日  録  庭に熊笹?


2023年5月2日(火)

5月になった。寒暖の差が激しい日々が続いていたが今日は爽やかな薫風が吹いた。

「ブレンドひとつアイスコーヒーにしてください」「アイスワン、ホットワンね」「はい。ごめんごめん、暑いよなと思って」「まだ九月は夏だよね、十月も怪しい」「夏と冬ばかり長くなって……僕の子供が大人になる頃はどんな日本になっているかと思うとときどきゾッとするよ」

これは小山田浩子「カレーの日」(新潮5月号)の最終段落の一節である。このあと小説は一気に引き締まってよくなるのだったが、それは措くとして、この認識は共有できる。秋がない、そのうち春もなくなる、そんな悲観論に収束していくが、ともあれ今日は春の一日だった。  


2023年5月4日(木)

  ドラッグストアの入り口近くにある新聞スタンドに緑色の毎日新聞が入っていた。おぉ、と仰天。一部を買い物カゴに入れた。今日がみどりの日なのでそれにちなんだ趣向とわかった。もし全ページが緑色なら画期的なのに、と思いながらレジを通す前に開いてみた。緑色に彩色された頁は4頁だけだった。本編はいつも通りの白黒であった。が落胆はしなかった。緑の頁では写真をふんだんに使って日本の自然遺産・屋久島や白神山地などを特集していたからだ。

 新聞を宅配でとらなくなって久しい。ニュース記事は主にインターネット(中國新聞デジタルなど)で読むが、コンビニでたまに実新聞(?)を買うことはある(そのときは朝日新聞)。今回「みどりの日」の毎日新聞でいくつかの記事を読んだが、漢字の存在感はいまなお侮りがたいと感じた。

 三面には詩人・映画監督の福間健二さんの訃報(すでにSNSで知っていた)記事が載っていた。ミッドナイトプレス経由で詩集を贈ってもらったり、佐藤泰志氏のことで手紙のやりとりをしたことがある。もう何十年も前のことであるが記憶に強く残っている。謹んで哀悼あるのみ。


2023年5月9日(火)

 居間のチェストの前を通って廊下に出ようとすると音が鳴る。上に乗っている写真立てや陶器製のシーサーやチャグチャグ馬コの玩具などが畳の軋みに釣られて音を出すようである。ときに呼びかけられているようにも感じるので最近特に注目するようになった。音の仕掛けは分かったが、次はなんと言っているか知りたいと思う、そんな心境である。

 写真立てに入っているのはほとんどが孫の写真である。ちょうど目の高さにあり、どの写真も笑っている。ここに音はないがどのスナップも何か言いたげである。こんなことを話したいのだろう、叫んでみたいのだろう、と見る度に想像してきたこともある。

 さて、チュローン、ココーンをどう翻訳するか。


2023年5月14日(日)

「何の音?」すれ違いざまに配偶者は聞いた。「お腹だよ。最近よく鳴るようになっったんだ、ゴロゴロ、グーグー って」そう答えながら奇妙なものだと思う。物心ついてから壮年期まで「おなかの音」に気を留めることはなかった。お腹が空いて、あるいは腸が活動をはじめてこれまで数え切れないほど聞いてきたはずなのに記憶にも残っていない。それがこのところ立ち上がったときなどにその音を聞くとお、また鳴っている、と思うのである。ネットでは「腹鳴」などと解説してあったがぼくには「腸活」、生きている証なんだろう。もちろん人前で鳴っても恥ずかしくない。聞いた人はびっくりするかも知れないが。
 

2023年5月16日(火)

夕べから朝にかけて韓国映画2本をU-Nextで観た。ひとつは『無垢なる証人』もう一つは『未成年』、ともに2019年に製作されたものであった。

『無垢なる証人』は殺人事件を目撃した自閉症の少女と国選弁護士との交流を描いた映画であり、自閉症についての知見が生かされ(それを知る驚きもあるが)ふたりの心の通い合いは感動的であった。

『未成年』はお互いの親が不倫関係にあるふたりの女子高生が「いちばん大切な時間」を乗り越えていく物語であった。設定が面白いなぁと観はじめたが後半くらいからぐいぐい惹かれていった。赤ん坊のまま死んでしまった「弟」の遺灰をジュースに混ぜて飲むラストシーンは凄かった。

 いま大江健三郎の「セブンティーン」を読んでいるのでもう一つのセブンティーンだと思ったのかも知れない。これは映画の「純文学」である。


2023年5月23日(火)

 雨の一日である。雨後の竹の子とはよく言ったもので、パソコンに向かっていると左手の東側の窓の外にぐんぐん成長する竹が何十本も見える。いちばん高いのは優に2メートルを越えている。短いものもまだまだ伸びていく気配がする。ここは裏庭に当たるので普段の手入れもついおろそかになる。いますぐ切ろうと思うがあいにくの雨である。

 なぜこんなことわざが生まれるのかネットで調べてみると、《植物の細胞が勢いよ く分裂する部分を生長点と呼びます。多くの植物は茎や根の先端部分に成長点があるが、竹はそれぞれの節の上端にも生長帯という分裂組織がある。これにより、先端だけでなく、全体に伸びていくのです。》とあった。竹の節は伊達にはついていないのだ。成長点とはなつかしい理科用語だがかつてそれを教えていたぼくは竹に関してだけ(?)は節穴だったか。

 さらに解説は続く。《その竹が伸びていく力が強い秘密は、地下茎にある。竹は地下に長々と地下茎を張り巡らせていますが、この長い地下茎がたっぷりと養分を吸って蓄えているのです。その養分のおかげでグングン成長することができるのです。竹がこれだけ速く成長する理由としては、林の中で光が届く高さまで急いで伸びる必要があるからと考えられている。》

 人もかくありたいと思うが、気付くのが遅すぎたかも知れない。反対側の軒端には熊笹の葉に似た植物が自生している。ここ数年この時期にひょっこりと現れる。こちらはあまり日当たりを気にせず悠々と風に揺れている感じがする。名前はいまだ判明せず。これならまだ間に合うか。

2023年5月26日(金)

 休日だったがいつも通り5時に起き、7時には庭に出ていた。大ぶりの植木鋏を手に地上に出てなおもぐんぐん伸びる竹を伐って回った。そのあと2本のブルーベリーに網を被せる作業に入った。

 今年もたくさんの実が成っているが、小鳥に食べられる前に収穫したいとの思いからである。去年はいくつも食べられずに終わったので無念の気持ちでいると近所の人が「網を被せれば」と助言してくれた。野菜の防鳥網を取り出したが、絡まり、もつれてなかなかイメージ通りにはいかない。難渋したが、約1時間没入してなんとか被せ終えた。出来を点検に来た配偶者は隙間の大きい網なので小鳥が入り込んで出れなくなるかも知れないと心配顔だったがダメ出しはしなかった。今年は鳥より先に人が食べられるかも知れない。

 今日は思いついたアイデアやことばをすぐに忘れてしまって思い出せない日だった。こんな調子だとメモ用紙とペンを手に移動しなければならない。昼から夜にかけてやっとヒロイン(?)の命名に辿り着いた。その「咲那」と防鳥網が今日1日の収穫であった。


2023年5月30日(火)

 通院。2ヵ月前は突然の休診となり薬だけを処方してもらって帰ってきた。今日は先生がいるので診察もある、そこで先回パスしたレントゲン、心電図などが組み込まれていた。予約時間の1時間前に着いて所定の検査を済ませて待っていたが、丁寧な先生だけに診察は一時間以上遅れた。
 
 血液、心電図などはあまり大きな変化はなかったのか「いまのまま治療を続けましょう」となったが、何年か前の胸部のレントゲン写真を画面に呼び出して見比べながら先生は「心臓が大きくなっている」と予想外のことを言った。「血液検査のBNP(心不全)の値も増えているから、心エコーをやってみましょう」。

 そうか、心臓か。とぼくは思う。このからだが倒れるのは腸関係に支障を来すときだろうと漠然と感じていた。小さい頃からずっとお腹は鬼門だった。小学校低学年の頃、「お腹が痛くなったらどうしますか」と先生に聞かれ真っ先に手を挙げ「トイレに行きます」と答えて先生だけではなくクラスみんなの失笑を買った。尾籠な話題で恐縮だが、ぼくは「本気」で信じていたのだった。それは信仰みたいなものとなっていまだに心の奥底に残っている。

 なのに「心(しん)の病」だというのである。病院から戻って何時間かは心臓がドクドクと早撃ちしていた。気のせいばかりとは言えなかった。心弱気者よ、心して生きよ、大事に生きよ。これは空念仏のようである。



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