日  録 「石の枕」  


2025年2月28日(金)

25日には、1月3日以来今年に入って2度目の「大戸屋」。ここは街角の食堂の風情が残っている。さらに昭和の、という冠詞をつけてもいいほどだ。和食が美味い。先回は最近家では滅多に食べられないようなホッケやサバなどの炭火焼きを注文した。こんどはかぼちゃコロッケと鶏の竜田揚げがメインのランチ定食。これでけっこうお腹がいっぱいになるから大したものである。

昨日帰り際に若い同僚らにこんど会うのは3月ですね、お元気で、と言うとひとりが咄嗟に「よいお年を」と返してきた。当意即妙、昨日も今日も春本番の陽気である、明日もそうらしいが、その後はまた寒くなるという予報だ。初雪が見られるかもしれないとしても、とりあえず日中のぬくもりにはほっとする。

2025年2月18日(火)

午後3時前、S駅前ロータリーの入り口に猿が一匹現れた。キョロキョロしながらゆっくりと走リ抜けようとしていた。ちょうどそれと直角に交わる道路をパトカーが近づいてきた。赤色灯は回しながらサイレンを鳴らすことなく猿を目指している。猿は歩度を速めて銀行建物のかげに消えた。顔は見なかったが大人の猿であった。パトカーは停まり警官が二人降りてきた。捕り物のいでたちではなかった。通報を受けて駈け付けたというところか。

猿はどこからきたのか。その後どうなったのか。気になるところだったが知る手立てはなかった。

2025年2月14日(金)

4時20分に目が覚めた。久しぶりに書き加えることができそうだったので起き上がりパソコンに向かった。遠い記憶のなかからあることを思い出した、それを書こう、と考えた。3時間経って600字ほどだったが、それでもいつもよりも多い。

昨日はよくしゃべるアルバイト先の社員が「明日はバレンタインデーでわたしはお休み。女子社員たちがチョコレートをくれるとして、次の日に私の分はなくなっているのに、ホワイトデーには分担金をいくらかとられる、何年も繰り返されるこの悲しい習慣をなくす手だてはありませんかね。実際去年は休みでなかったですがもう残っていなかった、つまり私は食べられなかったんですよ、それなのに……」と真顔で言ってきた。

「うーん。あなたの分もちゃんと残しておいてもらうように上司に言っとくべきですね」ぼくも真剣に答えた。「くれるがどうかわからないのにそれはできないのですよ。物欲しそうでいやですしね」。
誰も関心を示さないような自分のこと(「わたしは本当は火鍋なんて食べたくなかったのですが、付き合いというのがありましてね」など)か愚痴(「なんでわたしだけがこんな仕事をしなきゃいけないのですかね。わたしは一番遠くから通っているのですよ」など)しか言わない50代後半のこの社員である。ぼくはちよっと首を傾げて、

「仮に自分の分は残っていなくとも、大したお金ではないでしょうから、女子社員たちのためにも快く拠出したらいいじゃないですか」「しますよ。しますけれどもなんとも悔しいじゃないですか」。

それをケチくさいというのですよ、とつい呟きたくなった。とまぁ、ある意味で「小説よりも奇なり」のお話だが早朝に格闘した文章とはなんの関係もない。

2025年2月11日(火)

走行中「いま石の枕と言ったよ」と配偶者が言った。NHKラジオでは『おともラジ-浅草編-』を放送していた。ちょうど民話っぽい話を朗読しているときだったがそのことば石の枕は聞きそびれてしまった。家に戻ってネットラジオで確かめてみると予想通り「一つ家石の枕」の訛伝だった。

柳田国男は『日本の伝説』のなかで、
「浅草には今から四十年ほど前まで、姥が淵という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄い昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌で撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起こったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。(中略)姥神も、もとはやはり子供を守ってくださる神であったのです。」(江戸名所記)
と書き留めている。

閑話休題。ここから題名を借りた短い小説「石の枕」が文芸誌に掲載されたのが1982年。配偶者はそのことを覚えていたのである。ぼくは46歳で死んだ腹違いの長兄のことを書いた。何度も書き直したあと「うまくいったよ。載せます」寺田さんの朗々とした声が嬉しかった。いまなお心に残っている。永遠のファンであり続けてくれる実姉は「これがいちばん好きだよ」と言ってくれる。配偶者も読んでいたのかも知れない。そう思えばあの頃もっとがんばっておくべきだったと慙愧の念も湧くのである。

2025年2月4日(火)
 
立春だった昨日の夜、一日遅れでお寿司をかじった。恵方巻というやつである。どこかで聞いて記憶にとどまっていた方角、西南西さてどっちだったか、と椅子に腰かけながらきょろきょろ見回した。
 
ちょっと気になったのでネットで調べてみると恵方の方角は東北東、西南西、南南東、北北西の4種類、方角の決め方は陰陽五行説の十干をもとにしている、幸運をもたらす歳徳神の居る場所は年によってあらかじめ決められているから決める人は存在しません、とあった。

わかったようなわからないような説明だったが古来の天文学だから仕方あるまいと思った。昔々は節分といえば豆まきの「福は内」のみであって、恵方巻をかじる風習はなかった。縁起かつぎに誰がが広めたことは確かである。一日遅れでは運も遠のくというものだろうけれど。

2025年1月31日(金)

今日で1月が終わってしまう。ガス代が二万円を超え電気代にいたっては3万円に迫る。これがこの月を象徴している。寒さのツケみたいなものであるが、これにガソリンや灯油の費用を加えればまさに光熱費地獄である。一方で諸物価の値上げも続いている。夏は灼熱冬は厳寒、年がら年中煉獄生活というところか。

そんななか浅田次郎の『流人道中記』を読み三池崇史監督作品『一命』を観た。それぞれ幕末と江戸初期と二百年余り隔たっているが、前者には東北の飢饉による百姓の悲惨な生活、後者には浪人の悲哀が描かれている。

『一命』は減転封にあった広島藩福島正則の元家来が彦根藩主井伊家を訪れる。お庭を借りて切腹させてほしいというのである。お金欲しさの狂言切腹のつもりが本当に切腹をする羽目に陥る。けなげに生活を営む浪人の家族を襲う不幸、ハラハラしながら観ていたが悲惨な結末にいよいよ気が滅入ったものである。

ともに底流には武士とは何かという問いかけがあるように思ったが、武士にかぎらず、人生はかくも悲しいものなのかと考えさせられる。楽観論者にも得難い気づきだったというほかない。

2025年1月21日(火)

夕方になって雨が降ってきた。みぞれっぽい雨であり気温がもう少し下がれば雪になるかも知れないと思われた。雨脚はけっこう激しくなっていった。予報では降水確率20パーセントだったように思うので意外な気がしたが、これは現実である。人知を超えた自然の理というべきか。

雨脚と書いてみたが「わたしなら雨足と書くなぁ」と唱えた広島女学院の友人を思い出した。ちゃきちゃきの広島っ子で当時たくさんの元気を貰ったものだ。平和大通りのベンチに坐って足か脚かを話題に夜明けまで話し込んで飽きない人だった。

また彼女はドイツ文学者で太宰治や檀一雄などと親交があった作家の中井正文教授の研究室にぼくを連れて行ってくれた。長年の知り合いか自分の叔父さんかのように敬語なしで淀みなく話す姿は新鮮だった。いまごろどうしているだろうか。もし56年ぶりくらいに逢えることができたとして、面影は残っているだろうか。ぼくのことを覚えているだろうか。いつしか雨は止んでいた。寒い夜が戻った。

2025年1月14日(火)

仮にSさんとしておこう。59歳の新人アルバイトである。初出勤の日に、一日仕事を終えたあと、冷蔵倉庫のなかがこんなに寒いとは思わなかった、と感想を漏らした。次の日は午前中だけ仕事をし体調優れずという理由にて早退した。注文した弁当だけは食べた。ニコニコとして嬉しそうに食べていたという目撃情報がある。その両日ぼくは休日だったため本人の挙動を見ていない。

一か月ほど前の面接時にあいさつを交わしたが一瞬だったので印象に残っていない。その際ぼくは最高齢ですと付け加えたような気がする。まったく余計なことを言ったものである。次の日ぼくは会うのを楽しみに出勤したがSさんは来なかった。その次の日も休んだ。その次は熱が出たために欠勤するという連絡が入った。6日目、7日目はあらかじめ決められていた公休日だった。すなわち一週間が過ぎて実働一日半。いよいよ明日来るかどうかに注目が集まる。

欠勤の理由をその都度電話で知らせてくるところをみればまだ勤める気はあるのかも知れない。いやそれはただ習慣的に律義なだけか決断力がないのかも知れず、実はなし崩し的に退散ということも考えられる。どちらに転ぶか、ささやかな日常のどうでもよい関心事である。それにしてもこんなわがままを自分自身に許せる性格は羨ましいかぎりだが、江戸弁でいえば「てーげー(大概)にしろよ」ということではある。

2025年1月9日(木)

遅ればせの正月休みが今日で終わる。明日が誕生日なので今日は75歳最後の一日となる。いわゆる団塊の世代は来年の4月を過ぎると全員が後期高齢者になってしまう。あと一年ちょっとである。

これに押されるようにして総人口に占める後期高齢者の割合が25パーセントにもなるという。少子化のせいもあるが、おしなべてわれらが元気なことが比率を上げる一因だろう。医療・介護に問題が出来する「2025年」などと喧伝されるがここは「元気でごめんなさい」と謝るしかあるまい。

突如お好み焼きを食べたくなったので近くにお店はないかと調べてみるとごく近くにチェーン店が見つかった。灯台下暗しとはこのことか。お昼を過ぎた頃その道とん堀という店に立ち寄ってみた。

国道沿いのCoCo壱番屋のお店の屋根の上にふたつの看板が重なって乗っていた。合体店舗とは珍しいと半信半疑で中に入った。お好み焼きもあるの? と女子店員に聞けば駐車場を挟んだ向かいの建物を指さして教えてくれた。

外に出て看板のない平屋建て、おまけにわかりづらい入口をやっと見つけた。お客さんはひとりもいない。大声でよばうとひげを生やした調理人らしき人が出てきた。持ち帰りはできますか? できますけれど自分で焼いていただくことになります。それはかえって難儀なのであきらめた。

このお店、夜の居酒屋がメインであるようだとあとで気付いた。

せっかくの思いつきだからと、冷凍のお好み焼きを買って帰った。二人分〆て600円、広島風の記憶は甦らなかったが、まぁ美味しかった。

2025年1月7日(火)

今日から3連休がはじまった。起き抜けに餅をひとつ食べ、2時間くらいあとに七草がゆに入っていたふたつの餅を平らげた。これらの餅はとなりの人や松本在住のTさんが自ら搗いた餅をくれたもので実に美味しいのである。

11年前のこの日の日記を読んでみると3日から5日にかけて息子の招待で九州に行っている。「修学旅行を含めて4度目の九州、「よかとこ」だと改めて思う。福岡、大分、宮崎などにいる学生時代の友人たちと会う時間はとれなかったが、代わりに何人かと電話で話した。すぐ近くに来ているというのでつい声が弾んだ。別府での一夜、夜景を見ながら話した友などは「また、そのうち会えるじゃろう」と言ってくれた。同感だった。住みやすそうな福岡の街や人情、さらには久々の長旅の昂揚に、いましばらくは心地良いカルチャーショックが続く。新年の出だしとして上々だ。」などの感想を残している。

そしてその冒頭は「新しい年になって今日はもう人日の節句・七草がゆである。」とあった。人日の節句とは何か。自分が書いたはずなのに忘れていた。もう一度調べてみると陰陽五行説でいう五節句のいちばんはじめだとわかった。このあと「桃の節句」「端午の節句」「七夕の節句」「重陽の節句」と続き、いずれもぞろ目の日なのに、「人日の節句」だけはちがう。最大の慶事1月1日を敬遠したのだというが、そんなことよりもこの日の眼目は「(じんじつのせっくとは)文字通り「人の節句」を意味し、人を慈しみ人の幸せを願う日」。七草がゆに肖って世界中にはびこる邪気を払いのけ平和に安穏に過ごしたいものだ。

2025年1月3日(金)
 
あけましておめでとうござてます。今年もよろしくご愛読のほどお願いします。

正月三が日、はじめてのお休み。朝から薄曇りで、日中は昨日などに比べればひときわ寒そうである。
 
東松山の商業施設に行く用事があったので近くの高坂神社で初詣でを済ませた。古さびた小さな社殿が鳥居の30メートルほど先にポツンと建っている。両脇には心を込めて作られたと思われるような背丈の半分ほどの門松が立ち、鈴の上には青々とした5メートルはある太い注連縄が張り巡らされている。社殿とは対称的に氏子たちの愛情が随所に感じられる。

ネットで調べると坂上田村麻呂が日本武尊が陣を休めた故事にちなんで創建した古刹で、明治にいくつかの周辺の神社を合祀していまの名前になったという。社殿の前には賽銭箱もなく格子の隙間から硬貨を投げて参拝した。はじめは境内にはわが家族だけだったが、やがて何台かの車に乗った人たちがやってきて急に賑わいを呈した。これぞ鎮守という感じがして一層嬉しかった。


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