日  録  連載開始 !?

2023年4月3日(月)

 暗合という言葉は「期せずして一致すること。偶然の一致。」という意味でよく使われるが、これには対の「明合」があると知った。ともに中国で陰陽五行説を元にして生まれた「四柱推命」という命運推察法に由来することばらしい。

「四柱推命」は難しすぎるのでパスだが、暗合の対ならば明合には「必然の……、明るみに出ること」などの意味になるのだろうか。もちろん日常生活で見聞きしたことはない。

 ないが、なぜか「御明算」を思い出した。珠算で答えが合ったときに大声で唱和した記憶がある。人の成功を喜ぶ心根であったのだろうか。大きな講堂に机を並べた夏休みの「そろばん教室」でのひとこま。高校生が山奥の小学校まではるばるやってきて教えてくれた。さらには「御破算(ごわさん)で願いましては」というのもあった。


2023年4月4日(火)

 3か月ぶりの通院日だった。いつもの血液検査のほかに心電図やレントゲンなどが予定されていたので少し早目に出かけた。受付に行くと、

「(担当の先生が)きのうから一週間ほど急にお休みとなりましたので、今日はお薬の処方箋だけにさせていただきます。よろしいですか。次のご予約はいつも通り3か月後? それとももう少し早くしますか?」

「そうですね、できれば2か月後くらいに」

検査項目に取り消し線が入った受付票を手にすぐに会計待ちとなった。こんなことははじめてだった。予約時間が1時間以上ずれ込んでやっと診察となるほどの多忙な先生である。待ち時間のために新書を忍ばせてきたが読む時間もなく処方箋を手に薬局へ向かうことになった。

通院が早く片付いたのはよかったものの、先生の身に何かあったのだろうか、と患者のわれは心配する。あんなにも献身的な先生(元院長)だから、お体お大事に、と呟いていた。


2023年4月10日(月)

 生まれ故郷には「鮎河の千本桜」というのがあって花の季節には多くの人が訪れる観光名所となっているらしい。写真を見ると野洲川の源流・うぐい川(数年前過疎のために廃校になった小学校の校歌の一節にも登場する)の両側にずらりとソメイヨシノが立ち並んでいる。川面に映る逆さ桜もなかなか壮麗である。

 ところでその名所がどのあたりであるのか、だいたいの見当はつくがぼくにはもはや特定できない。花の乱舞も土手の並木道も実見したことがない。文字通り「ふるさとは遠くにありて思ふもの」の心地がするのである。

 されど「千本桜」に反応しないわけはない。わが青春は京都伏見の「千本鳥居」に端を発しその呪縛からいまだ解放されていないようである。そんな呪縛を小説の題材としてきたが、さらに一篇をミッドナイトプレスのWEB版に連載できることになった。ここはまさに青春は遠くにありて思うもの、となっている。時間と空間をともに超えて、遠いのであるが、近くもある、不思議な感覚の虜になった結晶であるか。


2023年4月13日(木)

 ふるさとのことを書いたところ近くの町に住んでいる父方のいとこからLINEが入った。観光名所「鮎河の千本桜」には毎年旅行会社が企画したバスツアー客が大挙訪れるなどのふるさと情報を教えてくれた。近年いよいよ疎くなっている身にはへぇーと思うことも多かった。誰彼の消息を語ったあと彼は「こうやって話せるいとこも少なくなっていきます」とも言う。

 腹違いの兄が亡くなったとき甥が取り寄せた戸籍抄本を見せてもらったが父には7人の妹がいたらしい。小さな頃はお盆や正月に「叔母たち」が子供連れで実家に帰省してきた。どこに住んでいる誰かは分かった。八丁野とか黒滝とか地名を冠して呼び慣わしていたからである。どんな関係かが分かるのは高校生になった頃あたりで、それまでは何も知らずに接していた。それでも立ち居振る舞いや話しぶりで血のつながりは実感できた。どこかなつかしくもある存在であった。

 いまとなっては父方のいとこがどこの誰それとはっきり思い出すことはできない。のちに町議会議員になるいとこが「「いとこ会」を作ろうぜ」と会うたびに言っていたのはもう何十年も前のことである。それが実現しておれば名簿が残っていただろうにといまさらながら口惜しい。嗚呼、まぼろしのいとこたちよ。 
 

2023年4月14日(金)

『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)は800頁を超える部厚さである。寝っ転がって読むには適さない。最初の2篇「奇妙な仕事」「死者の奢り」を読んだ。ともに清新な感じがした。

「本はそんな風にして読むものじゃない。居住まいを正して、机の前で背筋を伸ばして、ちゃんと読まなきゃ、かつてあなたはそう説教したけど、いまやこの体たらく、知らないうちに眠っている、本はといえばベッドの隙間に落ちている。ときに行方不明になる」

 出逢った20代の頃のことをちゃんと覚えている配偶者はそんな風に揶揄するかも知れないがこの『自選短篇』だけは若い頃の気持ちになって、身体を奮い立たせて読まねばなるまい。そんな気になった。


2023年4月18日(火)

「あれは何という木ですか」通りかかったKさんにカエデの向こう、モクレンのこちら側でひっそりと佇む木の名前を聞いた。Kさんは木の元に入り込んで白い幹に手を当てて「キンモクセイですね。いい香りがしすま。高級な木ですよ」と教えてくれた。謎がやっと氷解した。そうか、キンモクセイだったのか。いままで日陰にいて花を咲かせることを知らずに過ごしたのか。冬にKさんの助けを借りてモクレンもカエデもサルスベリも短く伐採したからやっと檜舞台に出てきた。秋が楽しみである。


2023年4月20日(木)

 詩の雑誌「ミッドナイトプレスWEB版」で小説「神の餅」の連載が始まった。題字、写真、紹介文などを読んでいるとひとつひとつの言葉のなかからある情念が立ち上がってくる。

 今回第1章「餅の変容」が発表されたわけだが、その自分の文章からも同じものが湧きあがる。いろいろな人の手を経て世の中に飛び出していく、もう自分のものではない、といえばあまりにもありふれているので、率直に言えば、編集に当たってくれる山本かずこさんの優しさと厳しさを兼ね備えた息づかいが聞こえてくるわけである。こんな感覚はもう久しく味あうことがなかった。また何かを書こうという気になる。山本さん、ありがとうございます。


2023年4月21日(金)

市議会議員選挙の期日前投票に行ってきた。社民党の候補者がいれば入れるつもりだったが、ほとんどが無所属であり、公認候補はいなかった。社民党にこんかい拘るのは子どもらが中学の時の社会科の先生が隣の市では社民党で出ているからだ。そうでなくても、すたれゆく福島瑞穂の党には何かしら応援したくなる。


2023年4月23日(日)

 昔のヒット曲で「昔の名前で出ています」というのがあり、それが不意に聞きたくなった。正確には「曲」というよりは「歌詞」を確かめたかった。歌はやはり高音の小林旭だろうと思い検索をかけてみた。すると中1の「東亜樹」がカバーする「昔の名前で出ています」も同時に出てきた。中1(2021年当時)とあるのでそのギャップに惹かれて聞いてみた。上手いうえに味がある。

 6歳のときの「みちのく流し唱」は可愛いとしか言い様がない。小学6年生のときに一宮の名鉄百貨店で行われた「アイドルコンサート」は1時間以上の長編だったが、歌いながら客席を歩き回って、爺さん婆さんたちに握手して回る姿はどこかなつかしかしい風景だった。芸は身を助けるというが、「あずまあき」は堂々としてみんなの孫娘として存在する。芸は人を成長させると言わねばならない。


2023年4月25日(火)

 まだ陽射しがあった朝、車を洗っていると足元に置いた青いバケツに白い蝶が一匹やってきた。地面の近くをゆらゆらと舞っていた。夕方にも雨が降り出し明日も一日雨だというのに何ヵ月かぶりに車を洗い始めた男がよほどめずらしかったのだろう。蝶の視線を感じたが、いつの間にか黄色い花の先に戻っていた。

 刻が経って道路よりの庭で蹲る茶色い猫を見つけた。こんもりと丸まった背中しか見えなかったので近づくと顔を上げて一瞥した。少し前までの陽だまりがよほど心地よいのか警戒心もなくそのまま蹲っている。

 昆虫も哺乳類も同じものとして識別するのは人間であるぼくだった。


2023年4月28日(金)

 新潮5月号の「愛がすべて」(山ア修平)を読んだ。面白くないうえに琴線に触れてこない。さらに「これが分からないようでは現下の文学を語る資格はない」と脅されているように感じたが、分からないものは分からない。同誌は大江健三郎の追悼号でもある。「永遠の大江文学」からずいぶん遠くにきたものである。取り残されたように感じるのも故なしとしない。

 小山田浩子の「カレーの日」(連作3)についても同様であった。これは「小さな小さな小説」である。小説はそもそも大説ではない。小さくてもいいに決まっているが、志は必要だろう。

 この作品は「夫」の日記風モノローグ、延々とカレーについて語る。改行の少ない文章が続き、「どうでもいいこと」が執拗に描写される。前者とちがってすいすい読めてしまうが、つまり表面(おもてづら)はいいけれど共鳴しない、腑の底に墜ちていかない。ただ夫婦の関係に戻っていく最後の2、3頁はさすがと思わせる。多くの読者を獲得している理由が納得される。



過去の「日録」へ