日  録 どうぞの呼び鈴   

2023年3月2日(木)

 いつの間にか三月である。ここ数日汗ばむほどの陽気で、春本番、4月中旬なみなどと言われている。ただ夜になると肌寒く感じられる。一日外に出しておいた龍眼の木を迷った末に玄関の中に入れる。最低気温はひと桁台に下がっている。

「神の餅」を脱稿した。全10章、119枚くらいになった。7年ほど前にMP・WEB版に連載した「一対」の続編なので今回もその場に連載させてもらえればと思いながら書き継いできた。2019年12月に急逝した岡田幸文さんに届けたい一心でもあった。アイデアや措辞に思い悩むたびにその思いが強くなったから、苦しい道のりも乗り越えられた。また新しいものを書く手がかりもつかんだように思う。MPの山本かずこさん、「一対」のときに世話になった副編集長の中村剛彦さんに原稿を送付する。


2023年3月6日(月)

「三勤一休二勤一休」のリズムがくずれて今週は「一勤一休四勤一休」だったせいか疲れがひとしおである。なにがそんなに疲れるのかと考えてみると、主に足の筋肉である。仕事中の歩数は9000歩前後である。たまに1万歩を超える。そのときは人知れず快哉を叫ぶ、みたいなところがあるが、勤務4日目の今日などは歩くのすらよぼよぼである。歩き始めた赤ちゃんにも負けるだろう。ちなみに歩数は9228。もう歩きたくなかったのに、惜しかったと思ってしまう。万歩計病であろうか。


2023年3月10日(金)

 柳広司の『太平洋食堂』(小学館文庫)をやっと読み終えた。一ヵ月近くかかってしまったが、読了して、あらためていい本だと思った。明治政府の一大捏造「大逆事件」で処刑された紀州・新宮の医師大石誠之助が生き生きと甦ってくる。「真実を露にする言葉こそが、この理不尽な現実に立ち向かう唯一の武器」と考える大石誠之助を、幸徳秋水、堺利彦、管野須賀子などの「主義者」や、与謝野鉄幹・晶子などの文学者との交流を通して立体的に描いている。

 柳広司は『図書』3月号で、いまの政権を「千載青史に汚名を残す」と批判している。「歴史の中であなたたちの名前が永久に糾弾されるよう書き残します」(「無茶苦茶」)。柳広司は今の大石誠之助のように見える。島田雅彦や平野啓一郎の発言にも時に同じことを感じるが、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」こんな言葉が甦ってくるのだった。


2023年3月14日(火)

 今日はホワイトデーであって、バレンタインデーではない。チョコレートやクッキーが近隣の家族で行き交うようになって久しいが、そのせいか、どっちがどっちか分からなくなっている。それはつまりどちらの日が男性から女性へかという問題である。一方が分かれば他方も分かる。分からなくても別に困りはしないのだが、家に届いていた群馬名物のお菓子を見ながら、ホワイトデーはどっちから? ことしもすぐには「正解」が出てこなかった。

 所用で出かけたとき「買わねば」と配偶者が言った。「シャトレーゼなら途中にある」「ガトーフェスタとは格がちがいすぎる。近くにアンデルセンがあればいいんだけど。ないよね」「チョコでなくてもいいのか」「当たり前でしょ」そんなとんちんかんな会話となり、行く先々でいくつかのお店を覗いたが結局コージーコーナーのクッキーを配偶者が選んだ。これも「正解」が闇の中に消える大きな理由である。来年になればぼくは自分で買ったりしないくせにまた悩むだろう。


2023年3月17日(金)

 温州櫁柑の種をゴムの木のかたわらに埋め込んでおいたら芽が出てきた。あれからほぼ一年経って葉が5、6枚に増え背丈も5センチを超えるようになった。葉は艶々しい緑色をしているし、おりしも春の陽気が続くので、庭に植え替えることにした。温州櫁柑にとっては「ゴムの木よ、さようなら。いままでありがとう」の心境だろうと推察するが、櫁柑の実を成らせるのは何年後だろうか、いやこの広い庭で無事に大きく育ってくれるだろうか、というのがぼくの心配である。

「植え替えたよ」「あらどこによ。わたしも花の種を植えたのよ。ちゃんと囲っておかないと踏んづけるわよ」と配偶者は言う。日日草は立派に育って花を咲かせるだろうが、こちらは早くも前途多難である。がんばれ、櫁柑。


2023年3月21日(火)

 玄関の呼び鈴がずっと故障したままになっている。呼び鈴が鳴らないと困るのは
主に荷物の配達のときである。予め来るとわかっている荷物や再配達を時間指定で依頼した場合、車の止まる音や玄関の戸が叩かれる音を耳を澄まして待っていなければならない。これらの音を聞き分けるためには窓際から離れるわけにはいかない。待つ間はずっと何時間も神経を張り詰めている。

 数日前、仕事から戻ると「もう今日は疲れ果てた」と配偶者が言う。「畑仕事?」と訊くと、さにあらず、「町内会費の集金に会長が来るというのでずっと待っていて、待ちくたびれた」。呼び鈴が鳴るようになっておればここまで疲れはしない。

 近所の人たちのほとんどは庭先から訪ねてくれる。事情を知ったクロネコヤマトも最近はすぐに庭に入り込み居間のガラス戸から顔を覗かせる。他の人もそうしてくれればいいのに、とぼくなどは思うがすべての人にそう願うわけにはいかない。意を決してホームセンターに出かけた。

 顔が見える会話ができるなど最新のインターホンはさすがに手が出ないが、ワイヤレスで100メートル程度に届くチャイムもピンキリであった。前のはキリの方で短命であった。同じ轍は踏むまいと今回はピンとキリの間くらいのものを買った。ずいぶん格を上げることになった。
これで自身も含めて家族みんなの神経が安まるならばいうことはない。


2023年3月24日(金)
  

自意識過剰とは例えば、他人の目を意識するあまりに自分を大きくまたは小さく見せたり、有り得ないこと、妄想めいたことを表情や行動に
示すこと、である。自意識(自己意識)はあって当たり前、なければ困る代物だが、過剰なのははた迷惑かも知れない。ここに「普遍ロマンチシズム」という概念を投入するとどうなるか。目下の課題である。


2023年3月28日(火)

 どこかの高校の入試問題に「3969はどんな数の平方か」という問題が出されたらしくYouTubeにその解説動画がアップされていた。二通りの解き方を示しますとあったので覗いてみた。ひとつはきっと「開平法にちがいない」と思ったからだ。

 実際はそうではなかったが、あの開平法が咄嗟に閃いたのは自分でも驚きだった。試してみるとまだやり方を覚えているようであった。ただしそれは機械的な手順であって原理をマスターしているわけではない。いつまでも泳ぎ方を忘れないようなものである。

 いまさらながら口惜しくなって、原理を知るために「高校数学の美しい物語」というサイトに入った。サイトの名前は素敵だが、開平法の解説というか証明はわかりにくかった。インド方式のかけ算くらいのつもりでいたが、ついに放り出す羽目になった。開平法、いまだやり方を覚えているぼくは変だが、これを編み出した人はやはり凄いと思う。きっと美しい人たちにちがいない。


2023年3月31日(金)

 故障していたチャイムを取り替えて10日ほどが経った。故障が長きに及んだので「呼び鈴、使用可能となりました。どうぞ、押してください」とメモを貼り付けた。どうぞの呼び鈴、である。この呼び鈴をはじめて鳴らすのは誰か、と注目した。

 次の日、誰か鳴らした? と訊くと同居する娘の名前を挙げた。これは試し押し、いわばいたずらの類でカウントできない。3日目、ピサを注文することになった。ピザーラの若い配達人が押してくれた。第1号であった。5日目、休みで家にいると鳴った。勇んで出てみると新聞の勧誘だった。これが第2号で、第3号を待つのはもう飽きていた。待ち人を待つという気持ちよりも、安心して居間でくつろげることの方が勝ったのだった。


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