園入園祝いの絵本を送ったところ、きのうの夜配偶者のスマホに電話があった。途中で代わってもらった。

「ノンタン、読んでくれたの?」

「ノンタンだけじゃないよ。あっちの本もこっちの本も読んだよ」

 ノンタンシリーズのセットに配偶者とぼくがそれぞれ選んだ2冊を混ぜて送ったのである。ぼくは『ともだち』という谷川俊太郎と和田誠の絵本を選んだ。

 電話なのに「あっち、こっち」というのは臨場感があって面白かった。話しぶりからもう字が読めるのかと感心したものだがあとで聞くと自分の名前の2文字しか読めないらしい。まぁあわてることはないだろう、父母からの読み聞かせの効用をまずは堪能してもらいたい。

 字と言えば孫娘とその父母3人には「や」がひとつずつ入っていることに気付いた。偶然ではないような気もする。まったくの余談だが。


2019年4月27日(土)

 2日前富良野に帰った配偶者からのメールには「夜中に車道がうっすらと白くなっていただけでいまは雪の気配はありません」とあった。ここも朝からストーブを焚くほどの寒さだったが北海道はもっと真冬ということか。 

 7日ぶりの休日だった。ご褒美とばかりに「食べては寝る」を繰り返していた。昼すぎにめずらしく家電が鳴ったので取り上げると埼玉医大からだった。生命保険用の証明書ができあがったという連絡、そのときは連休明けにでも伺いますと言ったもののやはり今日にするかと思い直した。

 すると何時までか、そもそも土曜日でも受け取れるのかが心配となった。折り返し電話して聞くことにした。家電を手にして、そうだ市外局番なしで掛かるのだ、と唐突に思う。7桁で通じると、いまやなんと新鮮なダイヤルかと感動する。実際こんな風に掛けるなんて久々であり、滅多にない。携帯が主流になったからである。それにしてもこれが7日ぶりの休日のトップストーリーとは、なんともいやはや、である。


2019年4月30日(火)

 平成最後の一日が“お休み”となった。数日前なら、巷の狂騒に反発して、だからどうした? と突っ込みを入れていたはずだが、この期に及べばそうではなくなる。10年ごとに時代の相貌が変わっていき(「10年ひと昔」と言われる)、10年が3つ重なった30年は世代替わりの年数、そこで“改元”となれば感慨を催すに十分ではないかと思い直した。それに浸るための休日はありがたい。

「新しい元号は平成であります」小渕官房長官のことばはいまも耳元に甦ってくる。まるで昨日のことのように。あれからか、それからか、あっという間に30年が過ぎ去ったのである。40代、50代、60代だったので中身は起伏だらけである。反省、後悔の多い日々だった気がする。いまとなればそれもまたささやかな人生ということか。

 午前0時、日付つまり年号が変わったのを見届けてからベッドに入った。雨の一日、とても長く感じられたというのが正直な感想である。そこで映画『日本の一番長い日』を思い出した。ポツダム宣言受諾から終戦に至る秘話だった。表題は「昭和20年8月15日」のことであるが、ドキュメントタッチのこの岡本喜八作品には新しい時代への期待が躍動していたように思う。

 ぼくが長いと感じたのはほとんど外には出ず、退位一色のテレビも見ず、漠然と過去を振り返っていたからである。小さなもんだ。


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