日  録 「カミングアウト」 

2021年4月2日(金)

「かたわらで横になっていると生きているときのまんまだ。穏やかな寝顔だったよ。」
 
 明け方に戻った母は言った。妹(ぼくには叔母)の嫁ぎ先のおばあちゃんが亡くなったときである。もう60年近く前のことだが母のことばがふと甦る。当時は通夜に夜伽という習慣が残っていたのだろうか。そんな疑問とともに顔が思い浮かぶ。小柄で丸顔、集落のおばあちゃんはみんな同じような顔をしていた。一様に子供に優しかった。

2021年4月5日(月)

 明け方Sと婚約する夢を見た。Sは実在の誰かに似ていた。特定しようとすると別の誰かにすり替わった。また、Sは高校生くらいの女の子だった。どんどん若くなっていくようにも見えた。最初はおとなしく助手席に坐っていたが、近くの駐車場にいったん車を止めると降りてスタスタと歩き出した。

「図書館で本を探してくるから、そこで待ってて」と言い置いて石の門の向こうに消えた。石の門から出てくるときには連れがいた。この子もどこかで見たことがある。すぐに分かった。Sのお姉ちゃんだった。もうふたりとも小学生のようである。すると婚約というのはとんでもないミスマッチだったことになる。

 後部座席にふたりを乗せて家まで送り届ける途中、小さな川沿いの道に入った。まばらに建つ民家の横をすり抜けるとき道の真ん中に物が散らかっていた。何だろうと確かめる間もなく車はそれらを轢いたか、跨いでしまった。バックミラーに大人と子供のふたりが映った。ままごと遊びの道具だったらどうかこわれてませんように、と祈った。


2021年4月6日(火)

 朝、マイナポイントの予約・申込をやろうと思った。パソコンにはカードリーダーがないので配偶者のスマホを借りた。YouTubeの解説をパソコンで視聴しながら作業を進めていった。マイナンバーカードの読み取りや決済カードのID入力などいくつか難所があった。1度は諦め、再び挑戦してやっと紐付けができた(ようだった)。のべ1時間半ほどかかった。NetflixやYouTubeをスマホで見るのを楽しみにしている配偶者はその間お預けをくった。

 昼すぎに配偶者のカードにも、と試みた。こんどは「4桁の暗証番号」をうろ覚えのままに続けて打ち込んでしまったので、「市町村の窓口で暗証番号の再設定を」というエラーコードが出た。悔しくて、2時間後に市役所に立ち寄った。再設定を終えたあとロビーのマイナポイント専用コーナーで予約・申込をしてもらうことにした。ここでは10分くらいしかかからなかった。こんなときも先達はあらまほしきなり、というのかなぁ。こちらは電子からどんどん遠く、疎くなるのみである。


2021年4月13日(火)

『いつかの夏−名古屋闇サイト殺人事件』(大崎善生著)の直前に『木漏れ日に泳ぐ魚』(恩田陸著)を読んだ。前者は小説家によるノンフィクション、後者は純然たるフィクションである。感動の質もずいぶん違うものがあった。

 前者は2007年に実際に起こった殺人事件のドキュメント。金目当ての3人の男に帰宅直前に拉致され、車の中で殺害された31歳のOLに光を当てて、このやるせない事件を描いている。どうしてこの娘が、と何度も涙を流し、闇サイトで集まった犯人たちに怒りを覚えた。不条理な人生は誰にでも起こりうるが、特定の誰かしか遭遇しない。しかし読む者は人間存在の極悪な部分をみせられ、その恐ろしさに絶句する。なぜなら「事実」だからだ。

 後者は、ありそうなことだけれどもまずあり得ないだろうなぁという「事実」が次々と明るみに出されてくる。なにこの珍百景(こじつけ)と思いながらも読んでいけるのは表現の力である。それは「人間の真実」を穿っていく。実際に起こりうるかどうかよりももっと大切なものは言葉だという気がする。言葉が臓腑に届くときにリアリティを持つからである。

  事実は小説より○なり……などと言うけれど、侮りがたいのは言葉の力である、と思い知る読書体験だった。
 

2021年4月18日(日)

 エッセンシャルワーカーとは看護や医療、またライフラインを維持するために(日常生活に不可欠な)現場で働いている人たちに対して、尊敬の念を込めた呼称であるという。大半はかつてブルーカラーなどと呼ばれていたひとたちである。その対義語がホワイトカラーであったのだが、コロナ禍にあっては「エ・ワ」の対義語はリモートワーカーとなる。

「エッセンシャルワーカー以外の方は東京に来ないでください」と都知事は懇願する。


2021年4月20日(火)

 西宮在住の畏友に「こんなご時世のせいか,肩のこりそうなものは避けてるな」と勧められたもののひとつが奥山景布子の『江戸落語事始 たらふくつるてん』(中公文庫)である。どこまでが史実でどこからが想像の産物かなどと考えるのはそれこそ野暮の骨頂であった。時代の波(綱吉、柳沢吉保の悪政が続く、1680年〜1697年)のなかで「仲間たち」と共に自分の道をつらぬく友情と人情に満ち溢れる物語であり、登場人物が有名無名を問わずみな「善良」なのも読後感を爽やかなものにしてくれた。

 上方落語協会編の『古典落語』(角川文庫版 全10巻、別巻1)がいまも本棚に残っている。月々の配本を待ちかねて買いそろえた覚えがある。奥付をみると昭和49年から50年にかけての刊行とある。黄ばんで再び読むには厄介な本となってしまったが捨てるに捨てられない。

 当時ぼくには同人誌をやっている「仲間たち」がいた。文芸同人誌などというものがそろそろ時代に置き去りにされるようになる端緒に当たっていたが、ぼくらはそれなりに懸命だった。『たらふくつるてん』は畏れながらそんな過去と重なって読んだにちがいない。大いに感動した所以であった。


2021年4月23日(金)

 今日は2度目のCT検査が入っている。昨夜、はじめてのCTはいつだったかを思い出そうとした。ついこの間のことのような気もするし、もうずいぶん前のような気もする。CTスキャンに行き着く経緯ははっきり覚えていた。

 夏の人間ドックで副腎の腫瘍が疑われた。送られてきたCD(エコー画像が収録されているらしい)を持って通院している病院を訪れると、そのエコー画像を半信半疑で検証している女医先生に「CT、受けますか?」と逆に聞かれてしまった。患者としては、受けた方がいいですか、と問い直すしかない。「CTの精度は比べものになりませんからね。やってみましょう」となったのだった。

 それがいつだったのかと「過去の日録」を探ってみると、2015年の9月と分かった。血液を6本採られ、CTの予約も延び、造影剤を飲むことの同意書まで携えていったのに、腫瘍の検査だからそれは止めときましょうと言われたこと、数日後の泌尿器科部長の診断は、騒ぐほどのモノはない、というものだったこと、そのあたりをグダグダと書いていた。あれからもう6年が経っている。当時66歳である。

 予約時間の30分前に着くと、5分後くらいには名前(正確には番号)を呼ばれ、若い女性技師に案内された。スキャンも5分かからず、結果は後日、ということで、今日ばかりは、はかばかしいエピソードはない。強いて言えば、まだ時間があるからとあめ玉をひとつ口に入れた直後に呼ばれたので、上着は取ってくださいと言われたときに「口の中に飴があるんですが。大丈夫ですか」と聞いたことぐらいである。

「大丈夫ですよ。ただ、仰向けになりますからくれぐれも喉に詰まらせないように気を付けてください。」

 これはいかにもいやしいお伺いだったかも知れない。勝手に、そっと取り出しておけばよかったのだと悔やんだ。しかし技師が腰に手を添えて仰向けになるのを助けてくれたりするのはその飴のおかげかも知れなかった。


2021年4月27日(火)

 通院日。先週のCT検査の結果を聞いた。

「画像診断報告書」によると「軽度の肺気腫」とあった。先月のレントゲン画像で『不透明肺』などと言われて最悪も覚悟した身にとってまずは「よい結果」と言えそうだ。ほかに、「鎖骨・胸鎖関節・第一肋骨に、骨過形成・硬化像が見られ」「SAPHO症候群が疑われます」などとあるのでついにお医者さんに40年近く前に掌蹠膿疱症(原因不明の免疫系の難病)と診断されいまなお渦中にあることを「カミングアウト」した。

 当時は原因究明のために辛い検査を埼玉医大病院で何度かやり、数年間職場近くの病院に通って主に対処療法を続けたが、抗生物質のあまりの多さに嫌気が差して以来ほったらかしにしていた。毎年毎年寛解と憎悪がくり返し、それを我慢してきた。もう治らない、一生付き合っていこうと不遜な覚悟をしたからである。あれから40年近くが経って、あのレントゲンを撮る前後は肩の痛さも半端ではなくて、普段飲まない頓服を飲んでいた。それでも10年近く見てもらっている医師には言わずにいたのだった。

 この大きな病院の院長でもある医師は「抗生物質は今この病気には使わない」と言い、「ビオチンが効くよ」とビオチンのほかにビタミンCや、関連する薬を4種類、痛み止めや軟膏まで処方してくれた。この病気のために一日3回も飲み続けるという、ものすごい量の薬であった。

 家に戻って調べると「奈美悦子はビオチンでこの病を完治させた」とあった。ビオチンの名前はどこかで聞きかじった覚えがあったが、遠い昔のことで忘れ果てていた。難病の宿痾のことは忘れることはできなかったのだから、もっと早く相談しておくべきだったと思った。(なんでもっと早く言わないのだ、と温厚な医師も怒っているかも知れない)

 長々と書いたが、「CT検査はすごい。40年来の宿痾を見事に当てた。」というのが結論のようだ。


2021年4月30日(金)

 母方の祖母が死んだとき実家の玄関には「非時宿」と書かれた半紙がつり下がっていた。土間仕様の台所では家々の若い主婦らが自分の家であるかのように立ち振る舞って会葬者に出す食事を作っている。こういうときエプロンひとつで駆けつけるのは田舎ではあたりまえの光景だったが、はじめて耳にする「非時宿」に驚いたのであった。

 当時聞いたのは、喪主の叔父が一年神主になるために修行をしているので会葬者のためにはかまどの火が使えない、よって近くの親戚の家が食事場所となる、ということだった。以来この言葉は長い間脳裏に残っていた。響きの美しさ、含意するものの深さを感じたからだった。

 また、仏教用語のほかに「非時香菓(ときじくかくのこのみ)」という伝説があるという。「非時」は時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され「今の橘なり」と言われる。そんなことはいまはじめて知ったことだが、4年前、この言葉へのこだわりを軸にして一篇の小説を書いた。短いのでまた読み返してみた。悪くないと自画自賛(?)」。



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