日 録 記憶を辿る
2021年2月2日(火)
今年は今日が節分で明日が立春である。正月に「笑門来福」を掲げた身なのに豆まきもしない、恵方巻も食べないでやり過ごすことになった。「福は内、鬼は外」のかけ声も、日常の覇気を呼び覚ましてくれないような気がしたからである。
日中、暖かい陽射しに誘われて庭に出て、プラムのふたつの木が芽吹いていないかどうかを確かめた。ひとつは何年か前に植えたものだった(品種は忘れた)。もう一本は去年植えたものであり、それは先の木が「自分の花粉では結実しにくい自家不和合性」というので、何年経っても実が成らなかったからである。今年は、お互いが受粉し合って、実がたくさん成るチャンスの春であるのだ。それが待ち遠しい。
2021年2月5日(金)
昨4日、立春の翌日に「春一番」が吹いたという。なんとも気(季?)が早いことであった。
子供に遺す言葉、というか、人生の教訓みたいなものはないの? と過日娘からやや詰問調に訊かれた。改めてそう言われてみれば……である。
亡き父母はそれぞれ「他人のふんどしで相撲をとるな」「ともだちは大事にしなあかん」と言った。これは立派な人生訓であった。いろいろな場面で、知らず知らず自分を律する基準としてきた。これらの戒めに背いている自身の行為には心が痛み、大いに恥じねばならなかった。
そこで、座右の銘のようなものがあった時期はないか、と考えてみた。乾坤一擲、不撓不屈、独立独歩、不言実行などの四字熟語が思い浮かぶが、勇ましすぎてだめである。つまり、季が遅すぎるうえに、身についていない。顧みて、訓示はつくづく似合わないと諦めることとした。
2021年2月14日(日)
仕事に行くことが唯一のアクセントの日々に少々飽きてきた。休みの日は食べて寝て過ごす。これもまた噴飯物だが、幸い傍らには本があった。李琴峰「彼岸花の咲く島」(『文学界3月号』)に挑むことにした。文体(言葉)に思いを潜めた意欲作で堪能できそうな予感がある。
まだ読み始めたばかりの今夜、スマホをいじっていた配偶者が誤って福岡の息子に電話をしてしまった。スピーカー越しに、もしもし、どうしたの、なにかあった? と気遣う息子の声が聞こえる。スピーカーのせいか、なかなか会話にはいれない。
配偶者は昼間にも、アルバイト作業中に電話をかけてきた。このときは「電話くれた?」といった。勘違いだったが、何ごとかある、とぼくをびっくりさせている。今夜は逆の立場でしきりに謝っているが、そのうち近く五歳になる孫娘の声が混じるようになった。おお、とこちらもマイクに向かって参戦した。歯磨きの途中に電話のそばに駆けつけてきたらしい。歯磨きを済ませると戻ってきて「また逢おうね」などと言う。まだ話せない妹も電話口で、あーあうーう、としゃべってくれた。ハプニングは思いがけずアクセントに変わった。満足した。
2021年2月18日(木)
岡田幸文さんの『追悼文集』に載せるためのプロフィール(近況)をこんな風に書いて送った。自分を鼓舞するためである。
《1949年生まれ。発表した小説は「行逢坂」(『作品』)「京子の部屋」「女権現」(『海燕』)など。岡田さんとの約束を果たすべく、連作「一対」(MP・WEB版、2017年)の続篇(最後の小説?)を構想中。》
ところが一夜明けてみると(最後の小説?)の件が気に入らない。しょう(背負う)っている感じがする。訊かされた人は「は? それで」となるだろう。書いたあとで言えよ、ということである。縁起もよくない。カットしてくれるように連絡した。
帰路運転しながら10キロも経った頃決まって「お母さん」と呻くように呟いている。あと10キロほどで自宅である。その実体が実母か配偶者(子供のようにそう呼ぶことがある)か、孫娘にとっての母親(息子の嫁さん。この場合は孫娘の気持ちになっている)かわからない。4、5年前にも、こんな体験をしたのだったが、そう思えば思うほど進歩がない。ないということはまだまだ途中だということでもある、と云々。
2021年2月19日(金)
銀行の有人店舗へ。駅前からまっすぐ伸びた道路を約100メートル、店舗裏の広い駐車場に車を停める。ATMコーナーと有人窓口への入り口が別々になっている。内部でも往き来ができないということである。
午後2時を少し過ぎていた。あまり混んでいないが、床面に引かれたたくさんの、ソーシャルディスタンスを促す緑の線がどことなく物々しい雰囲気を煽ってくる。受付の女性に用件を告げると近くの書面台に案内された。(自動車税の)還付用紙に日付と住所、名前などを書かねばならないのだった。名前のあとに印鑑がいる。日付の欄では2を3と書きそうになって慌てて塗りつぶした。ただの点(・)のようなのに、ここにも訂正印がいりますと言われた。まだ印鑑は生きている。
番号札を渡され、腰くらいの高さのフェンスをすり抜けてやっとロビーに入った。昔のような開放感はない。狭いところに押し込められたような感じであった。待つ間に、もし銀行強盗が乱入してきたら逃げ場がないなぁ、などの妄想に駆られた。いまどきはATMを使った振り込め詐欺である。お客を人質にするような荒技は流行らなくなっている。
するとこれは70年代への郷愁と似ているのだった。「明日に向かって撃て」や「ボニー&クライド」にドキドキした世代の妄想である、という凡庸な結論にいたる。それから10分で用件は済んだ。あっという間だった。
2021年2月21日(日)