日  録  姉からのメール

2020年9月1日(火)

 この歩き方、腹ちがいの次兄とそっくりだと気付いた。特に初動、方向を見定めるかのような小刻みの足の動き、歩き出すとせっかちなまでの早足、引きずるような足音。父方の親戚の叔母何人かを思い浮かべるとみな同じように歩いていた。両足とも割れた膝蓋骨を補強しているので全力疾走ができない身となってしまったが、この遺伝的な体質は変わっていないと思える。

 では、母方の遺伝的歩き方はどんなだろうか。姉は速い。並んで歩くとぼくは負ける。弟は身長180センチを越える堂々とした体躯でゆったりと歩く。2年前に亡くなった兄は性格はせっかちだったが、歩き方は悠々としていた。母方の叔父叔母は兄と似た歩き方だった。歩き方にまで遺伝情報が組み込まれているとしての話だが、なかなか判別は難しい。人それぞれの歩き方、などと言ってしまえばちょっとまた別の話になってしまう。難しさがいっそう募る。

2020年9月6日(日)

 昨夜遅い時間に姉からメールが来た。

「こんばんは。元気にしていますか? まだまだ暑いですね。私は暑い間にあなたの作品全部読みました。ゆっくりと他の人のも少し読みました。「石の枕」が一番印象に残ったよ。六作品ともいいのになんで?世に出ない?おかしいわ。熱中症にも気を付けてね。」  

 六作品というのは80年代から90年代にかけて『作品』『海燕』に掲載された小説のことである。掲載誌をいまだに持っていてくれるのは肉親とはいえありがたいことであるが、「再読」を思い立ったのは「暑さ」のせいだけではない。小さい頃「この人の名前読めるか? おさらぎじろう、というんやで」と教えてくれた文学少女だったにちがいない姉である。何年ぶりかで作品が載った雑誌を手に鎮守の神様にこっそりお詣りしてくれた姉である。

 今日仕事中に姉からのメールを配偶者に転送するとほどなく「ありがたいですなぁ、ファンは。」行が空いて「帰ったら肉を買いに行きたいのでスーパーに連れてって」と書かれていた。三年前の「一対」以来まともなモノを書いていない、そんな愚弟への励ましかも知れない。よーし、と思うのである。


2020年9月11日(金)

 読みかけの雑誌が消えてしまった。昨夜ベッドに寝転がりながら広げたもののすぐに寝入ってしまったのである。こういう場合普通は掛け毛布のなかに紛れているか、ベッドの脇に落ちているはずなのに、何回探しても見つからない。

 昨日の夕方置き忘れないようにと車を降りる間際にバッグのなかに入れた。バッグの中身はすべて配偶者が消毒してくれるので玄関先に放りだしたままにしておいた。寝る段になってバッグのまわりに見つけてベッドに帯同した。雑誌の名前は『図書』で四方田犬彦のはじまったばかりの連載記事を読んでいた。

 推理も探索も万策尽きた。なぜないのだろう。一日中この謎に向き合ってきた。反芻した記憶はもっと前のものかも知れない。不確かな思いに落ちるのは雑誌がベッドのまわりにないからである。


2020年9月18日(金)
 
 今日、明日が連休となった。同僚が有給休暇を取るために生まれた変則シフトである。その同僚の名前にちなんでアイ効果と呼んでいる。連休のあとには5連勤が控えている(通常は2勤1休3勤)ので、この愛(アイ)も功罪半ばであろうが、「新内閣誕生」(テレビニュースをみる気にもならない)よりもよほど明るい。

 評判の韓流ドラマ『愛の不時着』をこの3日間で第9話まで観てしまった。90分×9だから延べ810分になる。たしかに面白い。ニュースからの逃避のつもりがはまってしまいそうである。連休の功のひとつかも知れない。

 ほぼ1か月ぶりに湯船につかった。猛暑の日々を含めていままでシャワーで済ませてきたが思い立って風呂掃除に向かったのである。これも功か。どうでもいいことだが。


2020年9月25日(金)

 きのう、お昼の休憩時間に同僚からこれを食べてみて、と渡されたのが「カズチー」だった。

「くんせい数の子とチーズを組み合わせた、数の子屋こだわりの新感覚おつまみ。チーズのうまみとくんせい数の子のパリポリ食感がクセになります。」

 店頭では滅多に手に入らない、いまや大人気の食品らしい。こちらにははじめて見聞きする食品だが、食べてみると、食感はたしかに新しい。包装紙の裏を見ると製造・販売が北海道留萌市に本社のある「井原水産」とあった。聞き覚えのある会社である。

 折良く今朝、故久末一男さんブログ集『空』が届いたので、記憶を確かめるためにページを繰っていると2013年2月19日「奇縁」という記事を見つけた。長くPRの仕事にたずさわってきたこの古くからの友人の最後のクライアントが井原水産だったのだ。奇縁というのは、およそ27、8年ぶりに訪ねることを思い立った会社が、井原水産の創業者の銅像を作っていたことである。こんな風に結んでいる。

「人のつながりとは誠に奇縁なものである。それまで見えなかったことが突然分かる。なぜ、(かつてのクライアント)「立体写真像」の盛岡会長に会いに行ったのかが自分のなかですべて解けた。」

 カズチーにぼくが出合ったのは奇縁ではないだろうが、長い闘病生活のなかで希望を語って已まなかった久末さんをさらに心に刻むことができた瞬間だった。


2020年9月26日(土)

 昨日ゆうちょ銀行からゆうちょ銀行へ送金する必要があったので郵便局のATMの前にいた。5桁または6桁の振替番号(?)を知らなかったので店検索をタッチした。知らされていた店番号は039であるのに画面に出てきたのはキやサやセやナなど10個ばかりのカタカナである。ここから進めなくなった。何回か試みたあと窓口で訊くことになった。

 さっきのATMまで職員が付いてきてくれた。店番号のところでせを押してくださいと言われた。セをタッチすると漢数字が現れた。アラビア数字から漢数字への変換、このあたりに謎がありそうな気がしたが、その前に、なぜセなのですか、と訊いてみた。

 数字はゼロから始まり、濁点を取るとセですから。

 こりゃ、分からん。けだし名言。「わかりにくくてごめんなさい」と職員は謝った。


2020年9月29日(火)

 久末さんの遺稿集『空』(ブログ集)には1枚の写真が埋め込まれていた。彼が悪いウイルスにやられて何ヵ月か入院したあとの「励ます会」の折りのものだった。1999年晩秋のことである。右端に移っている人の名前は忘れているが、あとはよく覚えている。このあと写真の女性ふたりを誘って神楽坂の旧友の店を訪ねたからである。2年後には「まぼろしの店」と題して一文を草している。後半部分を引用すると、

 タクシーは皇居のまわりを走っていた。お堀のむこう側がよく見通せた。常緑樹がネオンの光りにきらめいて、こんもりとしたやま裾を走っている気分だった。大手門、北の丸公園を左手に見て、やがてタクシーは右に折れた。目指すは、神楽坂であった。
 
 賑やかな通りをそれて、緩い坂道を下った先の横丁に、しかし、「田舎舎」はなかったのである。別の看板が掛かっていた。ためらった末に、戸を開けて覗いてみた。消息を尋ねると「そんなの、わたしらには分かりませんよ」という返事である。けっして不親切な応対でないことに救いを感じる。不況の波に勝てなかったのに違いない、すると明日は我が身かと、そんな気弱さもあったのかも知れない。それにしても、閉めたという情報はどこからも入ってこなかった。どの方面にもよほどご無沙汰だったわけである。
 
 意外と急な坂道のメイン通りに戻ると、高台に建っている「ロイヤルホスト」に入った。コーヒーとケーキで、女性二人の話の聞き役に回る。途中、版画家の友人の携帯電話が鳴って、流暢な英語で話す様を夢のような気分で聞いていた。三人の誰にとっても、とんだ神楽坂となった。
 
 次の日、藤沢の友人に電話をしてカマタの消息は掴んだ。
 とともに、二歳の幼児を殺害した音羽の主婦が寺の副住職である夫に自首を勧められながら、自身も迷いつつ皇居のまわりを歩いたことを知った。そんな「ドラマ」が演じられたとはつゆ知らず、その12時間ほどあとに、酔いどれどもは皇居の夜景をこもごも褒めあいながらタクシーに乗っていたのだった。“まぼろし”の行き着くところは、そんな人生の暗礁に似ているということか。

 もう21年も前のエピソードである。藤沢の友人はこの何年かあとに急逝している。さらにいくつかの変化もあるだろう。心のことも含めて、どんどん迂闊になっていく自分がうらめしいこの頃ではあるのだ。

 


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