日  録  再びの「せとか」 

2024年3月1日(金)
 
3月になった。まだ天変地異は続くのだろうか。27日強風の日に市内の資材置き場が燃えた。そのことを翌日になって息子からのメールで知った。「妻が心配していた。大丈夫?」とある。息子はたしかハワイにいるはずだから、妻経由でニュースを聞いてびっくりしたのだろう。現在も燃えているような文面だった。微妙に時差が感じられておかしかった。

配偶者は知っていた。車に乗っているとき焦げ臭いにおいがしたので調べると火事だった。強風に煽られれば大惨事になりかねない。返信メールで「少し離れた場所だったので大丈夫だったよ。あなたも、どこにいても常に鼻を利かせて、いち早く異変を察知するようにしてね」と注意を促していた。

月末に引き落とされるものがあったのでコンビニに寄ったついでにATMで残高を調べると「1円」となっていた。2桁、3桁は慣れっこになっているがさすがにこれは驚いた。0円ということもあり得るわけだなぁと妙なところで納得したが、その昔消費者運動のひとつとして「1円預金」というのがあったのを思い出した。

大勢がロビーに押しかけ1円を預金するために並ぶのである。「巨悪の根源」と名指しされた大銀行への嫌がらせ行為である。国会でいえば「牛歩戦術みたいなものだな」と取材をしていたぼくは思った。窓口の女性は大わらわである。そこが狙いだったのだろうが、運動主体が掲げた巨悪とはなにか、すっかり忘れてしまっている。

もしかして「歴史のひとつ」としてネットに記載されていないか。しかしひとつも引っかからなかった。50年、まさに今は昔である。ごまめの歯ぎしり、蟷螂之斧、などと冷ややかに見ていた当時の自分ももういない。


昭和23年発行の5円硬貨が配偶者の財布の中に入っていた。表が国会議事堂、裏には鳩が刻まれている。穴は開いていない。ネットで調べると「昭和23年から昭和24年までの発行で、表面に唐草に囲まれた国会議事堂が描かれているのが特徴といえるでしょう。裏面にはハトや梅が描かれています。発行年数は2年という短い期間ですが発行枚数が比較的多いため、約120円から800円程度の相場で取引されています。」ということであった。

この年に生まれたのがわれら団塊の世代である。ほぼ10年後、茶箪笥におやつ代として忍んでいたのは10円玉だった。そのほうが強烈で穴なし5円玉の記憶はないが、普段持ち歩く財布の中に入っていたのだからいまなお流通しているということである。いわば硬貨の後期高齢者か。

2024年3月5日(火)
 
32年前、修士論文(提出したものと同じ)のコピーをぼくにくれて旅立っていった男がいた。論文はいまも本棚に厳然と収まっているから、毎日のように目にする。塾でアルバイトをしていた工学部の学生だったから論文の題目は「渦巻噴射弁の形状と噴霧構造の相関」である。1枚1080字60ページに及ぶ(400字詰め原稿用紙で162枚見当)の論文、門外漢のぼくにはちんぷんかんぷんである。要旨も歯が立たず、中をすっぽかして、あとがきにあたる「謝辞」は読めた。

彼はいまどうしているのだろうか、とふと気になった。ネットで「らしき人物」に出会った。その人は1台2千万円もする二輪車を設計・製造し全世界のレースに参加するプロジェクトチームの責任者である。長く眺めていると二十歳過ぎくらいの当時の面影が彷彿とする。彼はバイクで通学し、塾にも通ってきた。その仕事に符合するが確信にはいたらない。当時の彼は一度事故に遭遇している。病院に見舞いに行くと、ギブスをはめ包帯でぐるぐる巻きになった片足を挙げていた。面目なさそうな顔をしたが、大いに元気で、よく笑った。

ずっとその論文は本棚を飾っている。中身はさっぱりわからないがぼくは嬉しかったのだ。

バックアップを取ってあった一太郎のデータを縦書き表示もできるLibreOfficeというフリーのワープロソフトに移した。ゆうべの思いつきを実行してみたわけだがこれが案外すんなりといった。中身のほうは矛盾を糾したり結末に向けてまだ考えることがいっぱいありそうだが、パソコン復旧は一段落である。ということで、一ページ800字81ページ分、400字詰め原稿用紙に換算すると162枚、これを一日かけて読んでみた。いまはあの修士論文と同じ長さであるのは不思議な偶然か。

2024年3月8日(金)

いつも通り早く起きたが、ロープロを起動しても所在なく、U-Nextで映画『舟を編む』を観た。ついこの間話題になったと思っていたが、公開からもう10年以上が経っている。三浦しをんの原作に至っては刊行から13年、東日本大震災と同じ年月が過ぎている。映画は十数年の歳月をかけて辞書を作る人たちを描いている。一筋の恋という印象があってほっとする。

舞台となる建物、おそらく三省堂の別館であると思われるが、それに見覚えがあった。辞典編纂者に応募、はるばる上京して筆記試験を受けたのはこの古めかしい建物だった。当時としては大枚の、実費相当分の交通費をもらって感動した。受かれば本気で頑張るぞと思ったが寄り道をして何日か後に帰ると不合格の通知が届いていた。なつかしい思い出だが、もう53年も前のことである。ぼくの恋は現金すぎたのだろう。

2024年3月12日(火)
 

ドラックストアのレジに配偶者と一緒に並ぶと、宝塚の男役みたいな、瞳の大きいがっしりとした体格の女性が「○○薬局アプリに登録しませんか。今日の買い物から15パーセント引きとなり、ほかにもいろんな特典が」と勧誘してくれる。配偶者はその気になったようである。ポイントカードをレジの女性に渡しカバンからスマホを取り出してどうすれば? と訊くと「まずアプリストアを開いて○○薬局アプリをインストールしてください」。これが延々30分間にも及ぶ「レジ前の登録」の始まりだった。うしろには商品を手にしたお客さんが何人か並んでいた。

配偶者の手に負えないと思ったのでスマホ操作はぼくが担当した。やれメールアドレスだ、暗証番号だ、名前だ、住所だ、生年月日だと二度にわたって画面を操作しなければならなかった。誤った入力があってまた元に戻るということもあった。教えを乞いながら登録を目指したが、なんども舌打ちした。手に負えないのはぼくもしかり、だった。うしろの列を振り返りつつ、もういい、やめよう、と思った。

すでに20分は経過していただろう、今度にしましょうとレジの女性に告げると「なんのなんの、ここまで来たからにはやり遂げましょう」。この人は本気だと思った。なんという気風(きつぷ)の強さだ、と感嘆した。

 
3か月に一度の通院日だった。次回は60日後くらいにしてもらおう、ビタミンCとビオチンとミヤBM錠がそれぞれ30日分残っているから、それを差し引いて処方してもらおう、と考えて病院に向かった。診察のことよりもそっちのほうの関心が高い。ということは病気の症状は深刻ではないということである。

信頼の厚い先生だからこの日も予定時間を一時間半ほど過ぎて診察室に呼ばれる。血液検査の結果をもとにいくつか質問した。ヘモグロビンの量が低いのは鉄分不足だから週2回はお肉を食べるといい、BNP(心不全の兆しを表す数値)はずっと横ばいで推移しているから、薬が効いているといえる、などのアドバイスをもらった。医学的な意味で内容がわかったのではなく、あなたの体はあなたなりに生命活動を維持している、と翻訳して受け留めた。どこまでも楽観主義である。いつか高転びしなけりゃいいが。自戒。

2024年3月19日(火)
 
今日こそは破れかぶれの障子の張替えをやるぞ、と意気込んでいた(障子紙と糊、セロテープまで揃えておいた)ところ、ららぽーと富士見に連れてってと言われた。孫の誕生日のプレゼントを買いに行くとなれば是非のないことであった。

ららぽーとというのは、昨年暮れに車を止めた場所を探すために1時間余にわたって走り回った商業施設である。あのときは目当てのものも見つからず、踏んだり蹴ったり、とんだ厄日であった。迷った原因はいまも忘れない。つまり5、6階建ての駐車場の建物全体を「P6」と名付けていたのにこちらは「P6」はこのフロアーのみと思い込んだことによるのだった。P6は P6 でも階がちがったのである。種明かししてくれたのは総合案内所の若い女性だった。日の暮れるのが早くなっていて、帰るころはもう暗かったせいもあるが、名付け方が不親切ではないか、と少々の怒り(八つ当たり気味に)も覚えたものだった。

その轍は踏むまいと今日は「屋上」と決めていた。首尾上々のうちに買い物も終わり、韓ラーメン・旨辛カルビーというのをはじめて食べ、まだ陽が高いうちに屋上に行くと、これがまた広いのであった。A〜Eまでの区画に分かれていて、Dというのは覚えていたがそれぞれに1から6までの番号が振られている。何番だったか記憶にない、というかそこまでは考えもしなかった。ということでこたびも探し回る羽目に陥ったが陽の明るさに助けられて10分とかからなかった。「屋上」に停めておいてよかった。


2024年3月22日(金)

 寒い朝であった。障子の張替えに着手する。前回から三年以上経っているかもしれない。破れては部分補修を施し、また破れ、もうあきらめて穴が開いたままにしておいた。なぜかくも長い間放っておいたかというと、戸を外すためには敷居のそばまで敷かれたジュータンをはがさねばならない、ジュータンをはがすためにはベッドを退けなければならない。このベッドは重い。組み立て不可の鉄製の台の上に一応「フランスベッド」と銘の入ったマットが乗っている。共々どこかへ退避させておかねばならない。これだけの行程を考えるだけで身が引けていたのである。

三時間かけて2枚の障子を張り替えたあと、この際机の配置も変えるかと、机の下からベッドのほうにはみ出しているものを引っ張り出した。雑誌、小冊子の類は捨てる決心がつくが、ノートやルーズリーフに書き留めた「下書き」はなぜか邪険にできない。ノートや袋の表面には「年月」と「題名」が記されている。ワープロのない時代それをもとに原稿用紙に清書していたのである。いまここにあるということは30年、40年前も残しておかねばと思ったのだろう。それは何のためか、当時もいまも、ことばにできない。わからないのである。

その束のなかに14通の手紙が混じっていた。2通ばかりを読んでみた。40年近く前の「恋文」であった。「往」は手元にないがこれは「復」である。いずれ「形にできる」かもなどと思って下書きと一緒に残しておいたものだろう。しかしあと12通を読む勇気は出ない。



2024年3月29日(金)

2日前のこと、帰宅途中にジャガイモを買ってきて、と頼まれた。農産物直売所に立ち寄ると店頭の陳列台にはいろいろな柑橘類が並んでいた。なかに「愛媛直送・せとか」がある。せとかというのは最近初めて食べたみかんの品種名である。夫人が好きで取り寄せた、おすそ分けですがと知人が何個かくれたのだった。これを食べた配偶者も美味しいと大喜びだった。宅配生協のパンフレットに「せとみ」というのをみつけて注文したことがあった。名前は似ているが味はちがった。そんな経緯を思い出しながら思い切って2個パックをひとつ買った。

店内に入っていざジャガイモをとうろついていると婦人のお客が「ジャガイモはどこ?」と店員に聞いている。「あそこにひと袋残っていますよ」。そんな会話が聞こえてきた。先を越されてしまった。せとかに見とれていなければ最後のひと袋を手にすることができたのだったが、数倍の値段の貴重なせとか、写真を配偶者に送ってみれば「よか、よか」というほどのスタンプがすぐに返ってきた。ジャガイモがせとかに化けた瞬間であった。



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