日  録  いま、対幻想

2020年6月2日(火)

 と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつかまったく時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異(ちが)った魅力を持ち出すのだ。私の身辺にあるこの微温(なまぬる)い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手を取っているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときおり取り交わす平凡な会話、(中略)

 ――我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、(後略)(堀辰雄「風立ちぬ」より)

 一つの主題が、終日、私の考えを離れない。真の婚約の主題――二人の人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互に幸福にさせ合えるか? 抗いがたい運命の前に静かに頭を項低(うなだ)れたまま、互に心と心と、身と身とを温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿、――そんな一組としての、寂しそうな、それでいてどこか愉しくないこともない私達の姿が、はっきりと私の目の前に見えて来る。(同前)

「あのカップル」、アンソーシャル ディスタンスに対する一つの回答たりうるか。


2020年6月5日(金)

「好事、魔多し」とはこのことかも知れない。朝10時ごろ、駅前のロータリーに着いたところで横に白バイが並んだ。

「西入間警察の(そのときは警部補とは言わなかったかも知れない)の小久保仁と言います。(ロータリーの入り口を指さして)あそこは一時停止をしなければならないところですが、お客さんは(これもヘンだ。きっとこんな風には言わなかっただろうが、そう聞こえる気がした)徐行はしていましたが左右を確認しただけで完全に止まっていませんでしたので、声をかけています。」

 さらに「ベテランになればなるほど、左右を見るものの一旦停止をしないのです。いま交差点に入るところでの事故がいちばん多いのですよ。これを機に気をつけてください。必ず止まる習慣をお願いします。」

 こんな教育的指導だけで終わらないところが権力の恐ろしいところである。「反則金7000円、点数2点です。一週間以内に納付してください。」近くで見張っていたに違いないと思うと口惜しさも倍加する。止まらなかった証拠を見せてください、と言う元気もなく、かといって完全に停まったかというとそうとも言い切れない。

 そのあと、やっと振り込まれた特別給付金を手に郵便局に行き、ついでに反則金も払った。すっきりしないね、と助手席でぼやく配偶者に「(魔は)早く忘れてしまうことがいちばんだね」と自分にも言い聞かせるように呟いたのだった。

 夕食後、薬一式とアホエンを飲んでしまった。いつもは朝だけの薬であり、サプリメントであるのに。やはり動揺は隠せなかったのか。


2020年6月6日(土)

 T字の交差点の上辺に店を構えている生花店、この前を通るようになって35年以上になるのに立ち寄るのは初めてだった。何の変哲もない店だが長く、細々と続いてきたという印象がある。それなりの理由があるはずだと思っていた。ましていまはコロナ禍で需要が落ち込んでいると言われている。

「どんな花を入れますか」
「お任せしますけれど、一週間後に月命日を迎える人な
のでその頃まで日持ちさせたいです」
「この白百合の花なんかどうですか。莟がこんなにあります、次々と咲いていきます」
「あ、お願いします」

 若奥様風、細身の、清楚なご婦人だった。いかにもフローリストに似つかわしい。ご時世故に配達してもらうことにして、先月12日になくなった久末さんに花を手向けた。


2020年6月9日(火)

 柿の木が天に向かってまっすぐ立っている姿を見て驚嘆した。葉が茂っているのは3メートルから上の部分である。まるでポプラの木のようだ。もし実が成ったらどうやって取ればいいのか。しかしこれはずいぶん身勝手な心配である。

 枝という枝を切り落としたのはたしか17年の秋頃であった。それは強風で折れて道行く人に怪我をさせたら大変だからという理由だった。本当は太い幹も地上1、2メートルを残して伐ってしまいたかったがはじめて手にしたチェーンソウの扱いに疲れ果てて作業を終えた。おかげで柿の木は生き延び、こんどは横に枝を張ることはやめてひたすら上に上へと自身の力で伸びていったのである。

  あれからもう3年が経っている。もうひとつ伸び続けているのが玄関のゴムの木だった。こちらはいまや天井に届く勢いである。毎日見上げながらいつの間におまえさんはと声をかける。月日の経つのが早く感じられるのはコロナ禍のせいばかりではないと思い知らされる。


2020年6月12日(金)

 関東地方もきのう梅雨入りしたそうで、今日は朝から、ゴドーを待ちながらではないが、雷雨を待ちながら過ごしていた。夜9時になってやっと雨が降り始めたが雷は鳴らなかった。雨もその2時間後には止んでしまった。本格的に降るのは明日午前だそうである。

「ながら」つながりで、『夷狄を待ちながら』を連想して、ついには再読を思い立った。ところがのクッツェーの文章(土岐恒二訳)が頭に入ってこない。というよりもこの主題からぼくの脳はあまりにも遠くなりすぎている。でも読み通さねばならない。コロナ禍、黒人差別など世界は不条理に満ちているからだ。


2020年6月16日(火)

 お昼何にする? と訊かれたので「熱っつい中華そば」と答えた。冬によく食べた(横浜○○亭のという謳い文句の)冷凍食品を思い浮かべた。こんな真夏日が続くようになる前にはざるそばとかとろろそばとかを食べたくなっていたはず(現に食べた)のに、今日にかぎってはそんな気分ではなかった。さらにだらだらと汗を流しながら食べるしかないだろうと思った。二日酔いを cure するための「迎え酒」みたいなものである。

 予想通り全身から汗がいっぱい出た。冬の場合と少し食感はちがうようだった。なかから燃えてくるのが冬の味だとすれば、夏の味はなかに沈潜していくような感じがあった。発想は正しかった、と大満足。

 だが、これはぼくの独創ではないことに気付いた。その昔、田町の印刷所に出張校正に週一回通っていた頃、帰りに立ち寄るラーメン店で編集長は夏も冬ももやしそばを食べた。M字はげの額にたれる汗を光らせながら美味そうに食べていた。もちろんぼくも真似をして病み付きとなったのだった。そうするとこれは先祖帰りみたいなものであるのかも知れない。

 いまはもうかなり高齢になっているはずの専門紙の編集長、夏はこれにかぎるね、と1、2度は蘊蓄を傾けたかも知れない、それにしても汗を拭うハンカチがいつもきれいに折りたたまれて、色鮮やかであった。おしゃれで粋な江戸っ子だった。幼い頃の小鳩くるみにピアノを教えたことがあると言っていた。(ともあれ熱もので暑さを cure!)

 
2020年6月23日(火)

 29歳の女は高い位置の商品を取っているぼくのそばをすり抜けて別の部屋へと走り去った。ほどなく53歳の男とともに戻ってきた。男は女のために背をいっぱい伸ばして商品を降ろしてやった。

 1トン近い荷物をハンドリフトで運んでいる女を助けるためにどこからともなく男は走り寄ってくる。またあるときはひとつの作業をふたり並んで行っている。倉庫内をそぞろ歩きしているように見える。われらがひとりでやることを協同作業にしてしまう。仕事の私物化とも言いうるしわざである。職場のなかは二人にとって「アンソーシャル ディスタンス」の場所である。

 付き合いはじめて3年半(最近籍を入れたらしいが)それでなお「いつも一緒にいたい」とはどういうことだろうか。互いに支え合わねばならない余程の事情があるのではないか。その事情とは、愛などという抽象でなく万人が納得できるものだろう。たとえば、女の方に対人障害のようなものがあって保護者が必要である、とか。しかしそんな風に見えないのでこれはないだろう、などなど。つまりは謎が解けない

 下世話な関心である。謎を解く義理も謂われもない。なにより本人たちにとっては余計なお世話であるだろう。もっとソーシャルであれとお説教する立場にはない。ただわからないものはわからない、腑に落ちないだけである。

 昭和の時代名曲『いつでも夢を』という唄が耳の奥で響いている。

  
2020年6月26日(金)


 仕事が終わると「いまから帰ります」、いつも同じ文面のメールを配偶者に送る。すると数分以内に返事が返ってくる。こちらもたいがい同じ内容である。スマホのせいか絵文字(スタンプ)が多用されている。

「窓開けよろしくお願いします(コロナ対策)。居眠り厳禁。よそ見厳禁。気を付けてお帰りください」こんな風である。たまに「信号待ちにキョロキョロしない」「余計なこと考えるの禁止」などが加わって、苦笑することもある。クセを熟知している者ならではの忠告であろうか。

 9年前の夏、残業が伸びに伸び、そんなときにかぎって連絡を入れなかったことがあった。極度の心配性のために配偶者はおおいに気苦労をした。以来このような「カエルコール」が常態化したのである。最近では数分過ぎても返信が来ないときなどはこちらが心配するようになった。お互いどこで何が起こるかわからない歳になったということもあるかも知れない。「どうした?」と訊けば「あれっ、メールに気付かなかったわ」とくる。こういうオチで済んでいるから、日常はまだまだ平穏である。

 クッツェーの『夷狄を待ちながら』(土岐恒二訳)には、故地に戻ってしまった夷狄の少女との記憶を独房で思い出す老いた民政官の述懐のなかには「数少ない懇ろな交歓を思い起こそうとしてみるが、私がその鞘にわが身を納めた他のすべてのあたたかい肉体の記憶といたずらに混同するばかり」という生硬な文章が置かれている。

 この前後を読むうちに上のようなことを思ったのである。学生の頃地方新聞文化欄の同人雑誌評で「生硬な文章で青春の鬱屈を批判的に綴る作品」などと言われたことがあったような気がするが、いまカエルコールとクッツェーを比べてみれば、品格も階梯もずいぶんちがっていると思い、文章そのものの奥深さに身も引き締まる。


2020年6月30日(火)

 スーパーに隣接した蔦屋に買い物を済ませてから入っていくと『100分で名著 吉本隆明 共同幻想論』(著者は日大教授・先崎彰容)という本がうずたかく積まれていた。迷わずに手に取った。来週からEテレで4回にわたって放送されるNHKテキストだという。コロナ禍、SNS過剰の現代にどういう人間関係を作っていくべきかを『共同幻想論』を手引きに指南しようという意図にみえる。とにかく一気に読み終えた。

 1968年出版と同時に飛びついた口であるが、当時どんな読み方をしていたのか委細を覚えているものではない。ただ、対幻想、関係の絶対性という「概念」はいまも心の奥に残っている。この本で示されている説明とは必ずしも一致しないのでずいぶん我流の読み方をしていたにちがいない。この本もそういう意味では現代に引き寄せて恣意をみなぎらせているともいえる。こんな風に終わっている。

しかし、そのしんどさをことばにしようとした時、私たちは意外にも『共同幻想論』の近くにいるかも知れない。まさにそのとき、刹那的な共同体に飲み込まれない個人幻想を、手にしているのです。


  


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