日  録  夜の後始末

2021年11月2日(火)
 
 31日の総選挙の夜、はじめのうちは特番・開票速報を見ていたが、1時間もたたないうちにテレビを消した。「赤」ばかりが増えてまたもや自民党の「勝利」で終わりそうで嫌気が差したからだ。まったく懲りない国民だなぁと思う。根気強いのか、根っから変わることを嫌うのか。日本人はヘンな人ばかりだ。自分もそのひとりなのだろう。だから余計やるせないのである。



通院日。いつもなら10分とかからない診察が今日は30分にもなった。血液検査の「高感度CRP」の数値が基準値を大幅に超えていたからである。先回、これはどんな検査ですか? と訊いて説明を受けていたのでぼくにはわかった。快方に向かっているがこの一週間およそ半年ぶりくらいに肩の骨が痛かったのであった。掌蹠膿疱症が憎悪期を迎えていると自己診断をしていた。それが数字にあらわれているのだろう。先生も血液検査の他の項目と見比べながらそのせいだと断定したようだった。

「炎症を止める薬もあるのですが、骨が脆くなったり、間質性肺炎を引き起こしたりします。根本的な解決にはならないし」
パソコン画面に薬の案内を出しながら先生は言う。

「かかったはじめの頃、40年近く前ですけど、たくさんの薬を処方されて、なかには抗生物質もあり、具合が悪くなって全部ほおり投げました」
この病気と折り合って生きようと決意しました、とまでは言わなかった。

「昔はね、抗生物質をよく投与したのですが、いまは止めているはずです」先生の前でかつてこんな話はした覚えがあった。
「ビオチンも長くのみ続けないと効いてこないんですよね」

「そんなことはないですよ。それは続けてください。炎症を止める薬にするか、それとも痛みのあるときに頓服(ロキソプロフェン)で和らげていくか、どっちにしますか」
「(もちろん)痛み止めの方でお願いします」

 そんな対話で30分が経ったのである。もはや根本的な解決は諦めているが、もし「完治」すれば僥倖なり、くらいには念じている。だからビオチンは飲む。しかし、骨の炎症は、ありのままに、でいい。あれ、どこかで聞いた文句だなぁ。


注・CRPとは、C-Reactive Proteinの略で、身体の中で炎症が起きたり、細胞の破壊が起こると急激に増加してくるたんぱく質です。血液中のC反応性たんぱくを測ることにより、炎症反応の指標となります。CRPの値が高いと「感染症」「関節リウマチ」「悪性腫瘍(がん)」「外傷」「心筋梗塞」「胃炎」「腸炎」などが疑われます。(ネット上の解説より)


2021年11月4日(水)

「この会社の元一日を築かれた○○○○氏……、」元一日が初めて目にすることばだったので手元のスマホでググってみた。「元旦」を縮めたようなことばだからおおよその察しはつくものの、「がんいちじつ」か「げんいちにち」か読み方すらわからない。そんななかで出てきた回答は、

「天理教の元一日とは、ない人間ない世界をお創め下された親神様が、教祖を神のやしろとしておもてにお現れになり、われわれ人間によろづいさいをお説き下された日・天保9年(1835年)10月26日を指します。」

宗教は離れて、つまりは「はじまりの一日」のような感じだとわかった。するとこれは誰にでもある「あの日」のこと、生きるうえでの原点。究極は生まれてきた日であるのかも知れない。


2021年11月8日(月)
 
『金閣寺』にするか『暁の寺』にするかで迷った末に後の方を選んだ。1年ほど前に畏友O君が「豊穣の海のうちこれはよかったなぁ」と言うのでいつかは読もうと考えていた。その機会がやってきた、と思った。読み進めていくと、インドのカリガート寺院を訪ねた時の目撃談(犠牲の牡山羊)のくだりに、

《首は? それは門内の、粗末な雨覆いをした奉献所に飾られていた。雨の中で焚かれている炉に赤い花を散らし、その花弁のいくつかは火に焦げているブラフマン崇敬の火の宮の傍らに、七つ八つ、黒い牡山羊の首がこちらへジャワの花のような赤い切口を向けて並べられている、その一つに先ほど啼いていた首があった。》 

 ぼくは電通広島支局で三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入し総監室で自裁したことを知った。子会社の電通リサーチというところで世論調査のバイトをしていたのだった。1970年(昭和45年)11月25日のことである。電通社員の人が飛び込んできて教えてくれた。「東京では大変な事件が起こっている」と言った。死んだとはどうしても思えなかったが「首がテレビに映ったからなぁ」と聞くに及んで「あ、本当なんだ」。そんな記憶がある。

『潮騒』や『金閣寺』くらいしか読んだことのないのに、遺作の一巻に辿り着いたのは自分でも意外な感じがした。よもやここにくるとは、と思いつつ、因縁めいたものの力に惹きつけられていくのである。


2021年11月9日(火)
 
 コンビニの新しい店舗名の一部だというが「喪徳喇孀」なんて地名があるものかと思った。

 それでも、もしやと思いながらネットで検索を続けていると「玩人喪徳」という『書経』に出てくるという熟語があった。意味は「人を玩(もてあそ)べば徳を喪(うしな)うと訓読みされまして、人を軽く見ていい加減に対応するのは、徳を失う行為であります。」とあった。言葉は出鱈目ではないらしい。しかしあとの2文字・喇孀(らっぱの「らっ」に「やもめ」)は見極めがつかなかった。

  文字化けかも知れないと疑ったのはぼくだけではなかった。社員が夜遅くLINEを通して「昨日のコンビニの件ですが、ホームページを見て気付いたのですが、ALFALINK相模原の横文字の部分が文字化けしたのではと思われます。」と報告してきた。「同感です。ぼくもそう思った。」と返事した。
 

2021年11月12日(金)

 けやき台の大学付属病院へ行って、欠けた前歯の治療をしてもらった。神経を抜いて、土台を作って、被せ歯として固定する直前の段階で今日は了えた。見た目は欠損を埋める形になったが「たぶん取れます、きっととれます」とお医者さんは唄の文句のようなことを言った。

 前々回も前回もその日のうちに仮歯は取れた。あの時々はこんなことは言わなかったのに取れた。今日も家に戻って遅い昼食のカップ麺を食べ始めた途端にポロリと取れた。「何よ、それ」と配偶者は気色ばんだが、「いっそ取れてしまった方がいい。いつ取れるかと畏れながらものを食べるよりはいいんだ。」と代わりに弁明していた。一週間後に予約が取れているので、こんどこそはと期待はしている。子供の欠けた前歯なんてものは可愛いが、われらはそうはいかない。


2021年11月13日(土)

「まるであなたのお店みたいですね」と言いながらある社員が通りかかって立ち止まった。手に持つ注文書をのぞきこむと台湾料理:福順とある。うん、確かに。

 住所は越生町。「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」のあの越生である。決して遠くない。これはいかざぁなるまいて。

 例によってネットで検索すれば、チェーン店のようで近くにもう一軒存在する。また、「福来順」という名前のやはり台湾料理店が全国のあちこちにあるらしい。福はわかるが順にはどんな期待が込められているのか。期待と言うよりも希望の出自かな。知りたくなる。


2021年11月19日(金)

 9日朝、母の妹の連れ合いである叔父が亡くなった。聞くところによれば何ヵ月か前に入院、以来ずっと眠ったままだったらしい。最後に逢ったのは2年前の12月、90歳に近かったが、まだまだ矍鑠としていた。兄の三回忌法要のあとの食事会、いわゆるお斎ではいろいろと差配してくれたものだったが、亡くなったいま思うことは田舎で過ごした18年間、いつもこの叔父がそばにいたということだった。

 毎年、年始の挨拶に一番最初に現れるのがこの叔父さんだった。前に正座して「あけましておめでとうございます」と言うと袂からポチ袋(半紙だったかも知れない)を取り出してお年玉をくれた。またこんなことも覚えている。生まれたときの様子や名前の由来を聞く小学校のアンケートを手に訪ねると「安産だよ」「素直な子に育てという願いだよ」と助言してくれた。首をかしげて親身に聞き入る姿も印象に残っている。いつもにこやかで、知恵のある叔父だった。父も母も、兄も姉も弟も、わが家の者はみんな頼りにしていた。こんな風にいつかは別れがやってくるというのは辛い事実である。

2021年11月26日(金)

 過日、帰宅すると配偶者が「煮立ったらお肉と野菜などを入れて食べてね」。おそらくチョコレートドリンクの飲み過ぎで具合が悪いのでしばらく横になっているというのである。シャワーのあと、配偶者の体調も気になったが、言われた通りおかずを作ってひとりで食べた。残しておくかと訊けば私は食べないから、と生半可な応答をする。美味しくて、もう少しもう少しとお腹と相談しながら結局全部平らげてしまった。

 夜中に帰ってきた娘が「私のごはんは?」と訊けばかなり元気を取り戻していた配偶者は「残しておかなかったの? 信じられない」というではないか。具とともに別にしておくのが慣わしと思い込んでいたがこの夜は違ったのである。しまったと思った。覆水盆に返らず、というよりこの場合は命に関わる「水」である。「われの責任においてコンビニ弁当を買ってくる」と車を走らせたのだった。幸い少なからぬ弁当が残っていた。同じく弁当を手にした中年男性と前後してレジに並んだ。彼は仕事を終えて帰宅、われは自分の後始末、嗚呼。


2021年11月30日(火)

 フロントガラスが凍り付くようになった朝、溶けた頃合いに車を発進させた。走り始めて約5分、距離にして2キロ、眼鏡をかけ忘れていることに気付いた。遙か遠くがはっきりしないだけで、往復2時間の通勤は「可能」だろうが、ここは急いで引き返すことにした。

 かつて一度眼鏡なしで運転したことがあった。家の中では、掛けたままだと本は読めない、テレビなどはこれがなくても支障なく見られる、つまりほとんど眼鏡を外して過ごすようになったのがその原因である。そのときは往復3キロの道のりだったのでそのまま運転を続けた。

 あれ以来、眼鏡に関して、掛けているのか掛けていないのか、その感覚が怪しくなっているのだった。目の周りに手を当てて確かめないわからない状態である。今回も走り出したあとに手触りのないことにはじめて気付いたのだった。

 これは「眼鏡等の条件付きの運転免許で眼鏡やコンタクトレンズをせずに運転すると、免許条件違反となり、違反点数2点・反則金7,000円」となるという。しかし、問題はそこではなく、安全運転のために気を付けねばならない。この、いわば眼鏡認知症は意志の力できっと直る。




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