日  録 「梅切らぬ馬鹿」 

2021年5月1日(土)

 届いたばかりの『図書』5月号で毛利悠子さんの「アキバ」を読んでいるとき、当時弟が勤めていた会社の東京支社らしき建物の前をよく通ったことを思い出した。20代後半頃のことで、記憶のなかでは、御徒町または湯島天神のあたり、静かな裏通り、繊維問屋街という印象である。そうにちがいないと思い込んで何度かその前を歩いていた。

 唐突に思い出したついでに「真実」を確かめようと弟にメールをした。その頃は浜町にあったはず、とすぐに返事があった。日本橋か、そのあたりも(取材活動の)合間の徘徊範囲ではあった。もしかして勘違いかと思わないでもないが、いずれ昔々のことで、中身にしてもたいしたことではない、要するに詮ないことであるのだった。そんな些細なことに拘るのはいよいよ老いたか。

 ちなみに、毛利悠子さんは現代アーティスト、「アキバ」では、素材を求めて秋葉原を歩き回った日々を綴っている。面白いエッセイだった。


2021年5月2日(日)

 雹が降ったという。スマホを片手に最初に教えてくれたのは最年少の同僚である。配偶者にメールすると「はい、降りました」「被害は?」とかさねて聞けば「ありません」。
 
 夜になって姉から電話があった。「かけ放題にしたから」というわけで普段あまりしない電話をくれたのだった。コロナの予防接種、田舎の様子などを話したあと、「そっちでは雹が降ったんだってね。テレビでやっていた」。雹なんてしばらく見ていない。見たかったなぁ。


2021年5月7日(金)

 朝一番の仕事は梅の実を「収穫」することだった。

「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」などと言うらしいがここ数年手入れ(つまり剪定)をしていないために新しい枝が空に向かってまっすぐ伸びている。並列する枝先は地上4メートルを越えている。手の届かない高いところにある実を獲らなければならないのであった。

 高所枝切りばさみ(ノコギリ付き)を取り出し、根元の方から枝ごと切りおとしていった。遅まきながらの剪定となるが、これもまた大変な作業だった。開始3時間でやっと丸坊主状態にすることができた。収穫は3キロ、小梅ではなく、もう中くらいの大きさだった。ほぼ一週間分の体力を使った気分だがこれは嬉しい。

 ああ、もう一つ仕事があった。昨日から始まったワクチン接種の「予約」である。WEBが使えなくなっているので電話予約となる。隣人は粘りに粘って架け続けやっと予約が取れたという。3時間を要したと教えてくれた。こちらもそんな覚悟で臨まねばならないのだろう、と思えば憂鬱である。気力を使い果たしそうだ。


2021年5月11日(火)

 ワクチン予約(集団接種)は、200回架けてつながらなかった次の日に、引き継いだ配偶者が予約を取った。全国ニュースで、なかなか電話がつながらない、WEB予約もままならない、と右往左往する高齢者たちの声や姿が報じられているなかで、お見事と言うしかなかった。

 高齢者たるものは、感染して人にうつすなどの迷惑をかけたくない一心でワクチンに縋るのである。その伝でいけば、高齢と言わず若者と言わず、すべての人にまんべんなくワクチン接種を行き渡らせて欲しいものである。

 ところでいま、朝に1錠ずつ2種類、朝夜1錠ずつ1種類、朝昼夜に整腸剤2錠と2種のビタミン剤(ビオチンとビタミンC)を服用している。一日にのべ16もの薬などを飲んでいることになる。ほかに、ロキソニンと胃粘膜を保護する錠剤を処方されているが、これ頓服用なので不定期、これまでに各一錠ずつ2回飲んだだけである。

 昼もということで100円ショップで見つけた薬ケースを使うことにした。食事のあとケースを広げて錠剤2つと顆粒の袋を取り出す。薬を飲むために弁当を食べているような本末転倒に堕ち、高齢者に利くのかいな、と半信半疑にも陥るのである。


2021年5月12日(水)

「あんなに喜ばれるとは正直思わなかったですね」

 18歳、高校を卒業したばかりの同僚ははじめての給料で両親にしゃぶしゃぶをおごった。そのときの感想(感動)を教えてくれた。なんと「初々しい」ことだろうと、いい気持ちになった。

 その流れで「福本さんって、家にいくらくらいお金入れているんですか」彼は訊いてきた。生活にまみれた、泥臭い、ありきたりの言葉が咄嗟に浮かんだが、どんな風に答えたとしても、いい気持ちにはならないだろうと思った。すると、初々しいのアントはなんだ?

「これからのあなたにはかぎりなく大きな可能性や希望があるわけで、お金を使うのも貯めるのも、愉しいことの範疇にあるだろうね」

 初々しさに負けている。凡庸すぎる。


2021年5月14日(金)

 過日福岡に住む長男から配偶者のラインに、一歳七か月になる孫娘と二年前の秋に撮ったぼくの写真がふたつ並んで送られてきた。そのキャプションは「最近○(孫娘の名前)が親父に似ていることが判明した」。

 まだ一度も逢ったことがない(コロナ禍で逢えない)孫娘、写真を見て成長の過程を追ってきたが、その孫がぼく似ているなどは嬉しいかぎりである。配偶者は、その愛らしさにずっと癒やされてきた、おじいさんは喜んでいるけどわたしは複雑な気持ちww、などと返信していた。

 並んだ写真を眺めて、似ているのは目かな耳かな額かな、とあれこれ考えるのはたしかにたのしいことだったが、やがてこんなぼくに似てはいかんぞ、と思うようになる。ビジュアルなこともさりながら、性格だって似てはいかん。君はまっすぐまっすぐ生きてくれ、と。さだまさし調である。まことに、複雑。



キミだったのか。

真夏日に近い一日、夕方風呂そうじをしているとくるぶしの裏がチクチクと痛い。振り向いてみると黒い甲殻、ゴキブリと思ってたたき落とした。ところがちがった。クワガタであった。それも子供ながらに立派な角を持っている。小さな頃、牛ヤン、と呼んでもっとも敬愛した種類である。その下にはヘイタイ、豚ヤンがいたと記憶している。いずれも通称であるが。

叩かれて弱った、その牛ヤンの子供を玄関脇の南天の木に逃がしてやった。角は動くが身体は動かない。

叩いてしまってごめんね。ひとりで元気になれるかい。


2021年5月16日(日)

 午後エイトから電話があり、ひさかたぶりに肉声を聞いた。1年以上前からの懸念だった「DVD不認識、時を措いて認識」問題にも明解な回答を呉れた。何よりも元気な声と近況を知ることもできたので、気分はハイになった。前の日にはノリからメールをもらって、何回かやりとりをした。こちらは肉声ではないが、親身の心根に触れている思いがした。直に接しているのと変わらないやりとりは得がたいものと言う外ない。

 この夜または明け方には、一度も会ったことがないfb友達と差しで話している夢を見た。あなたはまだ若く、体力もあるからどんどん書いてください、ぼくなどはもう……そうか疾うに古稀も過ぎたのかと思い知るひとときだった。起きてfbを開くとほぼ同じ時刻に投稿記事に対してその人から「いいね」が届いているのだった。正夢のように感じたのはまさに夢の如し。

 ここ数年仕事場と自宅の往復に終始してきたが(精神的には窒息気味)、息を吹き返すためにはソーシャルな関係は大事だ、と思わせる一連のアフェアだった。


2021年5月21日(金)

 中学校の理科の授業で感動したことのひとつが階段スイッチだった。上がり口で点けて上で消す、また逆の操作ができる。生まれ育った家は平屋だったせいか、あこがれもあった。築30年の二階建ての家に引っ越したとき、少年の頃のあの感動を実感できると思ったものだった。しかしこの家の階段は、下で点けたときは下で消す(上では消せない)、上で点けたときは上で消す(下では消せない)、つまり階段スイッチにはなっていなかった。これにはかなり失望した。

 数日前、「階段スイッチ」にレベルアップできるのではないかと突然思い立った。壁に埋め込まれたスイッチを取り出してコードを差し替える程度で解決するのではないか。新しい仕事を見つけたという感じだったが、外すことはできたが配線などは分からない。新しくスイッチを買い求めるのもひとつの方法と考えて、電器店やホームセンターに行った。ともに店頭にはなかった。

 ネットで調べると、階段スイッチ、別名「3路スイッチ」は電気工事士の資格がないと取り扱えないことがわかった。(道理でお店には置いていないわけだ)さらに、階段の上も下も「片切スイッチ(1つの回路でオン・オフ)」の目印であるという黒い線が付いていた。もともと階段スイッチではないのだった。

 階段にあるすべてのスイッチが「階段スイッチ」とはかぎらないのであった。思い込みというのは大きな錯誤をもたらしてしまうということを実感した次第である。換言すれば、少年の夢が破れる瞬間であった。


2021年5月31日(月)

 その昔銀行への消費者運動のひとつとして「一円預金」というのがあった。銀行の窓口に列をなして並んで一円を預金するというものだった。業務の遅滞を図ることによって、「巨悪の根源」を懲らしめようと呼びかけていた。こじつけにも程がある、いやがらせまがいの行動だったが、時代の流れに乗っていた面もあった。

 運動母体のひとつ「銀行を告発する会」の「記者会見」に潜り込んだことがあった。渋谷の地下の喫茶店で行われた。銀行業界紙の記者がなんで紛れ込んでいるんだという顔で主宰者は見た。出て行ってくれとは言われなかったものの、話を聞くにつれ、売名を目論むようなその運動をいっそう胡散くさく思ったものである。

 50年近く経ったいま、ATMに寄ったついでに覗いてみると銀行窓口は「45分待ち」の状態だった。また、12時から13時のあいだ窓口業務は休止されているようだった。それもこれも新型コロナウイルスのせいである。

 ところで配偶者はテレビの記者会見の様子と見比べて、「あなたとそっくりだ」などと宣う。「異なことを言う。どこが似ている?」と訊けば「とんちんかん、はぐらかし、空疎な一般論、それに居候」。歳は取りたくないものである。



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