日  録 小包ひもの連想  

2022年8月2日(火)

 休日で、朝から歯医者の予約が入っていたが、きのうあたりから発熱を繰り返している娘を乗せて延々4時間車を走らせた。外は40度前後の暑さである。よくぞ駆けめぐったものぞ、と思う。すべて空振りというのが疲労感に拍車をかける。

 まずは近所のクリニックへ。病院の前のテント小屋をいつも見ていたので診察したうえでPCR検査をしてくれるだろうと思ったのだ。しかし「発熱外来はもうやっていないのです」とつれない返事である。

 次に向かったのはふじみの救急病院であった。HP上には第7波をむかえて「完全予約制に切り替えた」と書かれていたが、緊急の患者はこのかぎりにあらず、というところに一縷の望みをかけた。鹿野先生に会えると娘は蓮っ葉な喜びを語るが、100台収容の駐車場は満杯、看護師に相談しても予約のない当方は門前払いとなった。

 いったん帰宅、往復30キロの道のりだった。お昼のあと、こんどは抗原検査キットを求めて市内のドラックストアに向かう。電話で「ある」と返事をもらったのに、受付の女性店員は「ひとつだけなら」、奥に控える薬剤師らしき男性は腕で×印を示して「もう一つもない」。他のお店にも問い合わせたがどこも在庫なし、入荷も未定、と言う。買い出しを終えて、往復15キロの移動もまたむなしかった。

 夕方近くなって無料PCR検査センターに行こうと言い出した。「予約は不要」だが、「症状のないこと」などが条件となっている。熱はいま6度8分だから行ってみるか、と出かけたのである。会場近くまで来て体温を計ると7度3分、これでは「だませない」と、引き返した。かくして25キロの遠征も不発となった。

 けっして短くはない総計70キロの走行は終わったが、いまだ決着は付いていない。第7波の勢いを痛感した一日だった。

2022年8月5日(金)

 濃厚接触者、自宅待機の身となった。本人は熱なし、咳少し、ほとんど症状がないが、隔離生活に入っている。ふたりの濃厚接触者はともに感染の兆しはない。このあと検査キットが届くはずなのでそれで調べ、明日は医療機関でPCR検査を受けることにしている。

 本人には保健所からの通知が届き、症状を観察・記録しながら待機期間を自ら計算して解除となるらしい。一方われらは基本は5日間の待機、2回検査を受けて陰性ならば最短3日で解除していいらしい。一日も早く仕事に復帰したいが、起点をいつにするかでずれが生じる。

 厚労省の「通達」を繰り返し読みながら思案するものの結論が出ない。自らの判断は間違うかも知れないので誰かが背中を押してくれないか、と思ってしまう。

日常が変わるのは不安なものである。一日二日は腰が据わらず落ち着かないが、何日か経てば新しい日常が生まれてくるのだろうか。

2022年8月6日(土)

 77年目のヒロシマの日、松井市長は「平和宣言」のなかでトルストイの言葉「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ自分の幸福もあるのだ」を引用して、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現を訴えた。

 ことしは平和祈念式典のTV中継を見なかったがfbにはこんな意見が投稿されていた。「(岸田首相の挨拶に触れて)自分の言葉で、自分の本当の思いを語ってみせてほしい。言葉の力のない、こういうスピーチに慣れきってはいけない」(水島英巳氏)。

 濃厚接触者になったのでふじみの救急病院でPCR検査を受けてきた。約90分の待ち時間の間、順番を待つ人たちや次々とやってくる人たちを眺めていると小学生前後の子供を連れた若い夫婦と40前後の男女がほとんどであることに気付いた。われらのような高齢者は他にいないのである。働き盛りが仕事を休める土曜日のせいもあるのだろうか。

結果はふたりとも「検出せず(陰性)」だった。これで完全な日常に向けて一歩進んだわけである。トルストイの言葉をぐっとかみしめよう。


2022年8月9日(火) 

 きのう5日ぶりに出勤した。6日のPCR検査に次いで、次の日には「抗原抗体一体型検査キット」なるもので調べるとこちらも陰性だった。感染者や濃厚接触者が相次いで顕れ人手確保に汲々としているようなので、早期復帰を志願したわけである。大体において喜ばれたが、責任者は心配顔で何度も「大丈夫ですか。気を付けてください」と声をかけてくれた。

 昼すぎにはこんなことも暴露した。「本部から電話があってちょっと早くないですか? と言うんですよ。5日に連絡を受けたと報告したので今日は4日目、通常の5日より一日早い。本当は4日から待機が始まっているのに、連絡したのが5日で4日からと言うとなぜ早く連絡しないのだとお叱りを受けるので、5日と偽ったわけです。検査の結果などを縷々説明して納得してもらいましたが、経過観察を怠るなとのお達し。大丈夫ですよね(笑)」

 実は他の面で大丈夫ではなかったのであった。仕事中ずっとお腹がしくしくと痛んでいた。年何回かある「からだの異変」であり、コロナとはもちろん関係がない。痛みをこらえて所定の仕事をやり終えるとさすがにほっとしたが、この痛みは家に戻ってからも続いた。シャワーだけは浴びて、その後はベッドに横たわっていた。10時半頃になって目を覚ますと調子が戻っていた。11時過ぎに夕食を摂って日付が変わる頃眠りに就いた。

 結局きのうは長い一日だった。5日ぶりの仕事のせいというよりは、コロナ余波と呼んだ方が感覚に馴染む。

 
2022年8月11日(木)

 映画『82年生まれ、キム・ジオン』をU-Nextで見つけた。同名の原作(チョ・ナムジュ著)は韓国で136万部売れ、日本でも話題になって、よく読まれたようである。それが5、6年前で、記憶に残っていたのですぐに観た。仕事を離れ育児に専念する妻を襲う精神の病、妻は時々他人がのりうつって訳のわからないことをしゃべるようになる。

 そんな妻と向き合う夫がいい。ときに涙を流して「君を失いたくないんだ」と言う。団塊の世代も70年をすぎるとそれぞれ個に還っていったので「優しすぎる」「軟弱」とか批判的に言われることがあった。1983年には島田雅彦が『優しいサヨクのための嬉遊曲』を発表した。1961年生まれの島田氏には団塊の世代の陰はない。1982年はそれからまた10年である。夫は「優しい」という言葉だけではすませられない時代の何かを背負っているように思えた。原作を読んでおくべきだった。いまからでも遅くないか。


 2022年8月13日(土)

 台風8号は帰途1時間に30ミリの雨に遭遇しただけに終わった。関東沿岸部では風も雨も強く被害も少なからずあったようである。ところでこの台風には「メアリー」という名前が付いていていつもと違うと感じていた。こんな気象予報士の説明記事を見つけた。

「2000年からは、北西太平洋または南シナ海で発生した台風に限り、台風委員会によってアジア名がつけられるようになりました。この委員会は、日本含め中国やベトナムなど、14カ国が加盟しています。」

「ちなみに、今回の台風8号につけられた名前「メアリー」は北朝鮮が出したもので、つづりは「Meari」。「やまびこ」という意味の言葉だそうだ。」

「台風委員会のリストを見ると、日本が出した名前は、『ヤギ』『コグマ』『コンパス』など。次に発生した台風につけられる名前は、香港が出した『マーゴン』です。ちょうどその次が、日本が出した『トカゲ』になります」

 さらに異和感は募った。室戸台風や伊勢湾台風などを経験した者としては被害を忘れないために、それこそ防災上の観点から命名するのはわかるが、あらかじめ名前が決められているとは、なんとも気が早い。生まれてくる赤ちゃんなら楽しみだがこればかりはなじめないのである。メディアも台風8号というだけで「メアリー」と呼ぶところはほとんどないように思う。


2022年8月16日(火)

 ことしの夏はごく身内に向けて富良野メロンを産地(富田メロンハウス)から直送してもらった。孫たちは笑顔一杯で頬張る姿を動画で送ってくれた。小学生になったばかりの上の方は「なんか甘くて、少し酸っぱくて、舌にとけ馴染んでくる」などと感想を語っていた。姉もまた「本場のメロンなんて初めてで感動しました。とてもとても美味しかった」とメールを寄越した。完熟期間というのがあるらしく着いてすぐには食べられないので「ありがたさ」も間遠かと心配したが、やはり富良野メロンは美味しいのだろう。

 今日は半端でない暑さであった。昼は半ばやけくそ気味に、熱いそばとおはぎを食べた。こんどは張り込んで自分らも富良野メロンを試食しなければならない、と思った。


2022年8月19日(金)

 早朝6時前、婆さんは道路ひとつ隔てた野菜畑に、爺さんは夏草茫々の庭へと出かけていきました。暑くなるけど緑陰は爽やかでしょうという予報にそそのかされたように草むしりをやろうと思い立ったのであった。

 それでも1時間半ほど経つと汗が噴き出してきたので水分を補給。やっと半分ほどが終わったところである。いよいよ佳境、この勢いで全部キレイにするぞ、と誓った直後、フェンスに巻き付いている木香薔薇の枝を伐っているとき蜂に襲われた。激痛に思わず叫んだ。右手首から親指にかけて4ヵ所、左手親指の先に1ヵ所、計5つも刺された。まさに電光石火の早業だった。

 大きなアシナガバチらしきものが2、3匹いたように思われるが、たしかめる余裕はない。家の中に駆け込んで傷口を絞りながら、石けんをつけて洗い続けた。配偶者もやってきて、「あの辺でわたしも刺された。あれほど言ったのに防御策を怠るからよ」と叱られる。

 30分後通院している病院の緊急外来を訪ねた。「1ヵ所ならそのままにしておくのですが、何ヶ所も刺されたので……」などと言い訳めいたことを口にしながら事情を説明するとすぐに診てくれた。「初めてですか」と聞かれたので「ええ、最近では」と答えながら、小さな頃は山の中で遊んでいるとよく刺されたものだが、それがいつだったか思い出すことはもちろんできない。先生は2度目の時に起こるかも知れないアレルギー反応を心配してくれたのだった。「大丈夫でしょう。塗り薬出しておきます。それと、アイシングですね」そうも忠言してくれた。

 それにしても、痛かったなぁ。蜂の一撃、侮れない。

2022年8月23日(火)
 
 数日前、川岸則夫さんの詩論集『ハンサムな、詩学。』(詩学社)が突然Twitterに登場した。どこかの古本屋で誰かが見つけ、この本のために帯文を書いた松下育男氏がリツイートしていた。

 この本に収録されている「詩評87’」は岡田幸文さん編集の『詩学』に連載されていた。岡田さんは毎月一回原稿を取りに川岸さんの元にやってきた。職場が近かったぼくもなぜか同伴した。それは岡田さんに会いたいがためだった。後日岡田さんはこの頃をふりかえって「あういうこと(連載)でもないとなかなか逢えないもんですね」と言った。

 逢う場所はいつも同じ店だった。ぼくの仕事場のごく近くだった。うす暗い店内、テーブルの朱い灯り、広くて明るいトイレと大きな鏡、そんな記憶が残っている。いい雰囲気のお店だった。岡田さんたちとの会話は断片的に残っていて、楽しいひとときだったと思い出せるものの、その店の名前が思い出せないのである。店はいまはもうない。建物が残っているかどうかもおぼつかない。

 最近は昔の些細なことが気になるものらしい。この名前が思い出せないと画龍点睛を欠くということになるのだ。


2022年8月24日(水)

 昨夜宮崎の友人M君にメールをした。この日彼へのメールが不着だ、という手紙をO君から受けとっていたからだ。O君は他にも共通の友人何人かにメールしたのに返事がないと心配していた。便りがないのは無事の報せ、というのはわれらには昔の格言、その身にいつ何かが起こり、返事ができななくなるというのは現実感のある危機であるのだった。

 今夜M君にメールが着いたかどうかをLINEで問い合わせるとほどなく電話が鳴った。5時に起きて畑に行って、お昼前に家に戻って、ぐったり、暑くてかなわんね。夕方まだ暑いけど、また畑へ、そんな調子ですわ。朝メールに気付いたが、返信する体力やら気力がなくて、御免、などと言い、

「火野正平に書く手紙を考えているんだ。彼はこんど広島に行くらしいので是非薫風寮を訪ねて欲しくてね」

 火野正平が自転車で全国各地を訪ね回る「こころ旅」という10年以上続いている番組である。そういえば川の土手に佇んで視聴者からの手紙を読む場面があったのを覚えている。風景を辿るだけでなく、人の、営みの跡を探して回るのが番組の趣旨であるようだ。薫風寮というのは赤レンガの陸軍被服支廠のひとつを改良した学生寮だった。寮はないが建物は残っている。火野正平に自転車でそこへ行って欲しいとM君は訴えるようだ。採用されれば、Mの手紙を携えて火野正平がぼくらの代わりに青春の跡地を訪ねてくれるのである。よい手紙を書いてくれよ。


2022年8月25日(木)

 昨日あたりから蜂に刺されたあたり、つまり右の手首まわりが猛烈に痒くなってきた。知恵者の同僚にこんなに痒くなるものなの? と訊けば「刺されたことがないのでわからないね」。ネットで皮膚科医は、一週間くらい経ってからさまざまの症状が出てくることもある、それはすべてアレルギー反応、と解説している。人により異なるのでまさに刺されてみないとわからない、と言うことができる、とも。けだし名言。


2022年8月30日(火)

 小包ひもを求めてドラッグストアに入った。生活雑貨の棚をしばらく探したが見当たらない。若い店員に「小包ひも、置いてますか」と訊けば「?」怪訝な顔をされる。「荷物をしばるひも。麻や紙でこよりのように編んだひも、ですけど」まだ謎は解けないようだった。 ということは商品としてはないということであろう。ほどなく店員は「ありません」と断言した。

 店を出た後に、宅急便などの荷物のことを小包という人はもういないのかも知れない、まして荷物にひもをかけて送る人などは皆無であろう、と思った。昔は何を送るにしてもひもを掛けたのではなかったか。思えばわが家に来る荷物もひもが掛かっているのはTさんが自分の田んぼで作って送ってくれる新米だけである。

 学生の頃老舗の本屋さんで学校や官庁に書籍を発送するアルバイトをしていた。書籍小包はすべてひもを掛けた。その掛け方と最後の結び方をシベリア帰りの気むずかしい老人がていねいに教えてくれた。一丁前に縛っていると通りかかった書籍課長が「これは将来身を助けるぞ」と本気ともからかいともつかない口調で言った。その予言は当たらなかったわけではなかった。その後、ふたつの職場で重宝がられたからだ。

「小包は死語? するとひも掛けの技術もいまや使い道がなくなったというわけか」と呟くと配偶者は、「家では何も縛ってくれなかったのにぃ」と拗ねた。

 書籍課長の名前はいまだに覚えている。何年か経って、府中競馬場に向かっているとき、暴走をはじめたAT車に轢かれて亡くなったからである。ダービーの日ひもの連想はぼくには悲しい。




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