日 録 おくればせの薫風に吹かれて


2020年5月1日(金)

 ふるさとに住む従兄弟が中学校の修学旅行の写真を数枚送ってくれた。いまや56年も昔のこと、顔は覚えているがほんの数人を除いて同級生の名前が思い出せない。手元に卒業アルバムでもあれば名簿を見ながら記憶を掘り起こすことができるだろうが、ふと横道に逸れて記憶しているいちばん古い思い出は何だろうかと考えた。
 
 悪さが過ぎて家に入れてもらえなかった学齢前、この悲しい記憶はおぼろげだが、祖父が死んだときのことはよく覚えている。小学生の1、2年生のころだったのか「急いで帰れ」と言われて2キロの通学路(山道だった!)をさして急ぐ風もなく歩いている自分がいる。

 次に奥の間に横たわった祖父の唇に水をしみこませた脱脂綿を当てている絵である。まわりの人が「クニオはまだか」と騒いでいる。クニオというのは腹違いの兄である。クニオが祖父の臨終に間に合ったところで記憶は途絶える。

 祖父が息を引き取った奥の間の鴨居には火縄銃が架かっていた。祖父が新しい物好きで、機械も植物も家のまわりは新奇なもので溢れていたというのはのちになって折々に聞かされたことである。新奇と火縄銃がどこで結びつくのかは依然謎である。

 ところでこの祖父は従兄弟にとっても祖父である。今回従兄弟が送ってくれた写真の中にかつての自分を探すのに苦労したスナップ写真が1枚あった。従兄弟の肩にもたれかかってひとりそっぽを向いているのがおそらくそうだろうと見当をつけた。こんな自分は現在から思えば想像を絶する姿だ。


2020年5月2日(土)

 きのう梅の実を採った。例年大半が大きくなる前に落ちてしまう(生理落下と言うらしい/木が古くなったせいか)のでその前に収穫してしまおうと配偶者が考えたのである。だから小梅である。

 横に伸びた枝は手を伸ばせば届くところに成っていた。上に伸びた枝の実は胸の高さほどの木の股によじ登ればとれそうだった。太い幹の下の方の瘤に足をかけ、高いところの小枝を両手で握りしめ、自身の身体を持ち上げればいいのだ。ところが何回か試みるが持ち上がらない。左足が股に掛かる前に力尽きる。助走の力も懸垂の力も足りないのであった。

 高い枝を切るはさみを持ちだす仕儀となった。あらかたとり終わった頃木の股に登れなかったのが癪で、悔しくて、配偶者が止めるのを無視して再度挑戦してみた。すると身体が持ち上がって腕の力で左足が股に掛かったのであった。

 面目施したり。家に入って、何キロあった? と聞けば850グラムと答える。キロにはわずかに及ばなかったか、と思った。


2020年5月5日(火)

 命懸けの恋? 恋は命知らず?

「県によると、実家に帰省していた20代の女性は知り合いの20代の男性と買い物に出かけたり、車に乗ったり、ゴルフをしたりと三日間行動を共にしていた。自身の感染がわかった翌日に高速バスで都内の自宅に戻った。戻った日を感染判明の前日となぜ偽ったのか理由はわからないと発表した。」知り合いの男性こそは濃厚接触者である。その後感染が確認されている。

 カミュの『ペスト』には都市封鎖されたオランの町に取り残された新聞記者が登場する。彼は愛する人の元に一刻も早く戻りたいとオランの街を出るために奔走する。街道を監視する門番に頼み込んでもう少しというところまで行くが失敗する。何度か挫折したあとで彼は街にとどまって医師らとともにこの不条理な疫病と闘うことを決意する。愛という名の「幸福」をいったんあきらめ「抽象」の世界へと入っていくのであった。

 20代女性と小説のなかの新聞記者を比べるつもりはないが、ふと冒頭のような疑問を思い浮かべたのである。他の報道によれば感染しているのに自宅に戻ったのは「飼っている犬が心配だった、などと述べている」。帰省の理由については「彼が恋しくて、逢いたくて」とは言っていない。

2020年5月8日(金)

 初めての真夏日だった数日前、出勤直後職場で体温を測ったところ36.6度あった。起き抜けに家で測るのだがこの日は忘れてしまった。いつもは35.4〜36.2の間で推移しているので、すこし高くないかと心配になった。

 同僚の欄を見渡すと36.6度の人はひとりいた。あとはほとんど36度を下回っているか、せいぜい36.2くらいである。身体の異変はないので、こんなことも忘れて働いた。そして家に帰ってから再び測ってみると36.9度に上がっていたのだった。

 翌朝、ベッドの中にいるぼくのおでこに手を当てた配偶者は「冷たい!」とひと言叫んでキッチンに消えた。起き出してすぐに体温計を腋の挟んでみると35.4度。あの36.9度はなんだったのか。すなわち気温と体温との関係について考え込んでしまった。恒温動物から変温動物へと変わっていたのだろうか。すると冬眠もありか、などと。


2020年5月10日(日)

「母の日」であるので配偶者にケーキを買っていこうと帰途思った。実母と義母はもういないが配偶者はいまや妻というよりは「第三の母」ではないかと思ったのである。

 午後6時過ぎ近所にあるコージーコーナーの工場直営店に立ち寄った。4、5人のお客さんはいたが商品ケースのなかはほぼ空っぽ状態であった。クッキー類とシュークリームは残っているようだったが目当てのケーキはひとつもない。何も買わずに店を出てさらに家に近いセブンイレブンに向かった。ここにもいつも何個かあるチョコレートケーキがない。仕方ないので新発売・シフォンケーキというのを買った。

 思いつくのが遅すぎるのでいつもこういう仕儀となる。私はあなたを産んだ覚えなどありませんよ、と半畳のひとつも入れられるかと思ったら、新発売のプレゼントをニコニコしながら受け取った。「よろこんでくれてありがとう」と心の中で呟いた。昨夜福岡の孫にも同じ文句を書いて送ったのであった。


2020年5月17日(日)

 仕事が変わり職種が変わっていつしか十年が経っている。これなども「十年ひと昔」の類なのだろうか、近頃前の生業(塾講師)の夢を見なくなった。いまは夢も現も(寝ても覚めても)「倉庫内仕分け作業」である。失敗したり、時間に間に合わなかったり、不平をこぼしたり……見たくて見るわけではないので、たこ壺に入り込んだような窮屈さがあり、大いに辟易するのである。

 学生になりたての頃、現代政治史の講義のなかで教授は「だいたい10年単位で時代をくくっていけますよ」と言ってのけた。当時は70年安保の直前だったのでよほど腑に落ちたとみえこの言葉だけはいまもって覚えているわけである。それに倣えば80年、90年、2000年……という風に「くくって」みたい誘惑に駆られる。見なくなった夢の代わりに記憶を掘り下げていこうというのである。

 そしていま2020年、『新潮』6月号は「コロナ禍の時代の表現」という特集を組んでいる。疑心暗鬼ながらもひとつだけ、金原ひとみの「アンソーシャル ディスタンス」を読んでみた。「心中」に向かう若いふたりの「道行き」、その人間肯定、明るさに圧倒された。次の10年はもう総括できない身かも知れないが、日一日の希望は欲しているわけである。


2020年5月19日(火)

 12日夜、となり町の畏友・久末一男さんが亡くなった。10数年来続けてきたブログの最後の記事は「きのう、結婚記念日」である。こんな風に結ばれている。

「あれから49回の結婚記念日を迎え、同士として生きてきた。こんな形で顔を見られないのは今回が初めてだ。私は祈る。来年の4月29日まで生きたい。これまで言えずにいた言葉を伝えたい」

 男気があって、ちょっとシャイな面もある彼らしい文章だと微笑ましく読んだが、それから20日間更新がなされなかった。18日になってそのブログにご子息が永眠したことを伝えてくれた。それを読んでぼくははじめて知った。

 いろいろなことが交錯するが、いちばんの思い出は深夜近くに掛かってきた電話である。「見てもらいたい文章があるのだがいまから行ってもいい?」と言うのであった。彼は高島平の自宅から緩い坂をのぼった先にある四ツ葉町のぼくの一軒家まで自転車でやってきた。

 お互い30歳になるかならずの頃である。どんな文章だったか、おそらく仕事がらみの重要な文書だったと思われるが、門外漢のぼくに真っ先に報告に来てくれたのだった。できあがったのが嬉しかったのにちがいない。それだけ苦労した文章だったのだろう。顔が紅潮しているのがわかった。自転車をこいできたせいだけではなかった。

 このことを思い出す度にその後ずっと少年の心を持った青年ということばが頭を離れなかったものだ。純粋な人だった。ぼくはもう少しとどまって、生きることを考え、またことばに替えていこうと思う。まだそちらには行けませんが、久末さん、まずはゆっくりとやすんでいてください。


2020年5月21日(木)

 岐阜・長良川の鵜飼いを見物したことが一度だけある。老舗割烹の川縁りにせり出した桟敷だった。漁り火が川面に揺れるのどかな一夜として記憶に残っている。鵜が鮎を吐き出す場面までは見られなかったように思うが近ごろ「うがい」の語源はこれだと聞いてびっくりした。

「手洗い・うがい」というのはインフルエンザや新型コロナ予防の一連の動作だと承知していたが、うがいは効果がないというのが知るきっかけだった。調べると細菌は長く口にはとどまらない。口の中を除菌するためには24時間ずっとうがいをし続けねばならないなどと難儀なことが書いてある。よく聞いているとテレビなどでもアルコール消毒・手洗い励行は言うがうがいは言わなくなっている。なぜうがいというのだろうと関心が派生して鵜飼いに行き着いた。

 長年の習慣なので、手洗いだけでは物足りない。うがいを止めるわけにはいかない。これからも鵜を真似てうがいをすることを決意した。するとうがいの効用がないわけではないというある歯科医師の言葉に遭遇した。すなわち、口の中を清潔に保つことにより免疫力が増します、と。なんか救われたような気がした。


2020年5月25日(月)

 いつもより1時間早い午前4時に目が覚めて、われもすなり、と配偶者のスマホを借りて4歳の孫娘宛のメッセージを吹き込んだ。前日配偶者がLINEで孫娘とやりとりをしていたことをうらやましく思い出したからである。まさか午前4時に息子のスマホを鳴らすことはできないので、いま吹き込んでおいてお昼に送ってもらおうという心づもりだった。そういう機能があるはずだ、あるにちがいないという思い込みで、18秒間起き抜けのガラガラ声を入れた。

 ところがこのメッセージ、即座にむこうに送られてしまった。さすがLINEだと関心すると同時に悔やんだ。慣れないことはやるモノではない。すぐに既読とはならなかったようだから何事かとびっくりさせはしなかったようであった。

 半日後にわがガラケーに「ニコニコしながら何度も聞いていますよ」という返事があった。午前4時のヴォイスも捨てたモノではなかった。


2020年5月26日(火)

 3ヵ月に1度の通院。毎回2種類の薬を91日分もらってくるがひとつは一日分余り、もう一つは足りない。几帳面に飲んでいるつもりだが不思議なことである。お薬手帳で調べてみると91日分処方はこれまで7回あった。637日、約一年半である。どこでずれたのかいまとなっては思い出せないのは当たり前か。

 血液検査の結果はいつも通りだったが、「薬を飲まないでこれだから…」と先生が言い出すので「朝飲んできました」と答えた。

「あれっ、飲んできたの? できれば飲まないで調べたいのですよ。言わなかったっけ?」
「聞いたけどきっと忘れてしまったのです。」(通院日の朝も毎回飲んでいました。融通の利かない性格なもので、とは言わなかった。)
「でも、いいですけどね。検査数値は上等」

 薬においてこの体たらくであった。診察をオンラインで処方箋をもらう、という手もあったのだろうが敢えて出かけた。おかげで昼すぎに帰ると除菌除菌、シャワーシャワーですっかり一日分の仕事を終えた気がした。身も心も疲れた。


2020年5月30日(土)

 夕刻窓を開けたままベッドに横たわっていると風が途切れることなく吹き込んできた。おくればせの薫風であるのか、日中の暑さを蹴飛ばすような心地よさ。この朝には、堀辰雄の「風立ちぬ」を唐突に読んでみたくなって文庫本をネットで注文していた。

「いつも一緒にいたいので」という触れ込みでアルバイト仲間に加わった「あのカップル」に対する想像力が尋常にはたらかない。仕事の中でカップルはほとんど一緒に動いている。広い倉庫のなかでふたりでラーメン屋でもやっているような気分でいるのだろうかと推察してみる。聞くともなく聞いていると個人的なことを話している風ではない。仕事がらみの会話のようにも思える。

 昼休みはふたり並んでそれぞれスマホをいじっている。時に外へ出て陽を浴びながらやはりスマホの画面を見入っている。帰りは狭い歩道を先になり後になり飛び跳ねるようにバス停まで歩く。歳の差24、もう一つのアンソーシャル ディスタンスである。「風立ちぬ」が参考になるとも思えないが読んでみよう。香気あふれる文章は愉しみである。

 


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