日 録 20代の跡地
2024年12月31日(火)
大晦日である。明ければすぐにぼくは76歳になります。後期高齢者としての初年、まずはつつがなく過ごすことができました。昭和の遺物のようなHPを訪ねてくれたすべてのみなさん、一年間のご厚誼・ご愛読ありがとうございます。
はるか昔、ぼくは尊敬してやまなかった国語の先生に「この文脈でありがとうございますはヘンじゃないですか。過去形にすべきところだと思います」と質問してみた。即座に先生は「いまのこの気持ちを強調するためにこの作者は敢えて現在形にしたのです。過去形だとそれで完結してしまう、相手にも、自分にもありがとうの気持ちを長く持続させたい。きみは文法を言っているが、文章の勢いというものは時にそれを外れていくものだよ」と答えてくれた。
肝に銘じておきなさい、と言われたような気がしたものであった。50余年前のことを不意に思い出したので、なんども書きます、一年間付き合ってくれてありがとうございます、と。
2024年12月24日(火)
ある日「関東・中部・東北自治宝くじ」(1枚100円)というのが目に入ったので何十年ぶりかに買ってみた。「発売は今日までです。連番にしますか、バラにしますか」と訊かれたので「連番にします」と答えた。「あ、これが最後の10枚ですね」。残り物に福があるか、と声に出さずに呟いたものだった。
数日後当選番号を調べてみると最下等の6等(100円)が「2」で5等(1000円)が「02」である。連番のなかに「下2桁02」の券があったが、「二つとも当選となるのだろうか、それとも金額の大きい5等だけだろうか」という疑問が湧いた。配偶者に話すと「ふつうはどちらかひとつじゃないの」と一蹴した。「そうか。1粒で2度おいしいなんてことはないよな」と納得していた。
何週間か経った今日同じ宝くじ売り場にもっていくと「5等と6等が当たっています」と1100円を出してくれた。「実はグリコだったか」と売り場の女性相手に大騒ぎをした。彼女はあまり乗ってこなかった。ちなみにグリコのキャッチフレーズの意味は「一粒でカリフォルニア産アーモンドの香ばしさとキャラメルの風味を楽しめます」というところから発案されたらしい。前夜の大きな驚き、小さな喜びである。
2024年12月22日(日)
旧約聖書は長年持っていてときおり繙くがキリスト教信者ではない。なのに今年は17日からクリスマス関連の用事で奔走している。24日までことしはクリスマス週間となりそうである。
17日には孫への贈り物を探すためにピオニウォークへ、これは運転手役だったがいいものが見つかったと配偶者らは喜んでいた。19日、知人に送った荷物が転居先不明で「迷子」になるということがあった。あわてて新住所を教えてもらい電話で転送の手続きを依頼した。これは面倒な手続きであった。
お問い合わせシステムの追跡履歴によれば翌日の20日に新住所を管轄する配達ベースへ移動となり、22日に届けられるようである。3日遅れになるがクリスマスには間に合う。
最後に転送料はかかるか、かかるならこちらで払いたいが、と気掛かりを訊くと「今回は大丈夫です」という返事だった。イブまであと3日。21日にはKFCのチキンなどを早々と食べて前祝をした。メリークリスマス。あと2、3回は発語しそうな気がする。
2024年12月13日(金)
『遠野物語』には鉛筆で傍線を引いた箇所がいくつかあった。前に読んだときの関心のありかを思い出させられ、いまや清新ではあるが面映ゆい面もある。
「オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。(15)」
また座敷と常居の境に人が立ち板戸に手を延ばして探ると「されどわが手は見えずして、その上に影のように重なりて人の形あり。その顔のところへ手をやればまた手の上に顔見ゆ。(82)」
いまならどこに傍線を引くのだろうと思っているとこんな場面に行き当たった。
嘉永とおぼしき頃「海岸の地には西洋人あまた来住してありき。(略) 耶蘇教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて磔になりたる者あり。」また続けて「浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては嘗め合う者なり。(略)海岸地方には合の子なかなか多かりしということなり。(84)」
抱き合う、嘗め合う、合の子などは死語に近いが私的関心度は低くない。
2024年12月6日(金)
名古屋で畏友たちと再会して一か月ほどが経った。思いがけず23歳のとき住んでいたアパートがいまなお残っている(人が住んでいる気配はなかった)ことを確認することになったのだが、その頃の生活の一部が唐突に甦ってきた。
一階いちばん奥の部屋から出ると大家さんの経営する食堂に勝手口から入る。ここまでほんの数メートル、食堂は春日井市に通じる稚児宮通りに面している。月一回の清算で朝食、ときに夕食を賄いのようにして出してもらえた。なかは椅子席が十もあるかないかの広さである。勝手口近くのテーブルに坐るとほどなく朝食が運ばれてくる。みそ汁は八丁味噌である。50歳くらいの色白の大家の奥さんと朝のあいさつを交わす。厨房には、コンクリート敷きの敷地を裸で走る姿を何度も見かけた夫がいる。最初はよそ者に冷たいが赤味噌の独特の旨さに慣れる頃から甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるようになった。とても親身である。ふたりは当時聞き知った典型的な名古屋の人たちのようだった。
今朝がたは思い出の人も物もなく跡地に佇むようにテーブルにひとり坐っている。それは52年前の自分ではなくいまのぼくである。写真が喚起してくれた思い出の欠片である。なつかしいと同時に一抹の寂しさをも感じさせる。
2024年12月3日(火)
『遠野物語』には枕を返す、何荷(なんが)ともなく、猿の経立(ふったち)、死助(狼のこと)などなど刺激的なことばや固有名詞が出てくる。全編遠野在の人(佐々木鏡石氏)からの聞き書きであるが、興が跳ぶように昔話になっているところはやはり凄いと思う。
例えば53の章、「郭公と時鳥とは昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅きところを自ら食い、中の軟らかなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分は一層旨かるべしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。 妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。」
もはや現も夢も一色多。遠野の、山の神・山の人の伝説は前書きで謳われる通り「平地の人を戦慄させる陳勝呉広の書」である。
ちなみに陳勝呉広とは他の人よりも先に物事を行う人のこと。または、反乱をするときの一番最初の指導者のことをさす四字熟語であるという。
2024年11月29日(金)
想像力に活を入れるために『遠野物語』を読んでみようと思い立った。所収のちくま文庫版『柳田國男全集4』はすぐに見つかったが読み通せるかどうか自信がなくなるほどに活字が小さい。インターネットの図書館「青空文庫」には大きな字(というか自在変更できる?)で読めるが縦書きである。わがイメージには背反している。文庫を主体にしつつ読みづらいところ(ルビや地図など)は「青空文庫」で補完しようかなどとあれこれ御託を並べてからようやっと再読にかかった。と、これが面白い。若い頃の二の舞、またぞろとりこになりそうである。
2024年11月22日(金)
冬の寒さが訪れた数日前に龍眼の鉢植えにビニール製の「ポップアップ温室」をかぶせた。去年も同じ日に同じようなことをしている。温室の大きさに合わせて伸びた枝をかなり伐りとらなければすっぽり収まらない。枝は大きなごみ袋半分ほどにもなった。本末転倒の行いのようで、せっかくの新しい枝、南国来歴の龍眼の木には詫びながら、冬の寒さに勝ち抜いてくれよ、と言い聞かせた。私的風物詩のようである。
22日は一転陽射しが暖かく気温も20度近くまで上がった。ことしは温室の中にお魚の形をした温度計をテープで貼り付けてみた。日中は30度に近くなっていたが、陽が落ちてから温度計の目盛りを見ると測ることができる最低温度は10度。これは大昔に何度か使ったお風呂用の温度計だった。彼もこんなところで使われるとは思いだにしなかっただろう。
2024年11月15日(金)
昨年に続き年末調整をパソコンでやることになった。いまや必要なのは扶養控除等(異動)申告書と生命保険の控除だけなのだが、いざパソコン向かおうとするとつい身構えてしまう。昨年癇癪玉が破裂しそうになったことを思い出し、同じ轍は踏むまいとまず控除証明書の写真をスマホで撮ってパソコンに送った。どこまでが控除の対象になるかを調べると契約者でなくとも払い込みをしている者や受取人になっている者(いずれも近い親族にかぎるらしい)も申請できるとあるので控除証明書は計7枚にのぼるのであった。
クラウド労務のページには昨年のものがそっくり残っていた。それをなぞるようにして控除額を改め、新たな保険を追加し、さらに控除証明書の写真ファイルを添付し、去年よりもうんと早くに片付いた。やはり便利なようにできている。
ところで控除証明書は現物も提出しなければならないのでその添付用紙を印刷する必要が出てきた。ことし初めにパソコンを変えてから一度も使ったことのないプリンターを接続して何度かそのPDFファイルを印刷しようとしたがうんともすんとも言わない。
設定などをあれこれいじっているうちにプリンターを動かすにはプリンタードライバーというものが必要であることに気付いた(というかEightのことばが天から降ってきた)。慌ててCanonのホームページを開き該当するドライバーをインストールした。すると見事に動いたのである。プリンターを取り出してから約30分が経っていた。こっちのほうがなぜか嬉しい作業となった。
2024年11月12日(火)
日暮れが早くなると信号機のない歩道が怖くなる。通り過ぎてから、あ、人が渡ろうとしていたなぁ、と気付くのである。対向車が停止していた理由もあとからわかる。人にも車にも澄まない気持ちになるが、時すでに遅し、である。
免許更新前の高齢者講習のとき「夜間視力測ってみる人いますか」と教官が言った。両目で暗闇を覗き込みながら光りが見えたらボタンを押す検査である。任意とはいえ十数人の講習生のなかで手を挙げたのはぼくひとりだけだった。かすかな光りが時をおいて点灯するというがひとつも見えなかった。結果は夜間視力ゼロ。教官はみなに「昼間の10倍の注意が必要なんですね」とぼくを反面教師に仕立てるように言った。一年ほど前のそんな光景を反芻しながらほぞを噛むのである。
昼間は人が待っていればわかるので停まることができる。気づいくれた対向車にも感謝の意を伝えることができる。ところが夜はダメなのである。最寄りの駅までの道路には大きく左にカーブした、その曲がりっ鼻に歩道がある。渡ろうとしている人に気づいて急ブレーキをかけたことが1、2度あった。かすかな光りを信じて徐行する、これは肝に銘じておかねばならないとしても車の運転も神経戦めいてくる。
2024年11月9日(土)
8日は旧友三人と名古屋に遊んだ。当地在住O氏のプロデュースで名古屋城やトヨタ産業技術記念館を巡り歩いた。23、4歳の頃一年間ほど住んだ街だがどれもはじめて目にするような変貌ぶりである。
夕刻近くなってO氏は言った。昔住んでいたアパート見ていくかい? ときどき通りかかるんだ。まだ残っているよ。俄かには信じられなかった。あれから50数年経っている。当時すでに古びた木造建物だった。コンクリートの高層建物に生まれ変わっていてもおかしくはない。
昔の姿のままに建っていたアパートに人は住んでいる風ではなかった。隣接した大家さんが経営していた食堂は普通の住宅に変わっていたがここも空き家然としている。アパートの表の大通りに面した二部屋分が喫茶店になっていた。窓ガラスにはべニア板が張られていたがいまもかつての形をしている。よく入ってコーヒーを飲んだ覚えはあり、店を仕切る夫婦と仲良くなったが、肝心のふたりはおしどりだったか、喧嘩ばかりしていたか、もう思い出せない。O氏もY氏もこのアパートの一番奥のぼくの部屋を訪ねてくれた。U氏は写真を撮っておこうよ、と車の中から身振りで示唆してくれた。
家に戻って改めて写真を眺めていると、たった一年とはいえさまざまなことがあったのだと思い出された。共同トイレを挟んだ隣の男の顔も思い浮かんだ。意気揚々としていた一方で、消え入りたいほどの恥ずかしい思いもある。時は残酷なのか、それとも甘美なものなのか。
やがてもう人の住むことがないかつてのぼくの部屋の前には観葉植物の鉢植えがいっぱい並べられていることに気付いた。完全な空き家ではないのだ。ときおりの人の気配がする。玄関先のチャイムを押してみればよかった。そうすれば一気に過去に戻れたかも知れない。しかしあとの祭りであり詮ないことだ。余談ながらこの日一日スマホの歩数計は15,296歩を示していた。
2024年11月7日(木)
古い友人に連絡を取りたくていろいろと考えた。何年か前にメールめいたもので久闊を叙したことがあったのを思い出して、メッセンジャーを開いてみた。すると彼との長文のやり取りが残っていた。日付を見ると12年前である。これには驚いた。ついこの前のことのように思っていたのに干支がひと巡りしているのである。光陰矢の如しである。そのあとには確か「少年老い易く学成り難し」と続くはずだが、なんともはや。
2024年11月1日(金)
目をつむれば漆黒の闇、目を開けても薄明。どうもそんな心境のようである。打破すべく『男はつらいよ』のマドンナ後藤久美子篇・高校一年生から高校3年生までの3話を続けて観た。佐賀に続いて日田の祭り、鳥取の海と砂丘が出てきて、このあとは瀬戸内海の小島が舞台だという。さらに3話ほどあるらしいが時代を追って観てみたい気がする。若い頃の純愛は美しい、そんな心境になっているのだろうか。マドンナは名古屋に住んでいるという設定である。一年前に旧友たちと再会を果たした街だ。半世紀も前には一年ばかり住んだ街でもある。今週末にはまた会う約束をしている。何もかもが因縁めくのも、歳のせいであるのか。