日  録  この寂寥感を   


 2003年2月1日(土)

 朝から迷いの虫が疼いている。今日職場に出てたまっている仕事を片づければ身も心も楽になる、が週一回の休日家でゆっくりとしたい、さてどうするか。決めかねて、若い学生・新人にメールをした。夜のレッスン入っているのか? と。すぐに返事がきて「僕も迷っています!」と書いてあるではないか。神様ならぬ、人任せのつもりだったが、決定打にはならず(ちと大袈裟?)。風はあるが、よく晴れている。ドライブを兼ねて、出かけるとするか。

 2月2日(日)

 開店したばかりの「おふろの王様」という巨大な建物の前を通りかかった。すでに12時を過ぎていたが、広い駐車場には車がいっぱい止まっていた。深夜一時まで営業しているという。仕事帰りにひと風呂浴びる、などとなれば、これはまた愉しいだろうと思った。そばにいた若者らも「今度行きましょうや」とはしゃいだ声を立てていたから思いは同じだと知れた。名古屋にいた頃、同僚や友人とよく今池あたりのサウナに行った。夜を明かした記憶もある。つまり当時は(いまだってそうかも知れないが)ホテル代わりに使うことができた。躯をきれいにして、長椅子に寝そべって眠りに落ちる。なかなか甘美な夜を送ったことになる。一日の疲れどころか、何もかも忘れ果てて、ただ自分の肉体の命じるままに過ごすひととき。そんなときが、数時間だけでもあれば、いい。この夜は人を送ったあと荒川を左岸から右岸、右岸から左岸へと二度も渡ったあと(つまり道に迷った挙げ句)に、その前を通りかかったのであった。道に迷うことも十分に“彼岸”の経験であったが。

 2月4日(火)
  
  昨日が節分で今日は立春。1月ははどこへいってしまったか、とついになげきが出てくるほどに日の経つのが早い。立春を過ぎたあとの寒さを『余寒』と言い(残寒とも)、立秋のあとの『残暑』に対応した言葉らしい。寒中見舞い、残暑見舞いはあっても余寒見舞いというのは聞いたことがない、とラジオのアナウンサーも不思議がっていた。きっと、梅の開花もはじまるこの時期は、生命の高ぶりを寿ぐべき時であるのだろう、と納得する。

 2月5日(水)

 帰り道でカーラジオをつけると、あるスキー場で観光バスの運転手が勝手に後ろへ動き出したバスと駐車中のバスとに挟まれて死亡したと報じた。逃げる、つまり脇に退くか伏せるかの時間もなかったのかとなぜか腹も立ち、訝っていると、同僚の運転手と話し込んでいるところへ思いもかけず迫ってきた自分のバスを全体重をかけて止めようとしたのだという。車輪止めをしなかった責任感からとはいえ、何とも痛ましい事故である。1トンほどの乗用車ならばあるいは、と思うものの相手は大型バスである。犠牲になった運転手には、止まるかどうかよりも、止めなければという使命感の方が強かったのに違いない。責任論を捨象すれば、死に至ったこの行為はかぎりない無償性に根ざしている。こちらにはこんな芸当はできるはずもないが、人間の姿は美しいと感じる瞬間ではあった。

 2月7日(金)

 明け方になって見た夢の続きが気にかかって、小用を済ませたあとそそくさと布団に潜り込んだ。温い布団に頭を付けると夢の中の登場人物も待っていてくれ、すぐにも物語を紡いでくれるような気がした。なんとも幸せな気分で再び眠りにはいった。続編が見られたかどうかは定かではない。いまとなれば、それほどおめでたい経験だった、と記すことができるのみ。昼前に起きて新聞を広げると文芸4誌の広告である。改めてこの一ヵ月間の早さに驚愕する。次から次へと課題が押し寄せてくる。毎年こうなのにちがいないが今年は格別な感じもまた否めないのである。夢の中へ逃げ込みたくなるのも条理であるのか、と。

 2月8日(土)

 2週間ぶりの休日、休日を過ごすのも“体力”がいると感じた。起きてすぐ(昼過ぎに)、カード会社から電話がある。2,3の質問に答えてくれればすぐに有利な条件に変更できます、と言う。職場で口座振替を依頼している会社を名乗ったのでそれを信じれば安全なはずだが、電話でというところにいささかの不安を感じて、そういうことは書面で確認してからにしたいので送って下さい、と答える。関西なまりの女性も納得して、住所確認の上で電話を切った。気温の上昇につられて外に出たついでに、このあたりでは唯一文芸誌が揃っている駅前の本屋さんまで足を伸ばした。『新潮』3月号は笙野頼子の長編がお目当てであるが、まずは評論、エッセーの類を読んだ。これは“ご馳走は後回し”の心理に似ている。合間に、インターネットで出版社や古書店を巡り歩いた。「女による女のためのR-18文学賞」の候補作なるものを斜めに読みもした。なかなかの“ポルノ小説”(これも古い言い方?)だったが、正直うんざりしてその後は一時間かけてウイルスチェックのために7万ファイルをスキャンした。外が暗くなるまでは、なんとはなし眠い状態が続くからである。しかし、ここを過ぎれば一応シャキッとなるのを躯が覚えているので、体力勝負はここまでであった。

 2月10日(月)

 県立高校推薦入試の合格発表日。早朝から合否の情報を集めるのに忙しかった。年によっては全滅ということもあったが、今年は約50パーセントの合格率、しかし、女子ばかりというのはどうしたことか。それはさておき、“紅白饅頭”にお目にかかれるとは思わなかった。3,4倍の難関を突破した子供の母親が赤白5個ずつ10個入りの箱を持ってきてくれたのである。いまもなお、この習慣は生きているのかと嬉しくなった。小さい頃の祝い事の定番がこれだっただけに、なつかしくもあった。

 2月12日(水)

 百円ライターの火がずっと点きっぱなしという“妙なこと”が起こった。マッチの火を消すように振ってみても、消えない。我の意志を離れた不滅の炎に心を揺さぶられた。ちょうど荒川の支流に架かる小さな太鼓のような橋を渡るときで、ふいに「降るなら雪だな、雪なら降れ」など戯れ言めいた言葉を呟いていた。一昨日、昨日に比べればよほど寒くなって、おまけに曇り空であった。そこからの連想にはちがいなかった。深夜近くになって、人を送り届けたあとにほんのわずか白いモノが落ちてくるのに気付いた。フロントガラスに当たってもそれらしき痕跡は残らない。本当に雪なのか、と半ばは疑いながら車を走らせていった。通過する場所によっては白いモノの数が増えて、目の前で舞っているのはやはり雪だと確信が持てたのであった。ここで昼間の戯れ言を思い出した。あの時炎は案ずるほどもなく自然に消えてくれたが、火と雪の間にどんな関連があるのかはもちろん不明のままである。

 2月14日(金)

 11日、13日にひとつずつ、14日に9個、締めて11個ものチョコ・クッキーをもらった。それぞれがすべて手作りで「きっと食べてよ」と手渡されたものもあった。これは一大異変だ、と思った。最後の花、というタイトルの小説があったかな、と記憶をまさぐってみた。夜、凍てつくほどの風の冷たさに震えた。暖かくなったり、寒くなったりを繰りかえすのが春のならいとはいえ、こちらの異変に躯も おたおたする。

 2月15日(土)

 仕事が輻輳していたために出勤。順調に捗っていたものが帰りがけになって突如、原因不明の文字化けとなって現れた。時間ももう遅く、いったん頓挫する。明日以降に持ち越しとはなったが、エアコンの直撃、つまり熱風を受けて長時間働き続けたパソコンの“悲鳴”だったのかも知れないと思った。自然に治っていてくれと祈るばかりである。若い友人からメールがあってマレーシアのペナン島に5日間の旅をする、とあった。こちらは、転地療養みたいなもので、自然によって癒されることを目指している、とみた。なんともうらやましいかぎりだが、新しく開設したばかりの掲示板に「ベナン島報告」を是非、と返信する。

 2月16日(日)

 パソコンと格闘した一日だった。文字やデザインが印刷に反映しないのであった。もとより素人の身、トライ&エラーで原因を探っていくしかなかった。化けた文字を打ち込み直してもダメだったから、WINDOWSや当該ソフトのアップデートをし、挙げ句はプリンターのトナーまで新品に取り替えた(これが原因とは信じていなかったが、藁にもすがる? 思いはあった)。そうこうしているうちにプリンタードライバが2種類入っているということに気付いた。交互に試してみた。ページによってドライバを変えてみた。するといつの間にか、直っていったのである。今日の仕事の面目は保てたが、依然原因は不明のままである。このあたりは素人の悲しさはかなさ浅はかさ、ということになる。

 2月18日(火)

 パソコンの不具合をプリンタドライバのせいにして「暇なときに立ち寄ってください」とメールを入れておいたところ今日昼過ぎに早速件のセールスマン氏(2002年7月12日の項参照)が現れた。例によって誠実な対応をしてくれ、技術者とも携帯で連絡を取りあって、一時間半後に出た結論は「片方の京セラのドライバはちょっと重いので、メモリ不足かも知れない」というものだった。なんとなく納得して、ドライバのせいにしたことを恥じていた。「増設します!」と答えると「設定を変えることで、なおることもありますので、また連絡下さい」と当方をかばうようなことも言ってくれた。ともあれ、原因が判明してすっきりした。雪にはならなかったが、みぞれまじりの雨が降って天気の方はすっきりしなかった。本家の嫂死去の報せあり。食卓の上で線香を焚いて送る。

 2月20日(水)

  風の冷たい夜だった。雑木林を縫う道を飛ばすと風の唸り声が聞こえた。昨夜までぴんぴんしていた新人が寝込んでしまったという。電話をすると「全身これ、水みたいですよ」と弱々しい声で呟いた。その声が甦ってきて、あいつならすぐに回復するだろう、と希望を込めて言うと同乗の者らも、そうだそうだと同意した。

 2月22日(土)

 笙野頼子「水晶内制度」(新潮3月号)を読みあぐんでいたが、後半をすぎてやっとモチーフに突き当たり、いよいよ一気に読めそうな感じになってきた。『なにもしてない』が12年前の本で、以降藤枝静男ばりの“奇譚”をときおり読む程度だった。最近の仕事についてはほとんど知らなかった。難渋したのはそのせいかも知れない。この新作は、皮膚が触れる世界との異和を、言葉の力で切開しようとしているのではないか、現実感が時になくなるのも織り込み済み、ということに気付いてから読む速度が速くなったのであった。

 2月23日(日)

 久しぶりに跨線橋の下のケーキ屋さんに足を運んだ。透明ガラス越しに“宮川大介”に似た主人がケーキ作りに勤しんでいるのが見えた。場所はメイン通りに面した立派な新築ビルの一階に変わったが25,6年前と同じ姿である。木造二階建てアパートの一階(げた履き商店とも呼べないようなところ)から夫婦ふたりで始めた自家製ケーキの店である。愛想はいいがけっして無駄口を叩かない。職人の鑑みたいな人だった。勤め先の並びだったから開店当初からちょくちょく立ち寄った。配偶者の機嫌を取る必要に迫られたときなどは殊に重宝した。それほどに味は抜群だったのである。同世代の同僚らが競うように買い求めたのも今となれば同じような事情を抱えていたのかとつい昨日のことのように苦笑が漏れる。この10年ほどは年何回か家族の誕生日に注文するだけになっていた。昨年、一昨年はそれもなかったような気がする。今回は、明日卒業旅行に旅立つという女子学生へのささやかな餞別にしようと思い立ったのである。是非“職人の味”を確かめて欲しいというお節介な気持ちもあった。
  それにしても、この季節、この寂寥感はどうしたことだろう。これも、毎年のならいと言わねばならないのか。

 2月24日(月)

 かねて気になっていたことを思い切って訊いてみた。ひらがなの名札の苗字、どんな漢字を当てるのだろう、いくら考えても思いつかなかったからである。「瀬戸内海の瀬に、存在の在」とにこやかに教えてくれた。「せざいさん」 がぐっと身近になった。「長野の出です」とも付け加えた。いつもの通り道の家の表札には「鹿熊」とあってこれも目を疑わせる。娘の同級生に「たけのこ君」がいてわが家ではいっとき話題になった。いろんな変わった苗字があるものだ。それだけで“世間は広い”と思ってしまう。みぞれから雪へ。寒い一日だった。

 2月26日(水)

 長い一日となった。県立高校の入試日と特別授業が重なったためである。夜10時前からあちこちに電話をして受験の様子を訊いた。ひとりは、前夜急性胃炎になり、無理を押して受験会場に行ったものの一時間目を終えたところでリタイヤしたと母親が言った。選考の対象にはなるということらしいが、何とも無念なことである。別のひとりは問題をすっ飛ばして40パーセント分をふいにした、と報告した。いろんな事がある。十五の春はすでにして“悲喜交々”である。入試問題のうち数学の最後の一問に難渋した。答えは出るが、証明ができない。深夜近くなっても決着が付かず、途中ファミレスに立ち寄ってコーヒー一杯で約一時間考え続けた。補助線3本でやっとわかった。よほど稀有な図形感覚を要求している、と思った。直観を働かせた者が勝つ。正攻法で考えると、時間ばかり喰うということである。わが生徒のほとんどは後者の方(つまり生真面目、無骨、正直)であろうと察しがついた。

 2月28日(金)

 迫りくる雨の匂いとともに二月が終わる。この月が“受験の季節”ならばさしあたって三月は祭りの準備の、となるのだろうか。出立、旅立ちなどの言葉とも自身は縁遠くなっていることに気付く。一点突破、全面展開、こんなアナクロな言葉が思い出された。     
             


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