日  録  枝伐る日々 

2023年1月2日(月)
 
 あけましておめでとうございます。本年もご愛読のほど、よろしくお願いします。

 三連休の初日、昼過ぎてから初詣で。一昨年、昨年に次いで3年連続でお詣りする笠幡の尾崎神社である。ことしは去年よりも人出が多かった。向かいの空き地に2箇所臨時駐車場が設けられている。去年はなかった。地元の人に慕われ、支えられてきたお宮さんなのだろう。
 
 陸の岬のように突き出た高台にある(それが尾崎という名前の由来らしい)せいか境内に入った途端風が冷たく感じられた。去年とちがって鈴を鳴らすことが出来た。親子連れや高齢夫婦らの間には穏やかな雰囲気が漂っていた。コロナ禍も4年目に入ると慣れからくる余裕を生むのだろうか。

 ところで更新のために去年1月の記事を読んでいると、「あらくれ」「新世帯」を読み終えた、「とろろ汁の丁子屋」(静岡)の連想から自然薯の父、三浦哲郎の「じねんじょ」、さらには中島みゆきの唄や岡田幸文さん、山本かずこさんの詩(それぞれ「第二章」「花も鳥も風も月も」)を口ずさみ、涙する、などと述懐し、まことに多情多感である。1年前を見習ってことしもいこうぜと思わず呟きたくなる。

 去年のこの月の締めくくりは大井武蔵野の医師が訪問先で銃殺されたことに憤っている。公もまた忙しかった。


2023年1月7日(土)

 やっと動きはじめ、これはモノになるかと思ったところで三連休が終わった。5日からは久しぶりの五連勤である。通常は3勤1休2勤1休のリズムだから五連勤は覚悟がいる。前はそんなに大変とも思わなかったが、最近は休みが待ち遠しくてたまらない。今日はやっとその中日を終えた。あと2日である。うまくいくだろうか。


2023年1月10日(火)

 さっき日付が変わった。夕食のあと2時間ほど眠ったがいま起きている。ぼくは74回目の誕生日を迎えるというわけだ。さっそくもうひとつの夢の中に入り込む。なかなか動き出さなかったものがのそりのそりと動いていく。まるで亀の足のようだ。一気呵成とはいかないのが苦しくて辛いところだが、亀が後戻りするのを見たことがないので、われもまた前進あるのみ、と云々。亀の歩みが頼もしく見える。

 ケーキでささやかにお祝いをしてもらえることになって、買い物帰りに近所のコージーコーナー・工場直売店に立ち寄った。5号のデコレーションケーキはやめてひとりひとつずつにしようと決めていた。が、実際にケースの中を見ていると、ろうそくを立てて、ふっと吹き消すのも悪くないなぁなどと気持ちが揺れた。

 結局は元の予定通りとなって、それぞれが好きなものを選べば? と言うと、みんな同じのがいいにきまっているわ、と配偶者は主張。かくしてモンブラン3個をテーブルに並べて、夜中の、それも日付が変わる直前に、HAPPY BIRTHDAY TO ME。


2023年1月13日(金)

 未明から朝にかけてU-Nextで2本の映画、中国映画『SHADOW/影武者』と韓国映画『レッド・ファミリー』を観た。前者はチャン・イーモウ監督の武侠アクション、後者は北朝鮮の工作員の物語で、どちらも題材は重いが、つい惹き込まれてしまった。
 
 天に向かってまっすぐ伸びた柿の木を伐るためにノコギリを買ってきた。前回、といってもずいぶん前のことになるが、幹の半ばくらいまで切り込んだもののついに切り落とせなかった柘植の木で試してみた。ものの1分とかからずに切り落とせた。あの難渋は何だったのかと思わざるを得なかった。

 「よく切れるのを持ってきてあげようか」と通りかかった老婦人に言われたのだった。切れないノコギリを使っていることをその人は一瞬で見破ったのだ。はじめて見かける人だったが、その人はぼくのことを知っていたに違いない。道具さえあればいつだってやる、というのは言い訳である。としても、道具は大事だなぁ。

 次の休みにはいよいよ柿の木を伐るつもりだが、近所の人が助太刀してくれることになった。いずこの人も、見てられないのですよ、という気分であるのだろうか。ありがたいやら、情けないやら。


2023年1月17日(火)

 予定通り庭の木の伐採をした。天に向かってまっすぐ伸びた柿の木、常緑の葉の生い茂ったネズミモチ。ともに10メートルの高さになっている。柿などは実が成ってもとても届かず鳥の餌となる(それはそれで意義ありだが)。3年間放ったらかしにしておいたツケがまわってきた。もう一本はサルスベリの木。いまは葉も落ちて丸裸の状態ながら夏は庭半分を日陰にするほどの広がりようで存在感がありすぎる。

 近所の人が機材を持って駆けつけてくれた。柿の木は上に伸ばさないで横に伸ばさないと実を取ることができません、とほぼ根元からバッサリ切ってくれた。手分けしして枝を切り落とし、後片付けをして気が付くと午後1時半になっていた。9時前に始めたから4時間ぶっ通しだったことになる。あっという間に時間が過ぎていった。少し気がかりは残ったが、見晴らしが見違えるほどよくなった。

 そんな風で今日の休日は終わりである。伐った枝が頭の天辺を直撃してたんこぶが出来たのは愛敬というものであった。取りかかる前にYouTubeで「広島高師の山男の唄」を聞いて景気づけにしたのだったがそれの効験だったのか。たんこぶができるくらいだからまず大丈夫、大けがにならなくてよかったと思えるからだ。また手伝ってくれた人でなくて、これもよかった。


2023年1月20日(金)

 ネズミモチの3本残った枝、どれも直径7センチくらいの太さ、高さは7メートルに及ぶものを朝のうちに伐り落とし、散乱した枝、葉などの片付けを行った。午後には暖かさにも釣られて片付けを続行、なかなか済むものではない。大きく伸びた木蓮とモミジの木がまだ残っているので近々にも枝切りをしなくてはならないが、まずは片付けを優先した。朝昼合わせてかかった時間は3時間半である。まだまだ道は遠い。


2023年1月24日(火)

 木蓮とモミジの枝を伐る前に、切り落とした枝の片付けを思い立った。枝というのは本当に自由だ。くねくねとあちらへこちらへと伸びている。ゴミとして出せるようにするためノコギリとはさみを使って細かく砕いていった。縦横無尽な枝ぶりは砕きにくいが敬意を催させる。ことにサルスベリの枝は複雑だ。

 午後から3時間、いくつかの所用(灯油購入もそのひとつ)を済ませて帰ると俄に天気豹変。パラパラと雪が舞った。初雪だったがすぐに止んでしまった。


2023年1月26日(木)

 Twitter を眺めていて「小学一年生の娘に即興の怪談を聞かせるとき、これは友達が実際に経験したことなんだがね、と紋切り型に切り出すと、「その言葉は最後に言ってもらったほうが怖い。え! こんな話が本当のことだったんだって思うから」と構成をダメ出しされた。」という記事に出合った。7歳にして物語の構造に思いを馳せている。なかなか慧眼ではないだろうか。

74歳のぼくは次の idea がなかなか浮かばなくて呻吟の日々を送り、基本的に自分のことを書くスタイルでありながらあれこれ構造をいじり、本当らしいウソをめざす。つまり過去はどんどん変容していくわけだが、そこからもっとも「怖いモノ」を掘り出そうとする。人が読んで感動するかどうかは構造のあるなしに関わると信じている。そんな時にこの記事は目から鱗であった。7歳の娘とはぼくの孫娘である。


2023年1月27日(金)

 マウスが勝手に範囲を指定してつきまとうことがこのところ何度かあったのでエイトに連絡してみた。久々の質問だったがすぐに返事が返ってきた。「いちばん最初に疑われるのはマウスのよごれ。一太郎だけに起こる現象ならば作業が長いことによる変異」とある。的確な回答に思えた。事実マウスを代えると直り、いま使っているマウスを掃除すると直った。

 ところでエイトは冒頭の挨拶で、本当に寒い日が続きますね。たばこを手にベランダに行くのがつらいです、と書いていた。はじめは気にせずに読んだが、あとになって、ベランダで吸うということは同居者がいるということかな? と推理した。すわ、結婚、との邪推もはたらく。そんなことはエイトは一言も言わない。代わりに7年前に松山へ移住した新人の近況を教えてくれた。こちらには Instagram 経由でエールを送った。これもすぐに返事が来た。今日の休日はなつかしいふたりと肉声で会話した気分となった。


2023年1月31日(火)

 冬芽がいっぱい付いた木蓮の枝切りを始めようと庭に降りたのが9時すぎである。となりのモミジが気になったので、まずその枝を何本か伐った。モミジもまた赤い芽を節々に付けている。そうやってやがて来る春を待っているのだと思うと申し訳のない気がする。あるがままの姿でいたいのに、人の都合、陽光をさえぎる、葉が落ちて公道に散らばる、強風で倒れたらどうする、と心配されて短くたわめられていく。木蓮は高さ20メートルもあり、道路にはみ出した何本かの枝を伐っただけできょうはおしまいとした。負い目があったか。午前10時半だった。

 伐ったら伐ったで枯れ木が燃えたらどうする、と心配をかさねる。折しも渡良瀬の川原で枯れ草に火が付いて燃え広がっている様が映し出されている。この庭がそうならないとはかぎらないというのが心配性たる所以である。よって水撒き。冬の水は冷たい。手がかじかむ。

 


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