日  録  年の瀬模様 

2023年12月3日(日)

「ポップアップ温室」なるものを龍眼の木(鉢植え)にすっぽりとかぶせて数日経った頃、なかに温度計を入れてみた。左が温度計右が湿度計になっており、左から右へ、右から左へ長い2本の指針が振れる。

 無印良品で見つけたのはデジタルの温湿計だった。温室の中に忍ばせておけば様になるかと思ったが少し高いので諦めた。「何に使うの?」と配偶者が訊くから秘めた思いを口にした。その場では一笑に付されたが帰宅早々「これにすれば」と差し出されたのがその「顔よりも大きい温湿計」であった。もちろん見覚えはあった。塾で働いていたとき私立高校の創立50周年かの記念品として配られたものだった。30年近く前のことである。いまどきは滅多に手に入らないような温度計、ちゃんと動く、よくぞ残っていたものだと感心した。

 以来ビニール越しに温室内の温度を見るのが習慣となった。ちなみに今朝6時頃は0度に近かった。帰宅したとき(午後6時ごろ)は10度だった。休みの日、陽射しのある日中に30度近くになっていたこともあった。どこかなつかしい温度であると思った。

 こういう習慣は何だろうか。温室の中の温度を確かめてどうする、どうしたいわけでもない。ただ知りたいだけである。こういうのも野次馬根性と言うのだろうか。玄関で出迎えた配偶者はいま温度見てきたでしょ? 完全に見透かされている。


2023年12月5日(火)

 128枚になった「自意識の極北」を通読してみた。矛盾したところを訂正したり、措辞を考えたりしながら、2時間近くかかってしまった。地下のライブハウスの名前をパドヴァール(ロシア語「地下室」の正しい発音?)に変えたのは成果であった。とまぁその程度にまだまだテーマも乗らず完璧ではない。バベルの塔、言葉のない世界をめざすも、それもまた言葉であるという「矛盾」を書きたい。


2023年12月8日(金)

 一か月ほど前に北海道の義妹がお土産に持ってきてくれたホタテを「旨いものだな」と言い合って食べながら「こんどはニシンを送ってくれるらしい」と配偶者は言う。「○○(義妹の名前)ちゃんはなんか特別な購入ルートを持っているの?」「そりゃ本場に住んでるんだもの。市場から直接じゃないの?」少し前には数の子を送ってくれた。一足早いお正月気分だった。

 ホタテも数の子もわが家には高級品である。お正月が来ても食べられるという保証はない。ニシンだって例外ではない。全般に魚介類は高くなっていて普段もなかなか手が出ない。食べたいなぁと何度か思うことがある刺身も年数回が限度である。
 
 その数日後、帰宅すると玄関に大きな荷物の空箱が置いてあった。すわニシン、と勇んで居間に入ると見慣れない旧式のミシンが一台ある。このミシンは実家を整理しているときに義妹が見つけ自宅に持ち帰っていたもので、訊けば配偶者がお嫁に行くときに持たせようと両親が買って置いたものらしい。一度も使われていないという。わが家のミシンはこわれていると配偶者が話すのを聞いて、ならば送ってあげる、となったらしいが、配偶者にはそれが正当な文脈を離れて「ニシン」に変わっていたようだ。

 持ち上げるととても重いミシンだった。ぼくらの新婚所帯に届けられるはずだったものが半世紀以上経って届いたというわけである。いわばまぼろしのミシンである。そのときニシンは絵に描いた餅であったのだ。


2023年12月12日(火)

 3ヵ月ぶりの通院日。いつもよりたくさん血液を採られたような気がするが無事に診察へ進む。待ち時間に読む本を忘れたので目をつむっているとときおり眠りに落ちた。

 予約時間の30分遅れ(いつもよりかなり早い)で呼ばれ、「痛み止め(ロキソニン)、葛根湯、両方いりますか」「ええ、7月に(肩の関節)が猛烈に痛くなってほとんど連日飲み続けたのでもうないです」「葛根湯はないかも知れません」「品不足ですか」「そうです」「なければいいですが、処方だけはお願いします」などと四方山話みたいな話をした。

 そのあと先生は一枚の紙を差し出した。「紹介受診重点医療機関」となったので「当院に長年受診している患者さんには、病状が安定している場合は、原則として当院の関連クリニックまたは近隣の先生へ紹介させていただきます」と書かれている。「外来機能の分化」を目的として国が制定した制度に則った「ご案内」だった。紹介状なしで受診する場合など「選定療養費」というのが発生するらしい。

「あなたの場合は、いくつかの病気(高血圧、心房細動、掌蹠膿疱症)を抱えていて、複雑なので、引き続きわたしが面倒見ます」。ほっとするが、「合格です」と告げられたような不思議な感覚を覚えた。

 薬局では大きな袋ふたつ分の薬を手渡された。重病人の如くに見えそうなので「半分はビタミン剤なんだよ。H(湿疹や皮膚を改善する)とCなんだ」と自己弁護しながら帰途についた。3ヵ月後、早春の頃、またここにやって来て同じ感想を抱くにちがいない。


2023年12月15日(金)

 午後、孫へのクリスマスプレゼントを探すためにららぽーと富士見へ。目当てのものを見つけることはできなかったのだが、帰る段になってこんどは自分の車を探し回る羽目になった。

 配偶者はP6、ぼくはP4と記憶していた。2階店舗から入ってまずP6を、次にP4を捜したがともに停めたと思しき場所にないのである。いちばん端の列の真ん中あたりと記憶していたがそれが怪しいのだろうかとその階全部の車を見て回った。見逃してはいないかと何度も同じことを繰り返した。

 思い余って総合案内所に泣きつくことにした。案内嬢は「たとえばP4ですと、立体駐車場の建物全部を指していまして、一階から六階までP4なんです。」と言うではないか。「2階店舗から行っても3階店舗から行ってもP4ということですか」「その通りでございます」。「ひとつ上ももう一つ上も見なければいけないということですね。目から鱗です。そんなに高くはのぼらなかったのでひとつ上を探してみます」。

 はたしてひとつ上の階の停めたときの記憶通りのところにあった。しかもP4ではなくP6であった。ここは配偶者の方が正しかった。原因は「P6」とか「P4」と名付けられた場所はここのみであると思い込んだことであった。いわばあっちもこっちも同じ住所は有り得ないという固定観念である。

 わざわざ「立体」と付記されている理由がわかった。駐車場から店舗に入ったとき最初に現れたのは食堂街だったこともあとで思い出した。それを覚えておれば探すために1時間近くも費やすことはなかった。口惜しい経験だったが、スマホの万歩計を見ると12000歩を超えて過去最高を記録した。普段歩かない配偶者も一万歩を超えたにちがいない。怪我の功名と言えば負け惜しみめくか。


2023年12月18日(月)

 小沢昭一は晩年のエッセーで「いまや私の趣味は妻であります」と書いている。日常のひとつひとつの振る舞いに新鮮な感動を覚えるというのが趣旨であったように記憶している。昨日家に戻るとわが妻(配偶者)は、大意、庭に面した道路に木の枝が散乱して、道の機能を妨げていた。いずれこうなることを私は予見していた。大木の枝が少しの風が吹いただけで、折れて飛ばされる。気象の変異も影響しているだろうけれど、人に迷惑を掛けることだけは避けなければいけない、と息急き切って話すのだった。

 落ちるとすればモクレンか柿の木だろうと外に出て懐中電灯で照らしてみた。夏が来る前にふたつの木は幹も枝もごっそり伐ったばかりなので、多少風が強かったにせよ、折れたりはしないだろうと思えた。それでその枝は? と訊けば配偶者は、片付けて庭にとりこんだ。写真などを撮っておいてくれればもっと状況がわかったのだが。そんなやりとりとなってその夜は終わった。

 翌日の朝、その枝を見てびっくりした。庭の一角で山をなしているのである。完全に道路が封鎖されてしまうほどの量だった。仔細に眺めれば、生木の枝ではないし、根元の方はどの枝もノコギリを引いたあとのようにきれいに裁ち切れている。一本を手に持って配偶者に切り口や枯れ具合を見せるとモクレンなどの庭の木が折れて落ちたのではないことは納得してくれた。

 ぼくは車でどこかへ運ぶ途中に落ちたのだろうと推理した。わざと道のど真ん中に散らかす人はいないと思うからだ。すると、そのときは気付かなくても、落としたことはやがてわかるはずではないか。この道をよく通る人ならば庭に自分の落とした枯れ枝がうずたかく積まれているのを見て、いつかきっとあやまりにくるだろう。遠方の人がはじめてこの道を通ったのならどうだろう。来た道を辿って探さないのだろうか、など種々考えさせられた。

 それにしても道幅いっぱいの枯れ枝に「わが責任」を感じる配偶者をぼくは無下にできないのであった。「道路に散乱したものを片付ける、それは当たり前のことだが、いいことをしたわけだ」とねぎらわねばならない。


2023年12月22日(金)

 fbの記事によって井上弘治さんが亡くなったことを知った。詩人として活躍していた若い頃に数度逢っただけだったが強く印象に残った人である。逢う機会がなくなってからも笑顔や音声やらはずっと残り続けた。引き合わせてくれた岡田幸文さんや山本かず子さんに逢うと「井上弘治はどうしてるの?」ときまって尋ねたものだった。消息を知りたいし、もう一度逢ってみたいと思い続けていた。それは昔の恋人に恋い焦がれる心性と似ていたのかも知れない。

『ただ詩のために−岡田幸文追悼文集』の井上弘治「追悼・岡田幸文」を再読してみた。長い付き合いのあった岡田幸文さんのことを「やはり高潔の人だった」と偲んでいる。彼は追悼文を書く数日前に自宅玄関の少し先の「巨石」に寄りかかるようにして立っている幸文さんに出逢っている。

「なんだ生きていたんじゃないか」とあまりの嬉しさに叫んでしまった。その青いシャツと立ち姿の美しさに、目が覚めてから久しぶりに爽やかな気分になっていた。

文章の中から井上弘治の音声(おんじょう)が聞こえる。


2023年12月26日(火)

 クリスマスがすぎると俄に年の瀬模様となった。少なくとも世間はそのように見える。我には切迫感はあまりないが、それでもお年玉用に「新札」が入り用となって走り回った。郵便局では「扱っていないんです」とすげなく断られ、口座を持っている近くの銀行を訪ねた。カードがあれば機械ですぐに交換できたのに、持っていなかったのでロビーで案内係の女子行員に相談した。口座があるかどうかは調べられますので窓口でお願いしますとなった。長く時間はかかったが新品の千円札10枚、無事手に入れた。

 駐車場に戻って「精算」をしようと機械を操作するが窓口でもらった「1時間無料駐車券」が入らない。何回か試みてから、ロビーに戻ってさっきの女子行員に助けを求めた。「一緒に行きましょうか。でも、持ち場を離れるわけにはいかない。でも、行きます。行きましょう」と小走りに引率してくれる。同じ操作をして「すでにロックバーが下がっている可能性があります」。無料時間内には用事は済まなかったはずなので、ロックバーが壊れているか、年末サービスで延長されたか、のどちらかに思えた。親切な行員のおかげでこちらも無事解決(?)した。

 松本のTさんからお餅やネギ、タマネギ、ジャガイモ、さらにはきれいに霜が吹いた干し柿(蜂屋柿)の入った荷物が届いた。すべて手作りと思われ、年の瀬模様に大きな花が添えられる感じがした。ありがたや、ありがたや。


2023年12月29日(金)

 今年のクリスマス・プレゼントはユニクロのパジャマであった。上は茜色のセーター、下は股引のような紺色パンツ、この取り合わせにしてすでに従来のパジャマの概念を超えている。パジャマらしからぬパジャマと思えた。着てみるととても暖かい。夜間、トイレに起きる回数が減った。よって魔法のパジャマと呼ぶことにした。

 20代の頃の友人ふたりからのメールは次の年への希望となった。ひとりは長女が来春から東京住まいを始めるので上京の機会が増えると言ってきた。そのときはきっと逢おうよと返信した。薫風寮のルームメイトだったもうひとりは「今年7月の上京の際にかねて行きたいと思っていた高麗神社、あまりにも遠いのであきらめました」と書いてあった。高麗神社とはわが家とは指呼の間(かん)である。「次は是非連絡して下さい。送迎、案内、任せてよ」と返信した。

 来年はその薫風寮のことを書こうかと思った。建物はいまや被爆遺産、当時の住所が官有無番地、10畳ほどの部屋に6人が寝起きしていた。ルームメイトの彼は6人それぞれのことをよく覚えていた。いまどうしているか、知っていれば教えて下さい、と書いていたがこちらは古い写真と照合してはじめて顔と名前が一致するような記憶低下の状態である。それだけに書くことの意味は小さくないと思うのだった。これしも昭和の遺産と言うべきである。われには希望でなくてなんだろうか。

 

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