日  録 「過去が近くなってきた」 

2022年11月1日(火)

 月で区切ってきた日録が第240集に入る。2001年のスタートだからほんとうは260集以上になっていなければならないのだが、空白の月があるのだった。されど年に換算すると20年である。よくぞ続けてきたと思わないでもないが、一方で空白の日々が惜しまれるのである。その間ぼくは何をしていたのだろうか。

 調べてみると欠けているのは2009年9月から2011年3月頃までである。退職したあと、仕事を3つ掛け持ちしていた。朝は所沢、昼前後に狭山に移動し、夜は国立へと、車と電車を使って移動した。いまより若いとはいえ還暦を過ぎて1、2年のころである。

 よくぞ務まったものであるといまなら思うが魔の刻が待ち構えていた。10年の1月に職場で転んで膝の皿を割った。仕事はふたつに減らした。大地震を経験した。ここまでが空白期間である。日録は復活したが、12月まで国立の仕事は続けていた。しかし、12月にもう片方の膝の皿を割ってこれも辞めることになった。以来同じひとつのところで働きいまなお現役である。覚えていることと言えばこんな負の遺産みたいなものだけで、書くに値するとは思えない。としても、書いていたとしたならばまた何かが生まれていたかも知れない。いわば仮定法過去完了? であるが。

 
2022年11月4日(金)
 
 ぼくより20歳も若いIさんが先月末で転職した。8年近く一緒だったIさんとは近年いちばんよく話しただろう、くだらないことを言い合って笑っただろう。生活者然とした言動が身に沁みているので傍から見ればうさんくさかっただろうが、なぜかぼくは気が合った。若さをもらっていた気配がないでもなかった。いなくなると仕事中の華やぎが消えた。一気に年寄りになるような気がする。そんな、いわばLOST感、乗り越えていくためには「書く」しかないと思った。

 まだいけるだろうか、何ヵ月ぶりかに書きかけファイルをこわごわと開いた。


2022年11月8日(火) 

 配偶者が実家から持ち帰った古紙幣をとびきり分厚い雑誌に挟んでいたのだが、急に思い立って小さな箱に移し替えた。ページをめくって1枚1枚取り出しながら、これってむかしよくやった押し花の如しだなぁ、と挟むときには思いもしなかったことを思った。ちなみにその雑誌とは『新潮』の2014年5月号「永久保存版 創刊110周年特大記念号」である。近年亡くなった古井由吉と大江健三郎の対談(「言葉の宙に迷い、カオスを渡る」)をちょっと寄り道して読んだ。まるで道ばたのキレイな草花を摘むような所行、ほかにも読みたいものがいくつかあったが、本題に戻ろう。

 古紙幣「五銭」「十銭」「百銭」「五圓」「十圓」など30数枚のなかには兌換紙幣が2枚混じっていた。「此券引換に金貨五圓相渡可申候」というわけである。これは歴史の勉強である。金本位制とか、兌換中止(1931年)とか、忘れた知識を動員しなければ解けない。兌換の反対は不換と知ったところで詮索(再勉強?)は諦めた。なかに混じっている5枚の500円札(岩倉具視肖像)だけは見覚えがあり、実際に使ったこともある。調べると「現行紙幣」らしく500円の貨幣と「兌換」(この場合はこんな風に言わないだろうが)してもらえるかも知れない。

 さらに「100ルーブル紙幣」が1枚混じっていた。これを発行したのは1920年から1922年まで存在した「極東共和国」だというのでびっくりした。レーニンが日本軍のシベリア出兵に備えてつくった傀儡政権。この紙幣は短命国家にちなんで「緩衝紙幣」と呼ばれているそうである。ここは腰を落ち着けて勉強しなければなるまい。この紙幣がなぜいまここに、というのも知りたいところである。


2022年11月15日(火)

 今月は3日あき、4日あき、ついに7日ぶりの日記となる。もう中旬だが、大体において暖かい日が続いた。ちょっと寒いかなと思うような日は小春日和であった。一転、今日は寒い。夜中外に出て空を見上げると東南方向にオリオン座が横たわっていた。夜空はもっと冬だった。

 東山彰良の『流』を読んだ。これは稀有の小説だったが、読み終えてからもう一度『図書」11月号に載っていたエッセイ「魂に突き刺さった根」を読んでみた。モチーフを、つまり作品の「根」、舞台裏というべきものを語っていて迫力があった。根は真に通じるというのだ。

2022年11月18日(金)

 宮崎の畏友Mから久々にラインが入った。火野正平の『こころ旅』広島篇に薫風寮を推薦したが選外となったことを知らせてきたのだった。その寮のことはぼくもあちこちで書いていたのでそのうちのふたつの原稿を送った。慰めにはならないだろうが、暇つぶしに読んでくれと添え書きをした。直後にLINEのビデオ通話を10分ほどしたあとで、彼からはNHKあてに出した推薦文が送られてきた。ほぼ全文を書き写すと、

《私の心に残る風景は広島市南区出汐町にある巨大な倉庫群、正式には広島陸軍被服支廠(ひふくししょう)(通称、出汐倉庫)です。ここにはレンガ造り3階建ての巨大な倉庫がアルファベットのL字の形に4棟並んでいます。

《今から54年前の昭和43年(1968年)私は広島大学の学生寮(薫風寮)に入寮することになりました。寮の住所は広島市出汐町 官有無番地でした。(映画の題名の網走番外地みたいですね。)4月初め、私は列車で宮崎から広島駅に着きタクシーで寮へと向かいました。タクシーは大きな倉庫の周りを探し回ってくれましたが寮にはたどり着けませんでした。やむなくタクシーを降り、付近を訪ね歩いてやっとそれらしい話を聞きつけ、探し当てることができました。なんと倉庫群の一角、倉庫の中に寮はあったのです。

《この巨大な倉庫群は、明治37〜38年(1904〜05年)の日露戦争の折、広島に大本営が置かれたことで造営され、使用されてきたものです。昭和20年(1945年)8月6日に原爆が落とされた時には爆心地から2.7キロのこの倉庫は、その頑丈さの故に倒壊を免れ、多くの負傷者の収容施設になったそうです。爆心地に向いた壁の窓の鉄板は内側にへこみ、原爆の威力を感じさせていましたが、その鉄板は今でもそのままにあるはずです。この倉庫、私が入寮した頃は多くのトラックが出入りし荷物の積み下ろしなどで昼間は結構賑わっていましたが、夜ともなればさみしい所でした。

《倉庫の中にあった寮の床はコンクリートで広く、部屋は1・2階に5つずつで3階は真っ暗の物置でした。私の部屋の1階1号室は約21畳の6人部屋でしたが、小さい窓2つしかありません。暗くて重苦しい感じの寮ではありましたが、寮費は月200円(光熱水道費こみでも500円ぐらい?)と安く、私のような貧乏学生にはうれしい限りでした。(ちなみに当時のラーメンは1杯80円でした。)ここで50人余りの仲間たちと2年間を過ごしたのでした。

《先年、この倉庫群を取り壊すか、はたまた原爆遺構として保存するかが問題になっていると報道されたことがありました。ようやく何とか残す方向で話は進んでいるようでうれしく思っています。
正平さん、ぜひ行って、古くはあるものの、がっしり立っているこの倉庫群の威容を見て来てくださいませんか。
よろしくお願いします。》

同じ時に同じ空気を吸った者の一人にとっても、なかなかいい文章だと思った。もし寮が現存しておれば正平さんはきっと訪ねて、レンガ倉庫を見上げ、ため息をつきながら、過去を偲んでくれただろう。いまは保存がきまった建物群だけが都会の片隅で、青い空に向かって、呟いている。そう、今は昔であるのだ、と。


2022年11月19日(土)

「あれから50余年経ったということを失念していた。過去が近くなってきたというのは不思議な感覚だな」と畏友Y氏は言った。歳を取るにつれて、遠ざかるはずの過去が近くなる、その通りだ。けだし名言。

 自身に関して言えば、あ、あれをしておかなくちゃ、と考えた直後に、それはついさっき済ましたことに思い当たる。そんな経験も度重なってきた。夕飯を食べたすぐあとに、そろそろ飯にするか、と呟くことに似ている。こうなるといよいよ認知症的であり、どこまでが過去でどこまでが未来か判別できない。

 時間の不思議は肉体の不思議である。名言に触発されてそんなことを思った。


2022年11月22日(火)

 義妹が来たので野菜を採ることになった。何か手伝おうか、と訊ねれば、「したければして」と言うので一緒に畑に降りていった。抜いた人参や大根は重いので庭まで持ち運ぶ役目となった。蕪やホーレンソウ、ブロッコリーなどを二人が収穫している間、庭で車に入れるとかさばるだろうと思い大根と人参の葉を切り離した。

 すると戻ってきた配偶者は「全部切り落としたの?」と剣呑な表情である。「葉付き大根、葉付き人参などは都会では貴重なものだよ。葉は食べられるし、少なくとも何本かはそのまま持って帰らせるつもりだったのに」

 大根の葉の塩漬けも人参の葉の天ぷらも大好物なのに面目ないことをしたものである。まさに「あぁ、ぼくとしたことが、なんという失敗」。久々の農作業は、間が抜けていた。


2022年11月25日(金)

 午後1時過ぎ、車のなかで温度を表示させると26℃と出た。そんなにと、すぐには信じられないような数字であった。厚着の身にはまちがっていないとも感じる。平年よりも何度も高い気温となっているのが体感としてわかるのだった。

 40歳前後のときに教えた、当時中学生の生徒たちがいま40を過ぎた年ごろになっている。その頃の生徒たちはなぜかもっとも記憶に深く刻まれている。しかも心地よい思い出として残っている。

 個人史としては掌蹠膿疱症を発症して辛い日々だったはずなのに、仕事に関しては別だった。とはいえ掌の膿疱には気を遣ったものだった。これは人には感染しません、どうか安心してくれ、とあらかじめ弁明しながら板書などをしていた。そんなある日、生徒の母親で皮膚科医の先生と面接した。開口一番「先生、ちょっと見せてください」。手首を握りながら膿疱を診察してくれた。

 このときすでに病名もわかっていた。原因をさぐるためにいろんな検査もした。どれも苦しいものだったが、ついに原因を探り当てることはできなかった。何日か後にその先生の病院を訪ねた。ご主人の整形外科医が診てくれた。抗生物質をたくさん飲んだように記憶している。一年くらい通っただろうか。いつしか掌の膿疱は消えた。

 現在進行中のこの宿痾とももう30年以上の付き合いとなる。ビオチンを飲み始めて1年半ほど経つ。時々肩の骨は痛むが快方に向かっているような気がする。いちばん治って欲しいときに治らなかったのはなぜだろうか。原因がわからないからそれも判明しないのだ。よい生徒らに出逢ったこともそうであるように「定め」だったとしか言えないのだろう。


2022年11月29日(火)

 U-Nextで「ピュアなラブストーリー」という惹句につられて『初恋のきた道』を観た。心洗われる映画だった。舞台となっている1958年の中国の農村風景はまるでわがふるさとのようであり、そこに息づく人情もかつての日本の隅々で行われていたものである。それこそ貧しいけれどピュアだった。

 各地から集まってきた数百人の教え子が棺を担いで町から農村への長い道のりを帰る場面は人情の行き着く先として大いに象徴的である。日本では数年後に池田勇人の所得倍増が叫ばれる。いまの「投資倍増プラン」とはそれを言う人間の質も格も雲泥の差である。

 ところで監督チャン・イーモウ(張芸謀)の名前に聞き覚えがあったので調べてみると『紅いコーリャン』の監督だった。納得である。



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