日  録  痛みの残滓

2021年3月2日(火)

「それじゃアベレー帽でもかぶって長髪にでもするか」
「きっと描くことが好きなんでしょう。弟さんが絵の道具をくれるくらいだもの。わたし、絵を描く人好きよ」
「いいだろう、描いてみよう」(色川武大の『狂人日記』より)

 通院日だった。何年ぶりかで診察前に血液、尿、心電図、それに肺のレントゲン撮影が組み込まれていた。流れ作業のような一連の検査を終えてから診察が始まるまで、けっこう密な待合室で読んでいたのが1988年刊の『狂人日記』である。この部分の引用を思いたったのは昨夜のこと。音楽や絵の描ける人はうらやましく思うのでこの会話はストンと腑に落ちた。余韻に浸ったまま病院に来たわけであった。

 検査結果を眺めて先生は言った。よし、すべて誤差の範囲、しかし胸の映像だけは気に掛かる。いまは不透明肺と言われるものだと説明された。「これを見た以上医者としては放っておくわけにはいきません。何もなければそれで安心なので早いうちにCTかけましょう」「自覚症状はないのだから、まぁ2か月後の通院の前でもいいや」かくして来月下旬CT検査となった。

 問題はなぜ不透明肺が出たのかである。思い当たったのが肩の関節に膿疱ができる掌蹠膿疱症という30数年来の宿痾のことである。このところ憎悪期に入っているのか上げ下ろしの度に痛いばりか、じっとしていても痛い。お医者さんにそのことを言えば良かったと気付いたのは家に戻ってからだった。仮にそれが原因ならば……まぁいいか2度目のCTスキャン、行くしかあるまい。


2021年3月5日(金)

 ぼくは全力疾走ができない。50メートル先でパン(定期的に差し入れてくれる)の入ったクレートをトラックから降ろしているSさんを目撃、手伝いたいが手を振って感謝を伝えるだけにとどまった。そのとき車輪にビニールが巻き付いていることを発見した。

 教えてあげなければ、とあとを追った。追いついたのはさらに50メートルほど先、バースに車を付ける寸前である。「さっき路上に畑から飛んできたような大きなビニールを踏んだんですよ。やばいと思ったときはもう遅かった」それは引っ張ってもとれなかった。車軸に幾重にも巻き付いていた。一度車体の下に潜り込んだSさんは運転台に戻って道具箱からペンチを取り出し、ふたたび潜った。そばに立っていただけで何もしなかったが、少しは役に立ったと言えるか。

 なぜ走れないかというと、膝の皿を両方とも割ってしまったからである。2010年の1月に左、翌2011年の暮れに右であった。ともに蹴躓いて全体重を膝で受けてしまった。1回目のとき何が起こったかすぐに分かった。その何年か前、大雪の降った日に教室の前で雪かきをしていた塾長が転んで同じように骨折したからである。当時、目の前で目撃し、病院まで同行したぼくはこんどは自分の番か、と観念したものだった。

 何ヵ月もかけてリハビリに励んだつもりだが、駆け足ができなくなっていた。台車などに手を添えてならばかなり早く走ることができる。田舎では老婆はすべからく乳母車を押して歩いている、と聞いておおいに納得した。


2021年3月12日(金)

「いつまではたらくつもりですか?」70歳になったばかりの同僚は72歳のぼくに伺いを立てるようにに訊いてきた。「ウーン! からだの続くかぎりですかね。あと、2年か、3年か、しかし、いつ、突然に…」「休みの日なんか一日中ぐったりですよ、最近は」会話は長く続かなかった。

 左肩甲骨あたりの関節の痛みが已まない。仕事中はどこに消えるのかほとんど感じないものの、夜ははげしい。悩んだ末に、ついには頓服に手を伸ばすのである。そのおかげで朝まではなんとか持ちこたえることができる。かつてなら数日で已んでいたのに今回は一週間にも及ぶので、いよいよ抜本的に解決を、と思わないわけではない。

 このところの暖かさにつられて龍眼の鉢植えを外に出した。ほとんど枯葉のみと化していたが、かき分けてみれば、奥に緑の葉が10枚ほど残っていた。よかった。春はいいものだ。


2021年3月19日(金)

 この関節痛は、冷やすがいいか、温めるがいいか。ロキソニンを飲めばすぐに効いて痛みは消えるが、5、6時間後にはまたぶり返す。このときが辛いし、こういう繰り返しではそのうち薬(化学)依存症になってしまう。そこで「物理的」に痛みを消す方法を探り出したのである。

 手ぬぐいにくるんだ保冷剤と貼らないカイロを交互に、あるいは同時に患部に当てて試している。まだ結論は出ていないが、ひとつ分かったことは、数分にわたる衝撃(痛みの大波)をじっとやり過ごすことさえできれば、あとに寛解にも似た喜びがあるということだった。その大波を耐えるためにどちらも有効だった。

 こんなヒマなことをやるのは邪道である。早く病院へ、という声がきこえないわけではないが、それをためらうのは治すために懸命だった30年前の記憶である。原因をさぐるために歯や鼻や扁桃腺の検査をやった。「これは治療じゃないですよね。治療ならば我慢のし甲斐があるのに」と医師に訴えたことを覚えている。その大学の先生でもある医師は優しく笑って「もう少しの辛抱ですよ」と励ましてくれた。しかし原因を特定することはできなかった。

 その後、職場近くの病院に1年以上通った。ほとんど対処療法だった。抗生物質が中心の大量の薬を飲み続けるうちに、ある日突然何もかもが嫌になった。完治の見込みがないこの難病(掌蹠膿疱症)を全身で飼い馴らしていこうと思った。その判断のつけがいま回ってきたとは絶対思いたくない。30年は決して短い年月ではなかったからだ。


2021年3月23日(火)

 庭にスズランが咲いていた。近所の人が自身が作ったほうれん草をたくさん呉れた。もうひとりの隣人は菜の花を持ってきて呉れた。ほうれん草は鉄分不足と言われ続けている者にはありがたい贈り物だ。菜の花はあの苦みが恋しい。苦み走った男にはついに成れなかったが、これは大好物である。

 100円ショップDAISOでお風呂の掃除ブラシを(配偶者が)買ってきたので、掃除を始めた。鼻歌が出た。「カトレアのように派手なひと、鈴蘭のように愛らしく、……みんなみんなどこへゆく……」(「街に花咲く乙女たちよ」)という往年の歌である。そのうち「ピッカピッカお風呂はたのしいね。お風呂そうじはたのしいね。ああ、ピッカピッカだね」という歌詞に変わった。最近送られてきた動画のなかで孫娘が歌っていたのだった。どうやら即興のようだが頭の中にこびりついているのは身びいきか。愉しい休日だった。

2021年3月31日(木)

 関節痛について考える。現在進行形の痛みと、最前の痛みの記憶。どちらも痛いのである。

 元に痛みは消えた(はずな)のに、後頭部に残滓が。副反応に明記してあるが痛み止めを飲んで頭痛が残るとは厄介なものである。




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