日  録    パソコン復旧へ 

2024年1月4日(木)
 
 あけまして おめでとう ございます

 あと何日かで75歳になる。この日録は24年目に突入する。当時21世紀に入るのでミレニアム(千年紀)元年と騒がれ希望と期待が錯綜していた。なのにわが家では闘病中の義弟が年明けを待たずに亡くなり、暗澹たる幕開けとなった。

 あっという間の23年間であった。日々の記録と文章修行を兼ねてはじめたのだったが、やがてそれ自体が自己目的化して、小説に向かえないことが多かった。やっと(自分にとって)小説のなんたるかがわかってきたと思ったとき、古稀を迎えていた。遅々とした歩みと言わざるを得ない。ぼくの人生は夢の連鎖の如しである。新年早々三浦哲郎の「忍ぶ川」を読み返した。こんな一篇を残したい、虚仮の一年にも似て、生きているかぎり続けるのだろう。

 今年もご愛読のほどよろしくお願いします。



2024年1月6日(土)

 4日は3年連続で笠幡の尾崎神社へ初詣で。5日は、午前中に近所の人の助言に従って天に向かう柿の木の枝を伐り、その後川越市立美術館に向かった。「百鬼丸の市民ギャラリー展」を覗いてみようと思ったのである。百鬼丸さんは、紙芝居や切り絵の実演を全国あちこちで展開し、いまや旬の切り絵作家である。海外にも多くのファンを持ち、ときにテレビにも出演する。展覧会にはこれまでの作品の一部が展示されていた。一部といっても、ブックカバー、雑誌の表紙から壁画まで膨大な数にのぼっている。ほのぼのとした作風はずっと一貫して作家の魅力となっている。

 ちょうど紙芝居を終えたところだったので近寄って挨拶をした。「あ、あれ以来ですね。会うのは」「あれ、そうでしたか。どこかで一回会っているような気もしますが」そんな話から久闊を叙し、近況を聞くことができた。あれ以来というのは17年前にぼくが引っ越したときという意味である。百鬼丸さんとはお互いの40代から50代にかけての18年間を団地の同じ棟の隣人として過ごしたのだった。

 ぼくには「あれ以来」とは思えなくて、その間どこかで会っているような気がしばらくの間していた。どうしても思い出せないからやはり「あれ以来」なんだろう。時の流れは急速だが、自身が言う「70過ぎてからのブレーク」は元隣人にも嬉しいものであった。


2024年1月12日(金)

 まるでHR(ホームルーム)のようである。学級委員長が菅何某、副委員長が麻生何某、岸田はさしずめ「担任」であろうか。自民党の「政治刷新本部」のことである。どんなに大真面目に言い繕ったところでHR外の人、つまり民衆には届かない。それがわかっていないところがこの政権の致命傷である。

 いかに政治への志が低いかが現れたともいえる。岸田政権は能登地震で被災した人たちを必死で支えようとしている医療関係者、自治体、ボランティア、自衛隊の志に学ぶべきではないか。このままではあの田中角栄はもとより、「アホの坂田」にも及ばないと思う。


2024年1月16日(火)

 日曜日に喉がいがらっぽくなり、ときおり咳が出た。月曜の朝熱を測ると38度を越えていた。咳の回数も増えている。痰も絡むようになった。考えられるのはコロナかインフルエンザである。

 近所の発熱外来に電話して午後三時にダブル検査と診察を予約した。「インフルエンザではないですが、コロナの微弱なウイルスが入り込んだのでしょう」とお医者さんは言い、PCR検査の結果を見せてくれた。陰性を示すところが真っ赤の線、陽性のところは薄く赤が浮き出ていた。配偶者と同居の娘がほぼ同時にコロナに罹った昨年夏には当方だけ無事で「オレは不死身だ」と叫んだのだったがいまとなればそれは傲慢な振る舞いであったと思い知る。

「微弱なウイルス」を翻案して「軽いコロナになったようなので5日間の待機を余儀なくされました」と仕事先の何人かに同様の報告をするとひとりからLINEで「軽いコロナってなんだ? とみんなで話題になっています」と返事があった。


2024年1月18日(木)

 隔離生活は今日で4日目。コロナの症状は、2日目には熱が平常に戻り、昨日あたりから咳・痰ほとんどなしの状態となった。対症療法として出された薬が効いたせいもあるが、ほぼ全快したのではないか。ただ人にうつす可能性がゼロかどうか見極められないので、お医者さん(厚労省)の指示通り5日目の明日までこの生活はつづく。

 一日中自分の部屋に籠もって、運ばれてくる三度の食事を本棚の前のベンチを食卓代わりにして食べる。いわゆる据え膳である。もはやまじまじと眺めることもなくなった本棚には気になる本が目につく。食べ終わったあとに取り出して『新潮』の「追悼特集・井伏鱒二」大江健三郎の『河馬に噛まれる』、『吉岡実詩集』などを読んだ。本を手にベツドに寝転ぶのも気の赴くままである。この際にと勧める人があったのでU-Nextで『地獄の黙示録』『花様年華』を観た。他にもいくつかマイリストに加えてある。

 ずっと食欲もあり、体もあっという間に回復した。ここらで骨休みを、という天の粋なはからいではなかったかと。感謝、感謝。


2024年1月23日(火)

 配偶者に「企業年金連合会」から封書が届いた。

 配偶者は上京したての頃飯田橋か市ヶ谷駅の近くにあった「東京出版販売株式会社」(いまの「トーハン」)で一ヵ月間働いたことがあった。ぼくも前後して夏休みのアルバイトをそこでしたことがあるのでよく知っているが本の仕分けに携わる仕事だったはずである。そのときはもちろんお互い知る由もなくすれ違っただけだが、ぼくとちがって配偶者は「企業年金」に加入していた。その支給が「平成18年2月」から開始されているのでその確認の手続きを、という案内だった。

「年金見込額(年額)は245円」とある。たった一ヵ月の給与からいくら天引きされたのか知らないがこの額が終身にわたって支給されるというのである。「みなさまの年金生活の補助に資するために」などと唄われていて、奇特な思いがした。これだけでは「確認書」を出す気にはならなかっただろうが、続けて「初回受け取り見込額は4、206円」のあるではないか。平成18年から令和5年まで18年間の分だという。俄然手続きが愉しくなった。ちりも積もれば何とか、というと言い過ぎである。こういうところで地道に働いてくれている公務員のみなさまには頭が下がる。


2024年1月30日(火)

 コロナに感染してから2週間以上が過ぎたのにいまだ「鼻声」というのも、外聞がよろしくないので「軽いコロナ」と診断してくれた近くのクリニックに出向いた。インターホンを押して外に開かれた受付から「熱はないですが、鼻声、ときおり咳と痰」と告げるとかたわらのテント小屋で待つように言われた。診断して欲しいのは鼻声が「コロナ後遺症のひとつなのか、新たな病気のはじまりなのか、はたまた、これを機に何度目かの声変わりか」。

 ほどなくやってきた先生は「これらが長く続く人は多いようです。咳止めと痰切りと気管支拡張の薬を出しておきます」と言い「24時間マスクをしてください。部屋にはいつも蒸気を忘れないように。乾燥は喉にきます」と付け加えた。「 いつしかあなたの声は、ハスキーではなく、鼻から出る掠れ声。それが普通になります。いままた声変わり?」どうやらそうはならないようだ。女優の池内淳子は色気のある鼻声だったが、われにはそんな特技は授からないのだ、もはや。

2024年2月16日 (金)


PC本体を取り替えて1週間が過ぎた。「メールの送受信」と「文を書く、文を読む(一部)」の環境はできた。しかし、ホームページの更新はまだまだ思い通りにならない。ふとHTMLを学んでみようかという気になるものの、そのはるかなる道のりにクラクラするのである。  
7年前エイトが新たに装着してくれた500ギガのHDDにはこの間の活動の跡が記憶されているはずなのにもはや読み込む術がない。何もかもが消えてしまった 。これは口惜しい現実だった。能登地震で被災された人たちとは比べものにならないが小さな喪失感を味わうことになった。

そういえば年賀状作成ソフトには住所録も入っていたのに、などとほぞをかみながらメールのアドレス帳を作り直していた。連絡先もいまは少なくなったがそれはさほどさみしい思いもなく、10人ほどのリストを作るともう飽きて、受信トレイの設定に移った。

「ゴミ箱」の下の「重要」のフォルダーを何げなくクリックすると、なんとそこには、2011年からの1000通にも及ぶメールが残っていたのだった。そのうちの300通は友人らからのなつかしいメールだった。のこのフォルダーは通常開けないのにふと覗いた結果がこの奇跡である。どこに僥倖が潜んでいるかわからないものである。300通をそこから救い出してひとしきり読みふけった。13年間の生活のダイジェスト版のように思えた。サンダーバードよありがとう。


2024年2月17日(土)

コロナウイルスに感染したとき何度も使用した電子体温計が自宅待機の終わった数日後に忽然と消えた。いつものところに仕舞った記憶は確かにあるのにそこにないのである。食卓の下、ベッドの中(寝ながら測ることもあったので)、考えられるあらゆる場所を探したが見つからなかった。ごみ箱にポトリと落ちて気づかないうちに収集されたかというのが最後の推理だった。  一か月前の当時はぼくしか使っていなかったので失くしたのはぼくの責任であった。

というわけで今日ドラッグストアに立ち寄ったついでに買うことにした。一番安いのが888円(税込み)、その次は一気に2000円近くまで上昇する。最高8000円というのもあった。しょっちゅう使うわけでもないから最安値でいいかと手に取ってパッケージに書かれている説明を読んでいた。計測時間「脇の下10分舌の下5分誤差±0.1℃」というのに出くわしてびっくりした。他のものを見ると10秒、15秒、20秒と大書きされている。同じ電子なのになぜこんなに差があるのか。しかも10分はいかにも長すぎる。悩むところだったが「お手頃価格」とあるので買っていく人も少ないわけではないだろうとレジに運んだ。10分間も脇の下に挟んでいればその存在を忘れてしまうのではないか。疑問は氷解しないまま買った。よほどの貧乏性である。

店を出ると娘がいたのでその話をするとひどい剣幕で怒った。10分も待ってられません、というわけだ。熱があるかどうか一刻も早く知りたいのにぃ、買い換えてください。再びレジに戻って三番目に高い、計測時間15秒というのに交換してもらった。10分といえば600秒である。15秒の40倍も長い。この世界の不思議として残りそうだった。


2024年2月23日(金)

「日録」をHPにアップロードしたいばかりに早朝からHTMLをいじっていた。サイトで知識を仕入れては、やれ改行だ、やれ文字強調だ、やれリンクだなどと生半可な技術を駆使していた。「めざせプログラマー」というほどの気概はないのでどこか弥縫的な作業となる。当然うまくWEBに乗っていかない。

やがて人みなが起きだすころになったので、画面を写真に撮ってわが師匠エイトに送って添削を乞うた。すぐにいくつかの指摘と改正されたプログラムが送られてきた。質問する者がど素人だからリモートでは必要十分な情報とならない。師匠も困惑しただろう。
その後もこちらは飽きずに、ああしよう、こうすればどうかななどと、改変を試みていた。なけなしの知恵を絞るような執念深い一日だった。

合間に書きかけのモノに戻ったが長続きせず夕方にはYOUTUBEで大泉インターで降りる方法を探していた。関越道を走った3日前そこでは降りられず、終点の練馬から笹目通りに出て義妹宅に行くという迂回を余儀なくされたのだった。次はその轍は踏まないぞとばかりに画面に見入っていた。しかしこの執念も実らなかったようだ。ついにわからず、もう一度走ってみて体で覚えるしかないようだった。

2024年2月27日(火)
 
強風の日。ひょんなことから先週に続き関越道に乗って川越駅へ。駅前ロータリーは昔とちがって歩行者が駅からそのままバス停やタクシー乗り場などに降りられるようにもうだいぶ前に立体交差になっている。

それに伴って下の道もいくつかの方向に枝分かれしている。そのことを知らないわけではなかったが、一年ぶりくらいに来てみると、昔のイメージが強すぎて戸惑ってしまった。ここは昔でいえばどのあたりかな、などと考えているうちに右折レーンに入った。 その先、右側が二車線あり、赤い鍋ぶたマークは目に入ったが左側進入禁止だと思い右の左に入り込んだ。これが「逆走」だった。

幸い向こうから一台も来なかったのでしばらルール違反の走行をしてさっきの左車線にほぼUターンするがごとくに合流した。事なきを得たわけだが同乗者の娘は免許を返納せよとばかりに怒った。そのとき配偶者はなぜか悠然として成り行きを見守っていた。それは一縷の慰藉だった。高速道でなくてよかった。



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