日  録  仮歯の歴史

2022年4月1日(金)

 早朝から破れた障子を補修した。破れている部分はベッドの高さより下である。つまり寝ている間に布団やら足やらが蹴ってしまったらしい。いつか全面張り替えを、と思っているうちに何年かが経ってしまった。ベッドを動かさないと障子戸が外せない、そのベッドは大きくて、動かすということは部屋のレイアウトを変えることになりもっと大変な精神力が必要である、それらが延び延びになっている理由だった。が、さすがにみっともなくなって、唐突の感はあるがつぎはぎを決意したのである。

 こんなつぎはぎは、時代劇ならさしずめ長屋住まいの浪人のやっつけ仕事だな、と自嘲した。多少見栄えはよくなったが、達成感はないのであった。貧乏長屋の浪人は老人だった、なんて軽口も飛び出した。外では、レンギョウの黄色とユキヤナギの純白が季節を戻す北風になびいている。世界の全存在に、春よ来い、はやく来い。

 
2022年4月3日(日)

 畏友へのメールより;
 6連勝のあとは3連敗、4月なのに冬並みの寒さに戻り、ロシアのウクライナ侵攻は見聞きするだに不快感が募ります。そんななか、目下の関心事は身体能力についてです。

 左足の太もも(外側)に痛みを覚えたのは3日前、「そういえばその何日か前にどこかにぶつけたかな?」、少し腫れてはいるが痣にはなっていない、しかしこれはまちがいなく筋肉の痛み。それだけならやがて腫れもとれ痛みも消えると思うのですが、約10キロほどの段ボール箱を持とうとすると力が入らずに持ち上がらない、左足が意に反してぐにゃりとくずれて危うく荷物を落としそうになる、これは一大事です。あわてて湿布シートを貼って凌ぎ、なんとか直りつつあるように思われますが、自分の身体は自分ではもうわからない、ましてや身体能力がどれほど下落しているかはおそらくもっと不透明です。

 日常の不快感を煽るものがもう一つありました。コロナ禍。いつかどこかで再会が果たせるよう、祈るのみです。(引用終わり)

 深夜、肩の痛みもあったので、処方してもらったもののいまだ大量に残っているロキソニン(1日3回、一回2錠でざっと100日分!)を久々に飲むと、これがとてもよく効いた。こういう身体の反応はわかりやすい。

2022年4月4日(月)

「プーチンの戦争」は時代が何世紀も逆行したような気がしていよいよ不快感が募る。住民虐殺、なぜそんなひどいことができるのか。かつて日本軍も中国や朝鮮でやった。それを戦争の通弊というのならば、やりきれない。またわれは関与していないなどヌケヌケと言える神経はどこから来るのか。人間ほど進化しないものはない。個人ひとりの精神だって、三つ子の魂百まで、じゃないけど、3歳の頃を超えていかない道理である。


2022年4月5日(火)

 停めておいた車が消える、またはなかなか見つからない夢をよく見る。直近のでは、停めた場所に8階建てくらいのビルが建っていた。ビルの一部がパカッと空いて車の出入りができるのではないかと探し回っていた。何年か前には高速のサービスエリアで車を見失ったことがあった。降り始めた雨の中を傘もささずに駆けずり回った。これは実際の出来事であった。それが夢を見るきっかけになったわけではなかった。「ミッシング・マイカー」はそれ以前から夢の中にしばしば出ていた。夢も現も、何の喩えであるのだろうか。


2022年4月7日(木)

 帰宅するとすぐに配偶者が「スーパーに連れて行って」と言う。「カレーなんだけどルーがなかった」。ふたたび車を動かして数百メートル先のT字路にさしかかったとき、路傍の草に隠れるようにしている黒い子猫と目が合った。道路を渡ろうとしている、と判断したので窓を開けて「行くな行くなよ」と手を振り回してぼくは叫んだ。右から車が近づいていたからである。「警告」を無視して子猫は渡りはじめた。右からの車は子猫に気付いて止まった。左から来ていた車も止まってくれた。

 子猫は4、5メートルの道幅をときおり振り返って何かを見ながらのんびりとわたりきり民家の庇の下に消えていった。その間何台かの車は足止めを食った。外がもっと暗ければ子猫は闇に隠されて見えなかったはずだ。それを思うとぞっとするが、危険を未だ学習していない子猫は自身の運命に無頓着でその分しあわせだと思った。歳を取ると知恵もついてそうもいかない。


2022年4月8日(金)

「広島市中区の被爆建物、旧広島大理学部1号館に新たな平和教育・研究機関を設ける構想で云々」という記事が中国新聞に出ていた。ぼくは理学部ではなかったけれどこの建物のなかを歩き回ったことが何度かある。いま思うと歩き回ったというよりは走り回ったという方が適切かも知れない。

 というのはその建物は90年ほと前に広島文理科大の校舎として建てられたもので、建ってまもない頃高校の恩師ナベさんがそこで学んでいたからだった。ぼくは用事もないのに入り込んで40年前のその当時に思いを馳せていたのだった。ナベさんは自らも被爆しながら「植物は人を裏切らないからなぁ」と呟きながら研究生活を送っていたのだろうと想像した。うす暗い廊下を「走った」記憶はいまにしても甦ってくる。

 その記事によれば、

「ヒロシマ平和教育研究機構(仮称)」を設ける構想は、18年11月に市の有識者懇談会で示された。広島大平和センター(中区)と市立大広島平和研究所(安佐南区)、同大大学院平和学研究科は1号館への移転が決定している。松井一実市長は1月の記者会見で「各研究機関が一体的に機能する必要がある。急がないといけないが、関係者の納得度を高める中身の十分な議論が必要だ」と述べ、策定にはさらに時間がかかるとの見通しを示した。

 草葉のかげでこの構想に対してナベさんはどんなことを思うのだろうか。

2022年4月12日(火)

 東風に吹かれて、頭の上で風鈴が鳴っている。夏のような気温になって、東も南も窓を全開にしているからだった。ついこの間までストーブを焚いていたのに、季節の移り変わりとは拙速なものである。風鈴の音は朝のことで、夕方になるとならなくなった。このときは南から風が吹き募っていた。

 拙速とはいえ、こちも(東風)はえ(南風)も心地よい。家のなかでは春もあり、夏もあり、というところか。


2022年4月14日(木)

  隣村に嫁いだ父の妹が夢に現れた。小高い丘に建つ家のなかに入っていった。叔母の家だから何の遠慮もない。挨拶もそこそこに土間に足を踏み入れていた。昔からそうだった。夢のなかではハンサムな叔父もその母親もまだ生きていて、老婆の母親は「あんたは誰や」と聞いてくる。人の前で話すことが大好きでまた上手だった叔父は電話ボックスのようなところに入ってマイクを手に唄っているのがガラス越しに見える。今風のカラオケのような雰囲気もあるが、本当は盆踊り音頭の稽古だろうか。

「どうしたんや」若やいだ叔母が奥の間から出てきた。「特には。ちょっと通りかかったものだから」叔母は、急かされるようにぼくに話しかける。言いたいことがなんなのかよく理解できない。そのうちぼくにも何か用事があったような気がしてきた。それも思い出せない。そして目が覚める。あいが菜、と呼ばれている「鮎河菜」のことと、父には合わせて5人の妹がいたこと、このところの関心がこのふたつだった。そのせいで隣村の鮎河にいた叔母が夢に出てきたと思われる。父方の叔母はこの叔母を含めて覚えているのは3人だけである。あとのふたりは杳として浮かばない。

 あいが菜のほうも、食べたことがあるのかないのかはっきりしない。だから気に掛かっているのだったが、想像するに、アブラナ科の菜の花だから苦みがあってそれがアクセントになるのだろう。平安時代から主にこの地で栽培されている伝統野菜というから、食べてみたいのである。


2022年4月15日(金)


 映画『華麗なるギャツビー』(1974年)はかなりシュールだなぁ、というのがはじめて観たぼくの感想である。1925年に発表された原作小説を読んだことはないのに映画の存在は知っていた。それが U-Next で観るきっかけだったが、製作されてから約50年、テーマ(おそらく)である「夢」と「ロマン」がなんとも大時代的であり、それがかえって非現実感をもたらすのであった。

 思えば100年前はアメリカンドリームの最中であるのだ。その時代を描いた作品が、50年前、世界中の学生が改革を叫んでむなしく散ったあとに映画化されたのである。「ギヤツビー」はいま有り得るのか。現実感としてはついに甦らなかった。
  
 その後200分の長編『ドクトルジバゴ』を観た。ロシア革命に翻弄された、詩人・医師ジバゴのふたりの女性への誠実な愛、と惹句にある。これは普遍にとどいていて、長尺ながらも飽きなかった。


2022年4月19日(火)

 評判の年森瑛の「N/A」(文學界5月号、文學界新人賞受賞作)を読んだ。「かけがえのない他人」という表現を発見したのは手柄である。しかし、胸に突き刺さらないわけではないが、どこか空々しいのも否めない。「関係の絶対性」という概念からずいぶん遠くへ来たものだと思った。71年生まれの東浩紀は選評でこんな風に書いている。

「安易なLGBT表現・マイノリティ表現への違和感の表明であり、同時にそのような安易な表現への批判でもあるという点で、まさにいま求められている文学なのではないか」としたうえで

「物語は一〇代と二〇代だけの会話で進み、母親も教師も関与しない。とりわけ気にかかったのは元教育実習生との関係である。肉体関係があるようにもみえるが、他方プラトニックなようにもみえる。そこを明確にしないと結末の意味も不明確のように思うが(以下略)」

ともあれ、反抗心をうちに秘めた作者に注目である。


2022年4月22日(金) 

 昨日アルバイト先で、60代と50代いずれも半ばくらいの同僚とワクチンの副反応について話していると、接種後ふたりともだるさ、発熱を伴う倦怠感があり半日ほど寝込んだという。ぼくは接種部位の筋肉が数時間痛んだだけだったので、同じような副反応で寝込んでいた配偶者のことを話した。仕方なく「抗体を作るためにからだが必死に反応していたんだね」ありきたりのことを付け加えるとついこんな風に言ってみたくなった。「抗体なんていらんとこのからだをスルーしていったんだね、ワクチンまでも」。ふたりはおおきくは笑わなかった。

  今日、駅前の商業施設に立ち寄ると広い駐車場の一角に献血車が停まっていた。久しぶりに見る光景だった。献血もいいかな、などとエスカレーターの前に来ると勧誘のプラカードを持った人が立っていた。そこには「18歳から64歳までの方。60歳から64歳までに献血の経験のある方にかぎり69歳まで」とある。当てはまらないぼくはここでも「立ち入り禁止」だった。


2022年4月26日(火)

 欠けた前歯に本歯が入った。プラスチック、セラミック(?)、銀とあるのですがどれにしますか? と訊かれたのでそれぞれ費用を教えてもらったうえで、一番安いものをと答えておいたのだった。敢えて教えてもらうまでもなかったわけだが、2週前に型を取って、今回できあがってきたプラスチックの本歯を入れてもらった。

 去年の8月下旬、突然前歯が抜けたので3年ぶりに大学病院を訪ねた。抜けた歯は40年も前に塾の教え子がインターンをしていたお茶の水の付属病院で入れてもらったものだと思い込んでいた。予診の教授をして「40年か、十分元を取ったね」と言わしめ、再度現れたときにはカルテを手に「3年前にここで入れてるじゃないの」と「呆れさせた」歯だった。虚偽の申告に赤面したものだったが、記憶の漏れはどうしようもなかった。

 それから、とりあえずの仮歯はゆらゆらぐらついてその日のうちに取れてしまうことが再三再四あった。9月に孫たちが来たときには歯抜けのままであった。しかし12月に補綴科の先生に変わってから仮歯は取れることなく、見た目、機能ともおおいに役割を果たしてくれた。かくして8ヵ月後に本歯となったのである。記念に仮歯の歴史を振り返ってみたくなった。


 


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