日 録  幸文さん逝く! 

2019年12月1日(日)

 師走である。ぼくはいつから眼鏡を掛けていたのだろうか。あの麦わら帽子はどこへいった、のもじりではない。子供と一緒に写っている40数年前の写真を見るとどれもみな眼鏡なしであるのだった。

 はじめて眼鏡を作ってもらったのは大学生になる直前だった。新しい眼鏡をカバンに忍ばせて意気揚々と広島に行った。嫁入り道具の一つみたいな物であったのか、何年かは常時つけなくとも平気だった。映画を見るとき講義を聞くときなどにかけていた覚えがある。それから10年近く経って当然眼鏡人間のひとりになったと思い込んでいたのであの古い写真は不思議な感じがした。

 ここ数日間は車を運転中にはっとして目元に手をやることが多くなった。もしやかけ忘れてはいないだろうかと気になるのだった。あの写真たちの幻影に怯えるかのように。

 
2019年12月3日(火)

 ふるさとの親戚へのお土産用に「福蔵」五個入り十箱とお供えのクッキー(いずれも『川越 くらづくり本舗』)を宅急便で実家に送ったあと近くの本屋さん「YOMYOM」に立ち寄った。車内で読む本を物色するためである。京都までの数時間に読み切れるもの、当日の6日までについ手を出して読み終えたりしないもの、いまの関心に近いが重厚でないもの、持ち運びという点では文庫本がいいか、などなど考えながら店内を歩いた。

 ピタッと当てはまるものが見つからずかつて読んだ本を家の本棚から抜き出そうかと考え直したそのとき『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著 新潮文庫)の背文字が飛び込んできた。この有名な定理が解決されるまでの350年間にわたる苦闘の歴史を描いたものだという。推理小説のようなノンフィクション、発売当時これを読んで数学ものにはまっていると言った教え子を思い出しながら手に取った。(ちなみに帰りに読む本は決まっている。7日に発売される『新潮1月号』に掲載される村上龍の500枚の新作。まったく余談であるが)


2019年12月10日(火)
 
 少し前の報道によれば広島県は赤レンガの被爆建物・旧陸軍被服支廠のうち2棟を解体するという。

 《広島市内最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(南区)で所有する3棟のうち、1号棟の外観を保存し、2、3号棟を解体するとする安全対策の原案を、県議会総務委員会に示した。(中略)旧陸軍被服支廠(ししょう)とは旧陸軍の軍服や軍靴を製造していた施設。1913年の完成で、爆心地の南東2・7キロにある。13棟あった倉庫のうち4棟がL字形に残り、県が1〜3号棟、国が4号棟を所有する。4棟は鉄筋コンクリート・れんが造りの3階建て。(中国新聞)》

 上の記事にある4号棟が昭和47年(1967年)当時大学の寮として使われていた。入学前二つあるうちのどちらの寮に入るか迷った末にこっちを選んだ。住所は出汐町官有無番地。網走番外地じゃあるまいにどんな辺鄙なところか興味津々で出かけた記憶がある。そこでぼくは約1年半を過ごした。

 「一対」という小説の一章分でこの寮を舞台にしたとき、発表の場を提供してくれていた、詩の出版社・ミッドナイトプレスの岡田幸文さんは原稿を読んですぐに長い感想を送ってくれた。その末尾にはいつかあなたの案内でその建物に行ってみたいと思います、と書かれていた。それはなによりもうれしい感想だった。ぼくの書くものをずっと理解してくれていたほとんど唯一の編集者だった。40年におよぶ変わらぬ厚誼は依代であり宝物だった。近年は何年か毎に逢って話すと原郷に戻ったような気持ちになった。その岡田さんが9日亡くなった。なんてことだ。「いままでありがとう」の言葉が口から出てこない。「さよなら」などはもってのほかのことに思えて。合掌。


2019年12月11日(水)

 8日西宮在住のY君と名古屋に住むO君ふたりと大阪で逢った。ともに学生時代に知り合ってからすでに半世紀以上が経つ友人だった。Y君は大阪自由大学、O君は法律専門学校をそれぞれ拠点にして“現役生活”を送っている。O君のコーディネートで十年来毎夏信州で逢ってきた仲間たちだが今回師走の大阪が加わったのである。

 コリアタウンのほかに道頓堀や法善寺横丁、通天閣など大阪の名所を見て回りたいというO君のたっての願いを地元のY君が引き受けた。昼前に落ち合って午後6時ごろまでの7時間はあっという間に過ぎた。継体天皇の謎で盛り上がった最後の飲みの席もさりながら、先達はあらまほしきものなり、を実感した一日だった。

 O君を送ったあとで「実は歴史的な出来事に絡めて大阪ガイドを定期的にやっているんだ。多いときは二十数人を連れて回るよ」と言う。嗚呼、道理で、と嬉しい納得をしたのだった。

 ひとしきり話題になり、こちらは蚊帳の外だった継体天皇問題、文春新書『継体天皇と朝鮮半島の謎 』が今日届いた。早速読んで輪に加わろう。


2019年12月13日(金)

 今日注目した文章は『首相補佐官と厚労省審議官の「京都不倫旅行」』(文春オンライン)の記事の一部、

《交際について問う記者に「男女って……(和泉氏は)だいぶおじいちゃんですよね。いくつだと思う?」と回答した。》

 であった。この種の回答を人はなんと呼ぶだろうか。すり替え、韜晦、照れ、赦し、などなど。本人は婉曲否定のつもりかも知れないが人はそんな「忖度」はしないものである。ちなみに(和泉氏は)66歳らしい。

 もし自分が当事者だったら(あり得ないが)、どっちが真実であるにしろ、「それがなにか? いくつになっても恋は恋(来る)」または「仕事の仲間なんです。仲良し、それだけよ」と答えたい。

 審議官の回答はなぜか苛立ちを募らせたからである。


2019年12月15日(日)

 運転中にギアシフト表示の上方でだいだい色の「HOLD」ランプが点滅しはじめるわ、パソコンでは「システム警告」「あなたのパソコンは感染しています。今すぐ修復を」(おそらくニセ広告)が音声とともに頻繁に出てくる(消しても消しても……まるで金太郎飴の如し)わで心落ち着かない日々が続いている。

「HOLD」点滅はディーラーに問い合わせたとき「2速と3速で走行しているという合図ですが、異常は異常です。原因を調べますので来てください。ただ急ぎの、深刻な問題ではありませんが、そうなるといったん消えてもまたきっと点滅し始めますよ」といわれた。ここ2日間は点滅しない(消えたまま)のでヒヤヒヤしながらもとりあえずはほっとしている。

 システム警告はいたずらに不安をあおり立てる。それが向こうの狙いでニセサイトへの誘導を狙っているのだろう。その手に乗るものか、と思いつつも、煩わしいことこの上もない。サイトの指南に従ってタスクの終了やキャッシュの消去を試みるがダメだった。ついにブラウザを変えた。不便だが警告は出なくなった。

いずれも根本的な解決はできていないところが心不安定の原因だろう。


2019年12月17日(火)

 Seriaという百円ショップで単三乾電池を買った。部屋の灯りはリモコンで操作するようになっているのに効き目が悪い。きっと電池が消耗したのだろうと思ったのである。うちに帰って交換してみたが一切反応しない。これは電池が不良としか考えられなかった。通常の4分の1以下の値段だったとはいえこれはショックであった。

 業を煮やしたわけではないがリモコン装置を外して完全に手動にした。ベッドに居ながらにして灯りを消すときのために紐に布紐を継ぎ足した。これなら電池いらずでスイッチが遠隔操作できる。ついこの前までは子供の部屋も自分の部屋もこれだったという気がしてきた。


2019年12月20日(金)

 食事を終えると配偶者は「わたしの保険証期限切れだって」。近くの病院で受付の人に言われたという。「ご主人のは切れていないようですから、2割にしておきますね」との「配慮」で事なきを得たが釈然としないのは当方であった。本体がカードに切り替わった9月に「高齢受給者証」も再交付されていたからである。見ると「平成33年2月1日まで有効」とある。以下は会話を再現したものである。

「いまは平成に換算すると何年ですか?」と配偶者。
「平成34年です」
「あ、そうですか。ご配慮ありがとうございます」

 いまや街に出るとクリスマスや年末年始に「令和最初の」という冠詞がついて賑やかである。平成はもはや過去のことだと言わんばかりである。今年4月まではちゃんと平成31年だったことも忘れてしまうほどだ。 

 受付の人は若い人だった。なぜ3年間もぶっ飛ばしてしまったのか。案外頭の中は令和でいっぱいだったのかも知れない。ただし平成34年を信じた配偶者はそうではない。「ご主人」が言うのも気が引けるが、人の言やよし、が小さい頃から身に染みついている人であるのだった。


2019年12月24日(火)

 冬至の日にはお湯のなかに柚子の実2個を入れた。その2個の実がポカリポカリと浮かぶのを見てトルストイばりの格言、

「若い人はそれぞれに個性的だが、年老いた人の顔は一様である(皺だらけである)」

 を思いついた。とりわけて夫婦の顔が似てくるという事、である。犬は飼い主に似るというが、この場合はどっちがどっちにというわけではない。ひとつ屋根の下で長い年月を閲するうちに性格が似、やがて顔つきまでも、という成り行きでもあるのだろうか。哺乳類とは奇妙なモノである。

 そして今日はクリスマスイブである。予約しておいたケーキを近くのアンデルセンのお店(本社・広島タカキベーカリー)まで取りに行った。去年もたしかアンデルセンの名入れクッキーなるものを孫に送った。ことしはメインのプレゼントと一緒に動物の顔カタチを模したクッキーを入れた。アンデルセン贔屓になるのは青春の記憶に依っている。用事の最後に電気店に立ち寄って電気敷き毛布を買った。配偶者のぼくへのクリスマスプレゼントであった。夜中寒さに震えて起き出すこと勿れ、というメッセージでもある。『マッチ売りの少女』の“炎の幻想”のように、そこにはささやかな幸せがありそうだ。


2019年12月27日(金)

 古里の集落の世帯は45だという。ぼくが住んでいた60年代には80世帯あったのだからおよそ半減である。しかも世帯主は高齢者ばかりである。小中高生はひとりもいない。それでも代々住民が1年ごとに神主を務めてきた鎮守とお寺は健在であり、神社のそばにある宿泊施設・かもしか荘と対岸のグランドゴルフ場やオートキャンプ場には年間何万人もの人が訪れるというので過疎のなかにも一縷の望みはあるのだった。

 兄の一周忌の御斎(おとき)はそのかもしか荘で行った。お寺の住職と話しながら、高校教員をしながらずっと檀家のために勤めてくれていることを知った。東京の大学院で仏教学を学んだことなども話題に上った。その志は嬉しいものだった。

 住職の小さい頃をぼくはよく知っている。境内は子供の遊び場所であり、夏休みのラジオ体操の会場であり、2キロ先の小学校に登校する際の集合場所だった。本堂脇の居宅にもよく入れてもらった記憶がある。兄と姉がいてこの二人とは遊び仲間だったが末っ子の住職は本当に小さかった。聞けばぼくとは6歳ほど離れているというのでよちよち歩きだったという印象はまちがっていない。そんなことも奇特に思えてくる。

 住職の名前も兄の名前も覚えているのにそのお姉さんの名前が思い出せない。愛らしい姿は目に浮かんでくるのに、どんなにふり絞ってもいまだに思い出せない。ゆいいつ口惜しいことである。(突然思い出した。その人の名はまちこだ、と。町子か、待子か、あるいは真知子か、漢字までは思い出せない。『君の名は』のもじりでないことは確かだと思う。28日記)


2019年12月31日(火)

 昨日から三連休に入った。いわゆる「正月休み」である。年末年始の三連休は近年稀なことであるが、で何をする? というところではたと困った。休日とくるとこちとらには一に睡眠二に読書三四がなくて五に日記を書くことである。畑仕事や家事は配偶者に任せっきりである。心得たもので「ゴミ出すものあれば今のうちに」と言うのみだった。買い物などには車を出すので昨日も今日もお店めぐりとなりそうである。

 今月はじめにはMPの岡田幸文さんが逝ってしまわれた。突然のことだった。いまいちど、いや何度も近いうちに逢うことを念じていたのに、叶わなくなった。それがいまだ信じられないのだった。やぁ、福本さん、と手を挙げるはにかんだような笑い顔に逢いたいのである。


 


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