「夢二話


2020年1月1日(水)

あけまして おめでとう ございます
今年も ご愛読のほど よろしくお願いします
 
 午後になって坂戸の永源寺に初詣で。ここは5月5日のこどもの日のお釈迦様降誕祭で有名なお寺である。そのお祭りの日に一度来たことがあった。今回はそれ以来、数えてみると40年ぶりである。当時は都内に住んでいたので何時間かかけてやってきた。義妹一家が住んでいたからであった。その何年かあとに近くの街に引っ越してきたのにお詣りに来るきっかけもなく過ぎてしまったのである。

 この寺が記憶に残っているのは縁日の出店で一重のバラの苗木を買ったからである。バラの木はその後3個所を転々としたが毎年春になると可憐な真っ赤な花を咲かせてきた。そればかりかいまの家に来たときには難しいと言われてきた挿し木が根付いたのである。ともに枯らしてしまった何年か前まで30数年間にわたって目を楽しませてくれた。そんな因縁を思い出しているとちよっとしんみりとなる。なぜ枯れてしまったのだろうか。一方でまた新しい苗木が欲しいとも思うのだった。


2020年1月7日(火)

 そういえば近頃母の夢を見ないことに気付いた。2010年の暮れに死んでしまったが、それから数年間はよく夢に出てきた。和服姿でバス停に立っていたり、奥の間で布団の上に横たわっていたりした。こちらから声はかけるが、母から話しかけてくるということはなかった。いや何か言っていたような気もするが忘れている。あの世に行ってまであなたの母で居続けるわけにはいかない、とでも言ったか。十年も経てば夢もまたまぼろしのごとしである。

 五日連続勤務を終えて今日は休日。何枚か年賀状を書いた。夕刻になって郵便ポスト目指して車を走らせた。大型スーパーの前にたしかあったはずだという記憶をたよりにまずそこへ行った。近くのコンビニも店頭にも中にもない。いつも行くスーパーにはあると思い出したのでそこに向かった。ぐるっとひと巡りしたことになる。ポストまでまぼろしとなる思いだ。



2020年1月10日(金)

 71回目の誕生日を迎えた。休みだったのでいつもより遅く起きると「おめでとう」と配偶者が祝福してくれた。彼女は前夜、自分でケーキでも買ってくるか、と冗談半分で言うと「作ることにしたから」と宣言したのである。何年ぶりのことであるか、心意気が嬉しくて、よくぞ思い立ったと口を衝いて出そうになった。この朝はさらにfacebook上に祝福の投稿が次々と入ってきた。ひとりひとりに返信しながら、花よのぉ、蝶よのぉ、春が待ち遠しいと思ったのである。またも嬉しいことであった。


2020年1月13日(月)

 帰宅早々配偶者は右手人差し指に刺さったトゲを抜いて欲しいと言った。障子を外した拍子に桟のささくれにやられた。見れば皮膚の下に黒いモノが残りその元の方が蒼白く腫れている。

 任せておけとばかりに、火に炙った待ち針の尖端を皮膚に突き立てて黒いモノを追い出そうとした。眼鏡型のルーペ(ハズキではない)をかけて奮闘したが血は溢れるが黒いモノは出てこない。見かけよりも相当深いのであろうか。素人の所業がふとあやうく思え病院へ行くことにした。

 休日(成人の日)の午後7時である。かかりつけのクリニックは閉まっていた。そのまま6キロほど先のK病院へ直行した。そこはぼくが通院している大きな病院で、配偶者もかつて虫に刺されて顔が腫れたときに診察を受けたことがあった。あのときは午前3時頃だった。しばらく待った記憶があるがこんどはすぐに診察を受けることができた。

 当直の医師と看護師ふたりが対応してくれた。黒いモノはどこへ行ったか、と探すうちにピンセットに貼り付いていた小さなトゲを医師は見つけた。もう残っていないと思いますよと言いながらテープを巻いてくれた。奥深くにもっと大きなトゲがあると思ったのにあまりにも小さくて拍子抜けした。

 が、ひとまず安心した。6キロにわたって車を走らせながら病院という病院は例外なく(おそらく)看板が皓々と点いていることを不思議に思ったものだった。診察はお休みでも看板の灯りだけは消さないで! という社会のおきてでもあるのだろうか。それこそ本当の救急の人のために。


2020年1月14日(火)

『偏西風異変/遠のく初雪』こんな見出しの記事(中国新聞)に遭遇した。広島の初雪が遅れに遅れて年を越し、1935年1月16日以来、85年ぶりの記録更新となりそうだという。越年は21年ぶり。

 なぜこの記事に惹かれたかというと5年間広島に住んでいたとき毎年初雪が12月14日だったことを思い出したからだ。ことしも同じ日だ、律儀なものだなぁ、と雪の舞う空を見上げてこの発見を誰彼に自慢したくなったのであった。記事によれば平年の観測日は12月11日とあり、50年ほど前のぼくのとは少しずれている。

 この記事にはさらに、暖冬には偏西風の流れが影響している、と書かれていた。太平洋にある高気圧の影響で偏西風がいつもより北に押し上げられシベリアから寒気が南下しにくくなっているからというのである。広島だけではなく西日本、関東の一部も同じ異変に見舞われている。こんこん恋しや雪や恋しや、である。

2020年1月17日(金)

 富士見市山室にある「ららぽーと富士見」へ行った。ここに来るのは9月以来2度目だった。近辺を走りながら10年前までは30数年にわたって通勤で通ることがあったところである。あのときにはなかった店や建物が増えていたので、よみがえってくるのは道の記憶というものだった。唯一交差点角のセブンイレブンが健在なのにはなぜかほっとした。

 今回の目的は『パラサイト 半地下の家族』を観るためだった。テレビの韓流ドラマに「心酔」している配偶者の発案だった。ぼくも評判を聞いていたので、運転手を兼ねて同行した。

 映画は厳格なリアリズムに貫かれていた。娯楽性も加味されているが、ぼくにはなかなかしんどいものがあった。このしんどさはなんだろうか、と考えると短気さに帰着する。言い換えれば現実社会にもっと希望を、と叫びたがっていることに気付かされるのだった。その意味ではいい映画であることにまちがいない。


2020年1月20日(月)

 寝相が悪くなった。どんどん悪くなっているような気がする。電気敷き毛布は皺くちゃとなり、毛布はくるくると丸まり、布団は折りたたまれて裾にある。かつてはこんな風ではなかった。毛布と布団はきっちりと重なって首筋と肩をおおい顔はまっすぐ天井をみつめている。まるで正座のような寝姿だったはずだ。

 昔々、電気の暖房器具が普及する前の話であるが、瓦でできた置きこたつに足を乗せて暖を取っていた。こたつのなかには熾った炭の入った土製の火入れがはいっていた。炭は灰の中に埋まっていてこたつには厚い布がかぶせてあった。そのうえに布団が掛かっている。厚い布越しに熱が伝わってきた。

 その頃はきっと行儀よく寝ていたのだろうと思うのだった。つまり理想的な寝相であった。そうでなければ布団の中でこたつがひっくり返って大事(おおごと)になるのである。

 あるとき離れに行くと焦げ臭い匂いがした。ぼくはくすぶっている布団を剥がしてを外に放り投げた。置きこたつがむき出しになった。母を呼ぶと、よく機転が利いたね、とほめてくれた。離れに行く時間がもう少し遅かったら小屋は全焼するところだった。中学生の頃だから55年前の記憶である、そんな置きこたつをなんと呼んでいたのだったかがいま思い出せない。特有の呼び名があったはずだが、呼んだところでこんな寝相ではもはや使えないだろう。


2020年1月21日(火)

 承前:昔々の行火の名前は「ばんどこ」と判明した。従兄弟や姉の証言でわかった。するとぼくも当時そういう風に呼んでいなかったはずはないのに全然思い出せない。記憶というのは不思議なモノである。


2020年1月25日(土)

 池袋の私鉄駅のホームで始発電車に乗ろうとしていた。ここで配偶者と合流して家に戻るつもりである。友人Mに電話してすでにこちらに向かっていることを確認した。始発を待つ人はそんなに多くないが配偶者を見つけられないまま目が覚めた。

 これが夢の続きだったので驚いた。何時間か前の夢ではいざ帰ろうとして酒場を出ていた。途中までは行けるが最寄り駅までの終電には間に合わないことに気付いた。いっそ始発にしょうと同行していたYの家に行った。仮眠する前に自宅に電話を思い立つ。実際にかけたかどうかわからないがそこになぜかMが現れて奥さんは近くにいるよなどという。それは好都合だが、すると家には子供ふたりが留守番かといっとき不安になる。

 YもMも学生のときの友人である。そのあとMがシェパードに追いかけられ、ついに見つかる場面がある。優しい警察犬だった。吠えたり噛みついたりはしないのである。犬の頭を撫でるところでいったん夢は途絶えていたのだった。

 夢の続きなんてみたいと思ってもそうそう見られるモノではない。びっくりと同時に感動があるが、中身によりけりだなぁ。12月に急逝した岡田さんに宣言した「一対」続編に動きはじめることができる。


2020年1月27日(月)

 夢のなかで広島にいた。屋台にY君と並んで坐っている。とてもレアな食べ物(?)を頼むと女将は いいの? 大丈夫? 不安そうな顔で念を押した。案の定それを口にすることがぼくはできない。舌の皮を引き剥がすようなえぐい味がしたのである。女将は苦笑しながら普通のもの(唐揚げになっている)に変えてくれた。

 何十年ぶりにやってきた設定だったのにいつの間にかぼくもY君も20代のような若さに変身している。Y君のとなりに見知らぬ女性が坐った。探し歩いてやっとめぐり逢えたという風であった。ぼくは婚約者だと想像した。3人で繁華街に向かった。この屋敷の中を行けばずいぶん近道になるというので門扉をすり抜けた。するとそこはとても広いグラウンドだった。その向こうに連なる樹木のほかは夕暮れの空が広がるばかりであった。高いビル街など見当たらない。

 Y君と女性の後ろ姿を見送ったところで夢は終わった。その街が広島だったという根拠は何もない。その街は夢を見る本人の意識下に隠れている。いわば本人の思い込みに過ぎない。ある種の望郷であるのだろう。今日新しい枕が届いた。ぺちゃんこになったいままでのモノよりもふわふわとしてなによりも高い。生協で千円だったというが、これがまたちがう夢への一里塚なら、などと思ったのである。


2020年1月31日(金)

 コロナウイルスで世情が騒然としているさなか、ぼくは朝から居間に新しいカーテンレールを付けた。居間の窓には二重のレールがすでにあり、レースと布地のカーテンがつり下がっている。その用途は開閉できる窓を遮るためであるが、実はそのサッシ窓の上にはめ殺しの採光窓があるのだった。それをも覆うためのカーテンが欲しいとなったわけであった。

 二階から取り外してきたレールは捩れるように曲がっている。相当の骨董ものであった。我慢してほぼそのまま取り付けることにした。

 カーテンを付けて引っ張ると途中で吊り下げるクリップがカーテンもろともに抜け落ちた。これはレールが曲がっているためにその付近の溝がひろがっているためだった。さらに骨董ものであるがゆえの弱点は両端のストッパーがないことだった。カーテンをしめるとき勢い余ってはずれ落ちてしまうのだった。セーターの半脱ぎ状態のようであった。

 ともに応急措置を施してなんとかミッションを完了したのは外が暗くなってからだった。一日を費やして大技の家事をひとつこなしたという感じだった。家のなかは平和なものである。



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