日  録 小説やつれ  

2023年10月3日(火)
 
 庭のコスモスが満開の模様である。いつもの年よりも半月以上遅れていると思われる。コスモスは日が短くなると花を咲かせる短日植物に分類されるそうだが、この遅れは「猛暑」とも関係があるような気がする。背丈も人を越えるほどのものが多い。花の色は淡いピンクが主でなかに紅と白が何本か混ざっている。もう十月である。高い空に、コスモスはお似合いだ。


2023年10月10日(火)

 免許更新に向けてのもうひとつの関門「高齢者講習」の日である。第一の関門は先月受けた「認知機能検査」。このふたつをクリアしないと運転免許を更新してもらえない。歳を取ると面倒なことばかりやつてくるが、この制度ができてもう25年くらい経つらしい。早いものである。今日の「高齢者講習」はぼくにとっては2度目である。1回目は七十歳になる少し前だったからあれからもう5年も経っている。これはもっと驚くべきことである。

 
数日前手術の予後の検査のために娘を七キロほど離れたクリニックに送迎することになった。去年も行ったよな、と言うと「去年は駅からタクシーで行きました」。「いやそんなはずはない。送っていったよ」。配偶者も「そうだよ。待っている間近くのスーパーで買い物をした。確かに去年のことだ」と援護射撃をする。二人とも一年前だという「確信」があるのだった。するとLINEの去年のやりとりを探し出して「ほら、これが証拠だよ」と娘は示した。

 それを見れば先回クリニックに送迎したのは一年前ではないということになる。二年と一年とでは365日の隔たりがあって記憶ちがいなどないはずなのに。その間がすっぽりと抜け落ちていることになって、25年よりも5年よりも、もっと信じられない、もっと驚愕の2年であった。


2023年10月20日(金)

 隣家の人が長期の旅行中で配偶者は留守中のあれこれを頼まれた。数日前、庭の温室(ビニールハウス)で水遣りをしていたところ、ひとりの男がひょっこりと庭に入ってきた。温室を出て顔を出すと男は立ち竦んだ。「何かご用ですか」と配偶者は訊いた。「金属の回収業者だが」男はしどろもどろになって答えたが慌てて立ち去った。雨戸は閉まったまま、車もないから留守だと確信したらしい。「そりゃきっと、空き巣ねらいだよ」とぼくは決めつけた。人相は? と訊くと普通だったという返事である。

 次の日配偶者は物干し竿に黒いベンチコートと壊れた電気毛布を吊り下げた。見れば留守ではないというアピールは十分のように思える。反面事情を知っているぼくは可笑しかった。だがグッドアイデアにはちがいない。

 さらに二日ほど経って少し離れたところに住んでいる人が訪ねてきて「洗濯物が干してあるのに、雨戸が閉めっぱなしなのは、旅行から帰ってきたものの具合でも悪いんだろうか」と心配顔で言う。事情を聞いて納得したらしいが、いまだこの種の事件などなかったこの界隈での小さな椿事として語り継がれるかも知れない、と思った。


2023年10月24日(火)

 昨日冷蔵倉庫のなかで、ふと気付くと右手の甲にあかぎれができていた。血が滲んで痛い。家に戻ってシャワーを浴びたあと冬以来のメンソレクリームを使った。痛みは和らいでいったがもうそんな季節かと驚かされる。今日は霜降だという。

 日中は汗ばむほどの陽気。引き込みの電線やら電話線やらに触れるほど高くなった梅の枝を伐り落とした。大きな青虫を見つけた。伐られる枝の振動にも落とされず移動をはじめた。君は何処へ。(これはスズメガの幼虫だとfbの友人・教え子が教えてくれた)

2023年10月31日(火)

 井伏鱒二は『荻窪風土記』の「文学青年窶れ」の章の冒頭で「世上、縁談窶れといふ言葉がある。今まで何回も見合ひをして来たが、残念ながらその都度、もうちよつとのことで良縁がなかつた。いつ結婚できるか気になることだ。(中略)これに似たやうな世間的な取り合はせで、大正期を経て昭和初期になると、文学青年窶れといふ新しい熟語が出来た。」

  さらに「阿佐ヶ谷の文学青年蔵原伸二郎が、詩の習作をうつちやつて、骨董の掘り出し物をしたり野鳥を飼つたりしてゐると、「あいつやつぱり文学青年窶れしているよ」といつた調子である。誰かがまた、流行新刊の際物小説を讃めたりしてゐると、「あいつ、文学青年窶れしてゐる甲斐もない」と貶される。」

  次の章では「はつきりとまだ文学青年窶れしてゐなかつたのは津島修治(後に太宰治と改名)伊馬鵜平(後に伊馬春部と改名)中村治兵衛(後に地平と改名)それから、学生生活を切りあげて新婚生活に入りたての神戸雄一であつた。」と書いている。

  これは昭和初期の頃の作者の感興である。百年近く経ったいま、こんな比喩としての言葉にぼくは感応する。年が明ければ75歳になるので身体の窶れは否定できないが、物を書いていると、やれ修行だ、やれ精進だなどと、スポーツ選手みたいなことを呟きたくなるのである。筆が停滞したり、アイデアが枯渇したり、かと思えば思わぬことどもが次々と吹き出してきたりと、そんな繰り返しは愉しいが、「文学青年窶れ」を追体験しているような気になる。むしろ“小説やつれ”という方が適切かも知れない。

 ミッドナイトプレスWEB版の「神の餅」が第7章に入った。挿絵のように置かれた山本かず子さんの活け花が毎回すばらしい。入魂の作品である。ここは窶れを感じさせない。是非ご覧下さい。


過去の「日録」へ